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2012年4月 4日 (水)

G.フェレーロ『権力論(上)(下)』伊手健一訳

フェレーロはイタリアの歴史家です。現代政治史が専門です。ハンガリーの政治思想家ビボーが講義を受けていたと聞いていたので、以前から注目はしていましたが、わが国ではしっかり翻訳が出ているところがすごいですね。今回読むのは二度目ですが、あらためていろいろと発見がありました。

フェレーロの権力論は独裁者の心理を内在的に分析する点で新鮮です。フェレーロによれば、独裁者の恐怖心は「正統性」の欠如に由来するとしています。

人間社会においては、どんな形でも必ず政治的指導者が存在し、統治機構が形成されます。そこでは体制を維持するために権力が必要となります。必ず例えば治安の問題一つを考えてみても、権力は常に何らかの形で行使されなければなりません。

政治的指導者の決め方は社会ごとにそれぞれで、時代とともに変化してきました。一昔前までは世襲制と貴族・君主制、現代では選挙制と民主制が主流となっていますが、このとき重要になるのが、社会の成員が納得できる決め方をすること、すなわち正統性原理です。

例えば、狩猟民族のリーダーは、狩りの際に最も適切な指示を出し、仲間を統率できる人が選ばれるでしょうし、農耕民族のリーダーもまた、共同作業をとりまとめることに秀でた人を選ばなければ、生き残れなかったでしょう。また、いったん選んだリーダーの命令には服従し、改選されるまでは協力することにしておかなければ、集団全体の死活問題になります。

この正統性原理は人類最初期の頃から一種の「暗黙の契約」(62頁)として機能してきたと見ることができるでしょう。そして、これがあって初めて、社会のある人が命令権をもち、他の人びとがそれに服従する義務をもつということが根拠づけられます。この意味で、正統性原理は権力争奪のために繰り広げられる暴力の連鎖を断ち切り、社会に安定をもたらすはたらきをします。

ところが、独裁者は正統性原理によらずに、それもしばしば不当に権力を手にするため、いつなんどき、「正統な」権力者が登場して自らの地位を追われることになるかもしれないという恐怖感にさいなまれることになります。

「独裁者は正統性原理を侵すことにより権力を獲得する故に、権力を握る瞬間に、必ず恐怖が独裁者を襲うのである」(41頁)

 この恐怖が独裁者と服従者との間で相乗作用を起こすと(しばしばそれは起きるのですが)、大変なことになります。権力は服従者からの反抗の危険におびえ、服従者を恐怖させようとし、服従者はまたこれに対して憎悪をかき立て、反抗精神を高めることになります。

 反対に権力が恐怖を引き起こせば起こす程、服従者はますます恐怖を持つようになり、服従者が恐怖を持てば持つ程、権力はますます恐怖を引き起こす必要があるのである。この必然的な結果は、想像もできない恐ろしいことになるであろう。人類の受けるあらゆる不幸のうちで、権力と服従者との間の相互恐怖こそ、最も恐ろしいものである(同『権力論(下)』209頁)。

フェレーロは人類が正統性原理を確認し、正統原理に裏打ちされた「正統権力」を立てることによってしか、この権力の恐怖から解放される道はないと考えているようですが、同時にそのことの困難さも十分承知しています。

というのも、「絶対的に合理的、かつ公正な正統性原理の発見」はフェレーロの存命中はもちろん、現在に至ってもなされていませんし、そもそもそんなものは存在しないという今日の社会の虚無的世界観も有力だからです。

また、その一方で、宗教的原理主義者はそれぞれに明確な正統性原理を打ち立てて、その正義のためには暴力=テロルも辞さないという、これまた困った形の暴力の連鎖が生じているという事実もあるからです。

しかし、正統権力が暴力の連鎖を断ち切るために構想されているという基本に返るならば、正統原理の効用を今一度検討してみる価値はあります。皆さんも、まだ人類に対する希望は捨てたくないでしょう。私もそうです。

(竹内書店昭和47年)

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