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2012年4月21日 (土)

中公バックス『日本の名著18 富永仲基 石田梅岩』

石田梅岩の『都鄙問答』をあらためて読みました。すごいです。日本人の思考様式の基本的なところが言語化されています。43歳で商家の奉公を辞し、45歳で初めて講席を開き、53歳の頃には門人が200名を超えます。

梅岩は実人生の経験から学ぶところが多かった人だけに、言うことが具体的で浮いたところがありません。そうした人生経験と儒学を手がかりに、天地の法則と人間の心とを調和させることを旨とする「心」の学を立てました。宋代の儒学などがヒントになったところはあるらしいのですが、何と言ってもこの発想は日本人の日本的な感受性にマッチしています。

このことはふつうの人びとには共有され、かつ実人生の中で確認されてきた思想でもあったのですが、当時からちょっと知恵のついた小賢しいインテリには評判が悪かったようです。こんなことを言うからだよねと思われるのが次のくだりです。

「学者は心を知ることを先にしなければなりません。心を知れば、みずからの行いを慎み、自らの行いを慎めば礼に合致し、したがって心が安らかです。心の安らかなのが仁である。仁は点に備わる根本の〈気〉です。天の一元気は万物を生みだして養います。この心を会得することが、学問の始めであり終わりでもある」(246頁)

浮き世のしがらみにとらわれて、ただでさえ心安らかならざりし当時の知識人たちは、梅岩を相当批判もし、憎んでもいたようです。梅岩の本が当時のベストセラーになったことも影響していたことでしょう。

「都鄙問答」の中にもつまらない言いがかりをつけるインテリが問答の相方としてしばしば登場します。これが江戸時代のバカの見本市になっていますが、今もインテリも愚かさ加減は当時とまったく変わらないですね。屁理屈に対しては梅岩はこんなふうに応じます。

「あなたの言うことは枝葉末節にすぎず、書物のうえの議論であって根本が忘れられている」(218頁)

思うに梅岩が憎まれるのは、有象無象のインテリと違って、「自分で考える」人だからでもあります。有名な温故知新の「故きをたずねて新しきを知れば」(論語「為政」)のところをこう解釈します。

「『故き」とは師から聞くところであり、『新しき』とは自ら考えだしたことだ。みずから考えだしたのちには、学んだものが自分の身について、誰にたいしても自由に応対することができる。そこで他人の師となることができるのだ」(183頁)

これに続けて「ところがおまえさんは心を知らないので自分自身が迷っている。そのうえ他人まで迷わせたいと思うのですか」(同頁)とくるので、言われた方は血圧が上がりっぱなしになったことでしょう。

でも、ほんとに今もまったくそのとおりです。梅岩みたいな人がいなくて「自分で考えること」をそもそもしようとしません。できないということでもあるのですが、ちょっと、それってレベル以下でしょう、という人が研究機関のポストにしがみついて、学内政治ではやたらと張り切ってしまうというのが珍しくないパターンです。

私も梅岩を鏡にして、自分なりの流儀で勝負をかけていくつもりです。

あ、そうそう、この間の富永仲基の思想もすごいですよ。有志は是非お読みください。

(中央公論社昭和58年1240円)

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