« 内村鑑三『キリスト教問答』 | トップページ | 『中公バックス 世界の名著68 マンハイム オルテガ』 »

2012年4月 8日 (日)

C.S.ルイス『キリスト教の精髄』柳生直行訳

いつ読んでもすごい本です。今書いている社会学の教科書で引用したところを以下に紹介します。

アリストテレスは「人は政治的動物である」といいましたが、ポリスという言葉の解釈に次第では、この表現は「人間は社会的動物である」とも訳されます。いずれにしても、人は集団生活をする生き物として進化し、社会の中で生きてきました。本書の冒頭でも述べたように、社会の中で生きることは、半ば本能のように私たちに行動に組み込まれています。

人が集まったときに生まれる愚かで邪悪な側面にはどうしても目がいきがちですが、そう悪いことばかりではありません。社会が一から十まで悪事で構成されていたとしたら、人類はとうの昔に滅び去っていたことでしょう。

実際、私たちは社会の中に曲がりなりにもささやかな喜びと幸せを見つけてきましたし、長い歴史の中で、社会の制度を自分たちで少しでも改善する手だてを開発してきました。今ここにある社会をよりよくする可能性と希望は、ありがたいことにも常に残されています。人が単に社会の奴隷になるだけの存在でもなかったことは歴史が証明しています。

もちろん、現実社会は常に個人に対して優しいとはいいがたいもので、その改革の歩みは確かに遅々たるものですが、その希望のありかもまた「社会」すなわち人びとが集まることの中に見出されます。
 このことをC.S.ルイスは次のように表現しています。

「人びとの間では、彼らが家族やクラブや労働組合などでいっしょにいる時、その家族とかクラブとか組合の「精神」ということがよく言われる。彼らがそのような「精神」について語るのは、個々のメンバーがいっしょに集まる時、確かに、彼らが別れている時には見られないような特殊な話し方とか行動の仕方を発揮するからである。(この共同行動は、むろん、各メンバーの個人的行動よりも良い場合もあり、悪い場合もある。)それは、いわば、一種の共同的人格が生まれたようなものである。もちろん、それは本当の人格ではなく、人格に似たものというにすぎない。しかし、それがまさに神と人間との違いの一つなのである。父とこの共同生活から生まれるものはほんとうの人格であり、事実、神なる三つの人格の第三位格と言われるものなのである」(268頁)

これは三位一体の「聖霊」の説明です。以前のブログで内村鑑三を引き合いに出しながら、キリスト教が単純な一神教ではなくて、その神概念は「社会」を内に含むということを見ましたが、ルイスもまたこの点については極めて深い理解を示してくれています。

ルイスはキリスト教の神を「一種のダンスでも言うべきもの」にたとえます。

「こんなことは重要なのだろうか。然り、世界中のいかなる事柄よりも重要なのである。この三位一体のダンス、どらま、あるいはパターンが、すべて私たちひとりひとりの内に演じられなければならない、(逆に言えば)わたしたちはそれぞれのパターンの中に入り、そのダンスに参加しなければならないのである。われわれがそのために造られた幸福、つまり、ほんとうの幸福、に至る道は、このほかにはないのだ」(同書268頁)

これが人が集まることによって生まれる「善いもの」の原基的イメージです。この感覚をルイス以上に鮮やかに描き出した思想家を私は他に知りませんが、これは非キリスト教徒の日本人であっても、決して理解できないものでもなければ、実感できないものでもありません。

人として生まれた以上、私たちは絶対価値や絶対者というものと、生まれてから死ぬまで一度も関わらずに人生を送ることはできません。人生の様々な節目において、人はなぜこの世に生を受け、亡くなっていくのか、人生の意味はどこにあるのか、ということに思いを馳せない人はいないでしょう。

日々の社会生活の中で感性と知性をはたらかせるなら、人びとは他者に対して神にも悪魔にも、仏にも鬼にもなりうることがわかります。そして、たいていの場合はその中間のどっちつかずのところをうろうろしています。どうかすると、意識の上では「世のため、人のため」になることをしたいと思っていながらも思うようにいかず、ときには正反対のことをしてしまうことさえ起こりえます。

しかし、この原基的イメージを意識の外に一度括りだしておくと、それは、とりわけ「無宗教」的日本人である私たちの場合、ふだん意識しない自らの「内なる神」を映し出す鏡となります。

もちろん、絶対者を意識したからといって善人が増えるといったものではないでしょうけれど、私たちが自らの神に自覚的になることは、日本以外の国々の宗教的文化を理解するためには必ず行わなくてはならない作業です。

また、このことは「無宗教」的で無自覚な善行をより強い確信のもとに行わせる動因ともなることでしょう。具体的には「人びとがこころの中で善いと思うことは、みんなで即座に決めて、勇気を持って堂々と実行しましょう」ということです。

何のことはありません、これでは聖徳太子の十七条憲法と同じです。しかし、これがひょっとしたら今日のほうが、太子の当時よりもできなくなっているのではないかと疑う人も少なくないでしょう。

この状況を少しでも改善するためには、人びとの間に絶対価値に基づく行動規準が共有されなければなりません。そしてそのとき、この社会の原基的なイメージが確認される必要が出てくるでしょう。

(新教出版社1977年2100円)

|

« 内村鑑三『キリスト教問答』 | トップページ | 『中公バックス 世界の名著68 マンハイム オルテガ』 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。