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2012年4月30日 (月)

渡部昇一『人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?』

死後の魂が存在するかしないかという問題は、「存在しない」方に賭けると、魂が残ったときにばつの悪い思いをするだけでなく、下手をすると自暴自棄になっていたかもしれない前世に悔いを残します。しかし、「存在する」方に賭けると、魂が残ったときに「やっぱりね」ということになりますし、残らないときには後悔しようがありませんので、まったくリスクのない賭けということになります。

これはパスカルが言っていることで、著者はこれに感銘したのがきっかけで大学在学中にカトリックになったそうです。今まであまりご自身の信仰については語られなかったのですが、なるほどそういうことだったんですね。そして、この賭けを著者流に言い換えると、

「本当は信じずに、精神的な充足感のない平凡な人生を送るか、信じることによって、精神的に、より満足や喜びの得られる生活を送るのか、どちらに賭けるのか、という問いなのです」(47頁)

ところで、あの世や魂といえば、スピリチュアリズムが知られていますが、本書によれば、これは聖書中心主義をとって聖母マリアや聖人信仰をやめてしまったプロテスタントが、それらに代わる霊魂の問題への通路として生まれてきた思想なのだそうです。

ほかにも、ウォレスやトマス・アクィナスやアレクシス・カレルの思想の霊魂や奇跡についての考え方が紹介されていて、興味深いのですが、何より、著者自身の次の言葉が印象的でした。

「私自身がそうですが、魂の存在を信じ、霊魂は不滅だと考えれば考える程、また、死後の世界もちゃんと存在すると信じれば信じる程、自分の生きている日々に、安心感が湧いてきます。そして、もっと楽しく、心躍ることは、ソクラテスも言っているように、霊魂が存在すれば、死後の世界で、あの懐かしい人にも会えるかも知れないということです。考えただけで、ワクワクしてくるはずです」(219-220頁)

確かに、亡くなった家族や友人あるいは先生に会えると思うと楽しいですし、ソクラテスやプラトンにも会えるものなら会ってみたいものです。そのためにもこの世でできる限りたくさんいい経験を積んでいって、冥土の土産話にしたいものです。

(海竜社2012年1500円+税)


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2012年4月28日 (土)

片山ユキオ・東百道『花もて語れ』1〜4

朗読という地味な世界がこんなに面白い青春マンガになりました。びっくりです。朗読には独特の深さがあるとは思っていましたが、作品をどう解釈し、伝えるかという点をマンガというジャンルでここまで立体的に描けるとは驚きです。

実は、ハンガリーに留学していたとき、詩の朗読の全国コンクールを決勝まで見たことがあります。これが面白いんです。作品自体の素晴らしさと、それを選んで、読み込んで、効果的に伝えようとする朗読者の人となりまですべてひっくるめて感動的な世界が広がります。

毎晩のニュースが終わった7時55分くらいでしたか、役者が詩を朗読する番組もありました。今もあると思いますが、ホームステイ先の夫妻も毎晩これを楽しみにしていて、今日の朗読はまずまず、とかいまいちとか言いながら見ていました。

で、ときどき実に感動的なのがあるんですよね。目の前に作品世界が広々と開けるようなすごいのが。これは演劇のそれと近いものなのかもしれません。実際、かつての名優ラティノヴィチが詩を朗読すると、聴衆は感動でしばらく席を立てなかったと語り草になっています。

本書は主人公の女性が朗読の世界に入って、精神的にも徐々に成長を遂げていく物語になっています。朗読の場面の絵が創意工夫に満ちていて新鮮な驚きがあります。涙腺刺激ポイントもふんだんに用意されていて、しみじみとさせられたり、勇気づけられたりします。青春ものですから。

連休中にでも是非どうぞ。しかし、9月刊行予定の5巻が待ち遠しいです。

(小学館2010年〜2012年、543円〜590円+税)

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2012年4月27日 (金)

若森みどり『カール・ポランニー 市場社会・民主主義・人間の自由』

カール・ポランニーの仕事を著作に即して内在的に論じた良書です。ポランニーの著作をここまで丁寧に読み込んで全体像を明らかにしたのは、わが国はもとより、海外の研究書を含めても初めてで、貴重な試みだと思います。

わたしが気になったところはハンガリー語の固有名詞や地名の表記でした。「コロスヴァール」→「コロジュヴァール」、「サバドゴンドラ」→「サバドゴンドラト」、それから、クルージュ=ナポカはコロジュヴァールのルーマニア語で、トランシルヴァニアのそれではないこと、あと、フェレンツィはドイツから招かれた心理学者ではなくて、ハンガリー出身といったことくらいでしょうか。(20-21頁)

細かいことですが、第二刷から修正していただけると嬉しいです。

読解の内容としてはさすがです。ただ、ポランニーは他人から重要な影響を受けたことを隠す人なので、彼が書かなかったことを注意しておく必要があると思います。

本書ではマルクスの『経済学・哲学草稿』にポランニーが強く影響を受けたことが書かれていて、なるほどと思わされました。ただ、それだったらルカーチの疎外論がマルクス草稿発見によってその意義を確認されたという思想史的事実をふまえて、ルカーチとの交流と影響についても検証できるのではないかという気がしました。

今後そのあたりにも触れてもらうとありがたいです。それとも、ショムローの影響も含めて、私がやったほうがいいのかなあ。ルーマニアまで行って。

それはともかく、全体にいい研究書でした。著者とは面識がありますので、以上のことは直接お手紙書いておきます。

(NTT出版2011年4000円+税)

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2012年4月25日 (水)

竹内洋『革新幻想の戦後史』

「左翼にあらざれば人にあらず」という雰囲気の名残は私が大学に入学した頃まではかすかにありましたが、卒業する頃にはまったくなくなっていたような気がします。本書は1942年生まれの著者の体験を含む戦後社会史になっています。実証資料もふんだんに使われていて説得的です。

私の頃は1970年代後半だったので、学生が加速度的にノンポリ化していくところでした。公務員の師弟が全国から集まってそれぞれの大学に通うという学生寮にいたので、東京のほとんどすべての大学の学生と接することができましたが、政治的な興味や関心がある学生は数えるほどでした。ましてや寮生で学生運動セクトに属している人はゼロでしたね。

ただ、自分も含めた1958年以降の生まれあたりから、比較的多数派だった愚直な先輩たちと違って、小賢しくてセコい奴が増えたなあという印象を持っています。残念ですけどね。これがどうしてかはよくわかりませんが、それからしばらくすると「新人類」とか言われるようになって、もっとわけわかんなくなっちゃいました。

私は学生時代は音楽と読書に夢中でしたので、そういう連中とは付き合えないなあと思っていましたが、かといって上の世代の政治的に熱い人たちはすでに学生ではなかったので、本書に出てくる人達はもっぱら大学生協の書店の背表紙でお馴染みの、当時の「一昔前の知識人」という感じでした。

もちろん当時現役で、私もよく読んでいた知識人たちも含まれますが、だんだん『世界』が読まれなくなり、『朝日ジャーナル』も『現代の眼』もなくなっていく中で、丸山真男も「後衛」になっていったことを覚えています。ニューアカとか流行ったりしたころにはもう完璧に革新陣営は過去の人になっていました。

著者は福田恆存や小田実、石坂洋次郎の人と作品を、雑誌では『世界』、事件としては「旭丘中学校事件」、あるいは東大教育学部などをとりあげて、説得的に論じています。そもそも、この取り上げ方だけでも著者のセンスの良さが、わかる人にはわかると思います。一見意外ですが、読んでみるとなるほどという象徴的なテーマです。

で、とにかく戦後の知識人の多くがいかに大衆に迎合するかを考えて千鳥足で右往左往していたかが活写されています。行き着く果てが今日の「劣化した大衆社会圧力」(512頁)の支配する社会、あるいは「想像された多数者による監視社会」(同ページ)だというわけです。

悲観的な現状認識で結ばれていますが、全体に読みやすい本で、かつ面白く読ませてくれます。それにしても、もはや「戦後」も歴史になってきたんですねえ。

(中央公論社2011年2800円税別)

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2012年4月23日 (月)

内田樹『街場の読書論』

いつもながら絶好調の内田先生です。大学を辞められて、ますます快調なのではないでしょうか。体感的に腑に落ちるのが内田流テクストの醍醐味ですが、本書もいろいろと深く納得させられることがたくさん書かれていました。以下印象に残った箇所を挙げておきます。

・「おそらくは[日本の]批評家たち自身が『どうすれば自分は他の人間よりも知的に見えるか』という競争に熱中しているので。自己顕示にも自己治癒にもかかわりのない知的営為が存在しうるということがうまく理解できないのだろう」(35頁)

・学ぶ(ことができる)力に必要なのは、
 第一に、「自分は学ばなければならない」というおのれの無知についての痛切な自覚があること。
 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
 この三つの条件を一言で言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。(287-288頁)→この一言が口にできないことが学力低下に関係しているというのは、納得です。

・講演会などで問題行動を起こす人は例外なく身体が硬いということ。「公共性と新体制は相関する」(360頁)→確かに学生もそうです。そういえば身体が柔らかい不良って想像しにくいですね。

・「『言論の自由』は『そこにある』ものではない。私たちが身銭を切って創り出すものである。(372頁)→ぼんやりしていると自分たちで勝手に規制をかけ合ってしまいます。わたしももう少しその点を意識しながら発言することにします。職場の空気がどんどん悪くなってきていますので。

あらためて勇気と元気が湧いてきました。カンフル剤みたいな本です。

(太田出版2012年1600円+税)

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2012年4月22日 (日)

小池和男『日本産業社会の「神話」』

一般に日本の会社の特徴と思われていることがらが、冷静に国際比較してみると、まったくそうでないどころか、正反対の方向に進んでいたりするんですね。実に勉強になります。本書によれば、

・日本は集団主義どころか激しい個人間競争にさらされて、個人がドライに頑張っている。
・日本人は欧米人ほど会社が好きではなくて、忠誠心も薄い。
・「年功賃金」と呼べるほどのものでもなく、査定による個人間格差も激しい。
・労働時間が多いというわけでもない。
・日本だけではなく、諸外国も結構企業別労働組合で、経営陣への発言が期待されている。
・欧米は一国の研究開発費の過半が政府資金だが、日本はその6分の1にすぎない。つまり、政府が力を入れたから技術的優位が保ててきたわけではない。(今後は国も力を入れるべき。)

といったことが、可能な限り実証的データに基づいて、極めて説得的に述べられます。会社経営に携わる人は必読でしょうね。組合活動のことも重要な指摘がなされています。今後の活動方針の参考にします。

わが国は世界の中で自分たちだけが特殊で、どうかするとそれだからこそ優れているとまで思い込みかねないのですが、その態度こそが井の中の蛙なんですね。一旦悪くなってくると神頼みの精神論になってしまいますが、ついに神風は吹いた試しがありません。

こんなときこそしっかり現状を見つめ、自分の頭で考える必要があるのですが、妄想の中で祈りはじめちゃうんですよね。ああ、これは旧日本軍の参謀本部ではないですか。小賢しい学校秀才だけを集めるからあんなことになるんです。

(日本経済新聞出版社2009年1,800円+税)

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2012年4月21日 (土)

中公バックス『日本の名著18 富永仲基 石田梅岩』

石田梅岩の『都鄙問答』をあらためて読みました。すごいです。日本人の思考様式の基本的なところが言語化されています。43歳で商家の奉公を辞し、45歳で初めて講席を開き、53歳の頃には門人が200名を超えます。

梅岩は実人生の経験から学ぶところが多かった人だけに、言うことが具体的で浮いたところがありません。そうした人生経験と儒学を手がかりに、天地の法則と人間の心とを調和させることを旨とする「心」の学を立てました。宋代の儒学などがヒントになったところはあるらしいのですが、何と言ってもこの発想は日本人の日本的な感受性にマッチしています。

このことはふつうの人びとには共有され、かつ実人生の中で確認されてきた思想でもあったのですが、当時からちょっと知恵のついた小賢しいインテリには評判が悪かったようです。こんなことを言うからだよねと思われるのが次のくだりです。

「学者は心を知ることを先にしなければなりません。心を知れば、みずからの行いを慎み、自らの行いを慎めば礼に合致し、したがって心が安らかです。心の安らかなのが仁である。仁は点に備わる根本の〈気〉です。天の一元気は万物を生みだして養います。この心を会得することが、学問の始めであり終わりでもある」(246頁)

浮き世のしがらみにとらわれて、ただでさえ心安らかならざりし当時の知識人たちは、梅岩を相当批判もし、憎んでもいたようです。梅岩の本が当時のベストセラーになったことも影響していたことでしょう。

「都鄙問答」の中にもつまらない言いがかりをつけるインテリが問答の相方としてしばしば登場します。これが江戸時代のバカの見本市になっていますが、今もインテリも愚かさ加減は当時とまったく変わらないですね。屁理屈に対しては梅岩はこんなふうに応じます。

「あなたの言うことは枝葉末節にすぎず、書物のうえの議論であって根本が忘れられている」(218頁)

思うに梅岩が憎まれるのは、有象無象のインテリと違って、「自分で考える」人だからでもあります。有名な温故知新の「故きをたずねて新しきを知れば」(論語「為政」)のところをこう解釈します。

「『故き」とは師から聞くところであり、『新しき』とは自ら考えだしたことだ。みずから考えだしたのちには、学んだものが自分の身について、誰にたいしても自由に応対することができる。そこで他人の師となることができるのだ」(183頁)

これに続けて「ところがおまえさんは心を知らないので自分自身が迷っている。そのうえ他人まで迷わせたいと思うのですか」(同頁)とくるので、言われた方は血圧が上がりっぱなしになったことでしょう。

でも、ほんとに今もまったくそのとおりです。梅岩みたいな人がいなくて「自分で考えること」をそもそもしようとしません。できないということでもあるのですが、ちょっと、それってレベル以下でしょう、という人が研究機関のポストにしがみついて、学内政治ではやたらと張り切ってしまうというのが珍しくないパターンです。

私も梅岩を鏡にして、自分なりの流儀で勝負をかけていくつもりです。

あ、そうそう、この間の富永仲基の思想もすごいですよ。有志は是非お読みください。

(中央公論社昭和58年1240円)

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2012年4月19日 (木)

モルナール・タマーシュ『語る神 モルナール教授との対話』聞き手:ヤーライ・ユディト

モルナールは1921年にハンガリーに生まれ、1946年に祖国を出て、ベルギーそしてアメリカへと渡ります。1949 年からアメリカの大学で教鞭をとり、最後はエール大学教授。その後、体制転換後のハンガリーにもたびたび帰国しては大学で教えていました。略歴と著書の部分訳は私のホームページにも記しておきましたので良かったらご覧下さい。

本書はインタビュー集ですが、モルナールは聞き手のヤーライ・ユディトのかなり突っ込んだ質問にきっちりと答えていて、彼の立場を理解するのに役に立ちます。カトリックの立場を公言している哲学者ですが、本当にそのとおりの内容です。読んでいてまず頭に浮かんだのはG.K.チェスタトンで、それから、法哲学者のホセ・ヨンパルト先生です。

特に神の「祝福」を信仰の中心に置くところがそうです(40頁)。チェスタトンも、まず何よりも神の祝福に対する感謝だというようなことをどこかで言っていました。霊と肉の二元論も、肉のほうにも悪の根源として排斥するのではなく、霊的な意義を認めていて、何事にもポジティブなカトリックらしいなと思います。

本書を読むのは二度目ですが、最初に読んだ時のことをほとんど忘れていました。諸外国語で40冊以上の著書がある思想家ですが、わが国ではほとんど知られていません。どの著書から紹介しようかと思って迷っていますが、本書を読んであらためて彼のユートピア批判についての本にしようかと考えているところです。

最近ようやく抱えていた翻訳の仕事から解放されそうですので、何かまたコツコツと訳してみようかという気になっています。今までの翻訳は先の私のサイトにありますので、興味のある人は覗いてみてください。

(Kairosz, 1200Ft)


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2012年4月17日 (火)

『コーラン』(上)(中)(下)井筒俊彦訳

最後まで読み通すのは骨が折れました。以前中巻までは読んで挫折した記憶がありますが、今回はどうにか完読。どうやらコーランだけ読んでもイスラム教のことはわからないように感じました。

砂漠の自然と向かい合った状態の中で、全知全能の神がいるといわれると、おのずとそんな気持ちになりやすいかもしれません。しかし、日々湿度の高い八百万の神々に囲まれていると、この語り口から世界観までが、何だかめっちゃ遠い感じがします。

旧約聖書とイエスの四福音書の登場人物もまた、アラーに仕える存在としてとらえ返され、独自の解釈が与えられているため、アブラハムやモーゼ、ノア、マリア、イエスなどがそれぞれイブラーヒーム、ムーサー、ヌーフ、マルヤム、イーサーというイスラム風の名前で活躍すると、なんとも不思議な感じがします。

天地創造から最後の審判までの基本構造は聖書を踏襲していて、マホメッドが聖書を読み込んでいたこともよくわかります。ただ、旧約聖書の非情で非合理な側面が消えて、善行と引き換えに天国を約束してくれる慈悲深い神さまになっています。無信仰者は地獄に堕ちると全編これ脅されっぱなしですが。日本人なんか彼らの目から見ると、地獄の炎に焼かれる運命にあり、ほとんど哀れまれているのではないでしょうか。

また、キリスト教の神とマリアとイエスの存在を三位一体としてとらえて批判しているところが誤解であることはともかく、三位一体の聖霊の存在が無視されているために、キリスト教の神秘性と奥行きのある世界観が受け継がれずにいるように思いました。

もっとも、その分イスラム圏ではプラトンやアリストテレスなどの古代ギリシア哲学が盛んに研究されたりしたわけですから、トータルにイスラム文化をとらえる必要はあるのでしょう。やっぱ、スーフィズムあたりに深い世界があるのでしょうね。

なお、コーラン成立時のころから、戦利品として女奴隷をおいてみたり、奴隷でなくても一般に女性を家畜のように扱ったりすることも当然とされてきたのがわかりますが、ここには書かれていないえげつない慣習とともに、実は今も民族的伝統として脈々と息づいています。このあたりどうにかならないでしょうか。

(岩波文庫1964年改版)

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2012年4月16日 (月)

蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語3 祝!卒業編』

3作目になって、そろそろネタ切れかと思いましたが、そんなことはありませんでした。前作に劣らないよう、いっそうの取材と工夫を重ねて面白く読ませてくれます。

また、難読漢字や間違いやすい語法などは、前2作同様勉強になります。「すべからく」の使いかたなんかもちゃんと書かれています。

おなじみの生徒たちが本巻で卒業したあとも、海外の日本語教育事情を取材したシリーズ第4作が予定されていて、一部が巻末袋とじで予告されています。

それにしても、世界各国から学生が集まる首都圏の日本語学校は、異文化コミュニケーションの生きた題材に満ちていますね。私が仕事で10年関わってきた大学の留学生別科は中国人学生がほとんどだったので、驚くことは無数にありましたが、ここまで笑いに満ちてはいなかったのがちょっと残念です。

日本のアニメや時代劇、あるいは任侠映画をはじめ、様々なサブカルチャーに惚れ込んでいる人の割合は、わざわざ欧米からやってくる留学生と比べると、中国人留学生は圧倒的に少ないですし、日本の文化や歴史に興味を持つ学生はなおさら少ないのが実情です。

ただ、やはりこれまで日本語が飛躍的に上達した中国人留学生は皆、アニメやマンガやジュニア小説やミステリーの読者でした。宮崎アニメなどを繰り返して観ていた留学生は、日本に到着する前から自然なイントネーションが身についていて、日本語能力試験も1級に合格してしまっていましたし、小説大好き留学生は抜群の語彙力と読解力を持っていました。

サブカルチャーの効果にはおそるべきものがあります。お勉強という感じがしないまま、作品世界に引き込まれるからいいのでしょう。外国語の習得は、結局はどれだけ時間をかけるかに比例しますが、時間を忘れるくらい没頭するのが理想ですからね。

それにしても、卒業式で学生たちから「先生、大きなお世話になりました」なんて言われてみたいものです。それが冗談だったらもっと嬉しいですけど。

それから、本シリーズがきっかけで日本語教師を目指す人が増えて、うちの短大通信教育部に入学してくれる人が増えると、もっと嬉しいです。

海外編も楽しみです。

(メディアファクトリー2012年880円税別)

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2012年4月13日 (金)

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳

昔分冊で出ていたときに読んで以来の再読です。今回読んだものは一巻にまとまって大塚久雄1人の改訳版として出ています。以前よりも訳文が読みやすくなったような気がします。かつての専門学校の教え子の1人が本書を読んで「ヴェーバーってすごいですね!」と感動していたことを思い出します。優秀かつ感性豊かな学生でしたが、若くして故人となってしまいました。残念です。

本書の論理はアクロバチックですが、説得的という不思議なもので、このとりこになる人は少なくないです。ヴェーバー大好きという社会科学者は驚くほどたくさんいます。この論理とうねるような文体が魅力の秘密です。こんな感じです。

「最初は世俗から去って孤独の中に逃避したキリスト教の禁欲は、世俗を放棄しつつ、しかも修道院の内部からすでに世俗を教会の支配下においていた。しかしそのばあい、世俗的日常生活のおびる自然のままでとらわれるところのない性格を、概してそのままに放置しておいた。いまやこの禁欲は、世俗の営みの只中に現れ、ほかならぬ世俗的日常生活の内部にその方法意識を浸透させ、それを世俗内的な合理的生活—しかし世俗によるでも、世俗のためでもなく—に改造しようと企てはじめたのだった」(288頁)

こんな感じで、修道院内の禁欲が世俗の中に定着していき、勤勉さへとつながるというストーリーが展開するわけです。この瓢箪から駒と、風が吹けば桶屋が儲かるという理屈を行ったり来たりするようなところが何とも面白いんです。

ただ、資本主義が生まれるのはいいとして、これが今みたいに脆弱なシステムに見えながら、実はかなりしぶといという世界経済の現状にどれくらい有効かなあと思うと、あらためてゾンバルトのいう「恋愛と贅沢」といったような視点もあっていいという気がします。

あと、禁欲と合理的経済行動が、再投資に向かう必然性というのは、そもそもはっきり書かれているわけではありません。蓄えたお金をもっと蓄えて墓場まで持っていこうとする人も出てきたりします。

マネー資本主義なんてウェーバーだったらどんな説明をひねり出してくれるのかと想像をめぐらせるとなかなか楽しいものがあります。

(岩波文庫1992年699円)


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2012年4月10日 (火)

C.S.Lewis, "The Lion, the Witch and the Wardrobe"

このところ持ち歩いて少しずつ読んでいましたが、九州出張の新幹線の中で読んじゃいました。英語で読むとやはり味わいが違いますね。ルイスが苦心して書いたり、楽しんで書いたりしている感じが伝わってくる気がします。

『ナルニア国ものがたり』は日本語で全巻読んではいるのですが、特にこの巻の翻訳の最初のところがぎこちなくて気になっていました。もちろん原文はそんなことありません。

英語としては高校2年生くらいなら十分読めると思います。私の場合、高校生の頃この本を英語で読んでいたら、英文科に進んでイギリスに留学しようなんて夢に見ていたかもしれません。

そういえば高校1年時の担任の先生が「AFSなんか応募するな」に近いことを言っていましたねえ。大学進学実績だけしか頭になかったのでしょう。

それはそうと、『ナルニア国ものがたり』は全巻を読むと、その構想のすばらしさと、各巻の見事なつながりに驚かされます。キリスト教的世界観を知りたければ、これを全部読みなさいと、私は授業でいつも言っています。でも、この『ライオンと魔女』だけでもかなりわかります。

このシリーズも英語で全巻読破を目標にしましょうか。ただ、今別の滅法面白い小説(Mary E. Pearson, "The Adoration ob Jenna Fox")を読んでいるので、ちょっと後回しになりそうです。翻訳も出たところですが、ちょっと意地を張って原書で読んでいます。

そちらもいずれ感想をアップします。

(1950, 1980, Lions, Harper Collins Publishers)

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2012年4月 9日 (月)

『中公バックス 世界の名著68 マンハイム オルテガ』

マンハイムの『イデオロギーとユートピア』を再読。いろいろな論点を総花的にあげながら、収拾をつけるのがあまり得意でない人です。目の付け所はいい人だけに、ちょっと残念な本。

1891年生まれのマンハイムは先輩にルカーチがいて、助言者というか批判者にウェーバーがいて、本当に書きにくかったことだろうと思います。有名な「存在拘束性概念」などは、マルクスの影響もしっかり受けながら、それを乗り越えようとして苦闘していますが、ウェーバーのエピゴーネンとは見られたくなかったでしょうし。

それでも、第3部の「ユートピア意識」の中での千年王国運動への着目なんかはやはりたいしたものだと思います。人間の無意識のエネルギーへの着眼が光っています。例えば農民戦争について、

「人びとを存在を破壊する講堂へ駆りたてたのは『理念』ではなかった。はるかに深く自然の生命に根をおろした、はるかに暗く見定めがたいこころの深みが、ここで爆発を起こしたのである」(332頁)

「いったんわれわれが無意識の動機について認識した暁には、かつてそれらについて無知だった時代にやっていたのと同じやり方で生活を続けてゆくことは不可能だ」(144頁)

こんなところは面白いですね。ただ、いろんな大家の思想とそれぞれのアイデアがうまく接合できずに苦しんでいる感じがして、ちょっと気の毒な気がします。そのあたりに哀愁を感じるファンもいるのかもしれませんが、同じ巻のオルテガの堂々とした攻撃的な感じとは対照的です。

この点でも絶妙な組み合わせの中公バックスです。
翻訳は読みやすいです。

(中央公論社昭和54年1200円)

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2012年4月 8日 (日)

C.S.ルイス『キリスト教の精髄』柳生直行訳

いつ読んでもすごい本です。今書いている社会学の教科書で引用したところを以下に紹介します。

アリストテレスは「人は政治的動物である」といいましたが、ポリスという言葉の解釈に次第では、この表現は「人間は社会的動物である」とも訳されます。いずれにしても、人は集団生活をする生き物として進化し、社会の中で生きてきました。本書の冒頭でも述べたように、社会の中で生きることは、半ば本能のように私たちに行動に組み込まれています。

人が集まったときに生まれる愚かで邪悪な側面にはどうしても目がいきがちですが、そう悪いことばかりではありません。社会が一から十まで悪事で構成されていたとしたら、人類はとうの昔に滅び去っていたことでしょう。

実際、私たちは社会の中に曲がりなりにもささやかな喜びと幸せを見つけてきましたし、長い歴史の中で、社会の制度を自分たちで少しでも改善する手だてを開発してきました。今ここにある社会をよりよくする可能性と希望は、ありがたいことにも常に残されています。人が単に社会の奴隷になるだけの存在でもなかったことは歴史が証明しています。

もちろん、現実社会は常に個人に対して優しいとはいいがたいもので、その改革の歩みは確かに遅々たるものですが、その希望のありかもまた「社会」すなわち人びとが集まることの中に見出されます。
 このことをC.S.ルイスは次のように表現しています。

「人びとの間では、彼らが家族やクラブや労働組合などでいっしょにいる時、その家族とかクラブとか組合の「精神」ということがよく言われる。彼らがそのような「精神」について語るのは、個々のメンバーがいっしょに集まる時、確かに、彼らが別れている時には見られないような特殊な話し方とか行動の仕方を発揮するからである。(この共同行動は、むろん、各メンバーの個人的行動よりも良い場合もあり、悪い場合もある。)それは、いわば、一種の共同的人格が生まれたようなものである。もちろん、それは本当の人格ではなく、人格に似たものというにすぎない。しかし、それがまさに神と人間との違いの一つなのである。父とこの共同生活から生まれるものはほんとうの人格であり、事実、神なる三つの人格の第三位格と言われるものなのである」(268頁)

これは三位一体の「聖霊」の説明です。以前のブログで内村鑑三を引き合いに出しながら、キリスト教が単純な一神教ではなくて、その神概念は「社会」を内に含むということを見ましたが、ルイスもまたこの点については極めて深い理解を示してくれています。

ルイスはキリスト教の神を「一種のダンスでも言うべきもの」にたとえます。

「こんなことは重要なのだろうか。然り、世界中のいかなる事柄よりも重要なのである。この三位一体のダンス、どらま、あるいはパターンが、すべて私たちひとりひとりの内に演じられなければならない、(逆に言えば)わたしたちはそれぞれのパターンの中に入り、そのダンスに参加しなければならないのである。われわれがそのために造られた幸福、つまり、ほんとうの幸福、に至る道は、このほかにはないのだ」(同書268頁)

これが人が集まることによって生まれる「善いもの」の原基的イメージです。この感覚をルイス以上に鮮やかに描き出した思想家を私は他に知りませんが、これは非キリスト教徒の日本人であっても、決して理解できないものでもなければ、実感できないものでもありません。

人として生まれた以上、私たちは絶対価値や絶対者というものと、生まれてから死ぬまで一度も関わらずに人生を送ることはできません。人生の様々な節目において、人はなぜこの世に生を受け、亡くなっていくのか、人生の意味はどこにあるのか、ということに思いを馳せない人はいないでしょう。

日々の社会生活の中で感性と知性をはたらかせるなら、人びとは他者に対して神にも悪魔にも、仏にも鬼にもなりうることがわかります。そして、たいていの場合はその中間のどっちつかずのところをうろうろしています。どうかすると、意識の上では「世のため、人のため」になることをしたいと思っていながらも思うようにいかず、ときには正反対のことをしてしまうことさえ起こりえます。

しかし、この原基的イメージを意識の外に一度括りだしておくと、それは、とりわけ「無宗教」的日本人である私たちの場合、ふだん意識しない自らの「内なる神」を映し出す鏡となります。

もちろん、絶対者を意識したからといって善人が増えるといったものではないでしょうけれど、私たちが自らの神に自覚的になることは、日本以外の国々の宗教的文化を理解するためには必ず行わなくてはならない作業です。

また、このことは「無宗教」的で無自覚な善行をより強い確信のもとに行わせる動因ともなることでしょう。具体的には「人びとがこころの中で善いと思うことは、みんなで即座に決めて、勇気を持って堂々と実行しましょう」ということです。

何のことはありません、これでは聖徳太子の十七条憲法と同じです。しかし、これがひょっとしたら今日のほうが、太子の当時よりもできなくなっているのではないかと疑う人も少なくないでしょう。

この状況を少しでも改善するためには、人びとの間に絶対価値に基づく行動規準が共有されなければなりません。そしてそのとき、この社会の原基的なイメージが確認される必要が出てくるでしょう。

(新教出版社1977年2100円)

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2012年4月 6日 (金)

内村鑑三『キリスト教問答』

今日も教科書を書きながら読んだ本を紹介します。教科書の該当頁はこんな感じです。

キリスト教の神の概念、いわゆる三位一体の神の概念にこの「社会」という思想が含まれていることに気がついていた一人が、わが国を代表するキリスト教思想家の一人である内村鑑三です。

「彼[神]の中に三位があって、彼は彼自身の中に聖なる社会を備えたもうたというのであります。「三位の社会」The Society of the Trinity とは、米国第一の神学者ジョナサン・エドワードのはじめて用いし熟語でありまして、「社会」なることばの何人の口にものぼる今日に至っては、はなはだ俗化されやすき語句ではありますが、しかしこの事によく注意して用いますれば、その中に深い真理を含むことばであると思います」(125頁)

内村鑑三は、誤解を受けるかもしれないと留保しながらも、「神は個人ではない、社会である」(125頁)とさえいい切っています。それは、父と子と精霊という三位(三つの位格)の間に「完全にして純正なる愛が存在しているから」(133頁)だといいます。

「そのひとリ子を世のために捨てたもう神の愛を知って初めて父の愛の何たるかがわかるのであります。父の命とあれば死にまでこれに従いし子の従順を見て初めて孝の何たるかがわかるのであります。聖父と聖子とより出て、自己については少しも語らずして、聖なる二者の栄光をのみ、これをあらわさんとする精霊の恩化を受けて、われらは無私の生涯の何たるかを知るのであります」(135頁)。

神の純粋な愛の共同体が三位一体の核心にあるというわけです。三位一体説は信仰の論理ですから、理屈に合わないものとしてしりぞけるのは簡単ですが、これがカトリックやプロテスタントあるいは正教といった宗派の違いにもかかわらず、キリスト教の根本教義の中心に位置づけられてきたという事実は無視できません。

それよりはむしろ、この思想があるからこそ、キリスト教は社会に積極的に関わってきたと考えたほうがいいでしょう。いくら神の国に入るといっても、この世の問題はこの世にいるうちに少しでも解決に近づけておかなければいけません。自分の子孫もいつかは神の世界に入ってくることを望むならなおさらです。

なお、この場合、いうまでもないことですが、人が「神の国」のような聖なる社会の存在を認めず、人は死んだらそれきりで無になると考えていても、それならそれで、生きている間にこの世をできるだけ住みよいものにしていく義務から逃れるわけにはいきません。

どちらに転んでも結局のところ「現世をよりよく生きなければならない」という点では、個人の場合も社会的活動の場合も同じ理路をたどることになります。

(講談社学術文庫1981年780円)

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2012年4月 5日 (木)

沢瀉久敬『個性について』

人は死んだらどうなるのかという問題は、その昔、人が人としてこの世に登場してきて以来、今日までずっと問い続けられていると思います。

この問題は自ら死んでみる以外には確かめようがありませんが、これまで冥界に行ってからこの世に戻ってこられた人はいないようなので、今生きている私たちにとってできることは、これをできる限り論理的に考えてみることくらいでしょう。

人が死ぬと肉体が滅びるのは当然のことですので、この問題は、今こうして生きて感じ、考えている「私」がその後どうなるのか、ということになるでしょう。これは死後にも霊とか魂といったものが残るのかという形で問いかけられてきた問題でもあります。
 
本書には、この問題についての次のような印象深い記述があります。(この記述がいつまでも頭に残っているので、今回あらためて読んでみました)

「まず考えられるのは魂も肉体とともに滅するという考えである。もしそうであるとすれば、どういうことになるであろうか。もしそうなれば、それでよいのだと私は思う。無限に生きるということが、それ自体としてそれほど楽しいことであるかどうかという点には問題があるであろう。やがて尽きるべきものが今あるというところにこそ生のいとしさが生まれるのではないか。しかも絶対の虚無に期すべきものが今あることこそ生の喜びではないか」(213頁)

一般的に自らを「無宗教」と称してはばからない日本人にとっては、論理的にはこの考え方が一番受け入れやすいように思われます。ところが、実際に大学で学生たちに話を聞いてみると、必ずしもこの考え方は多数派ではなくて、「死後はなにか霊魂のようなものが残るんじゃないか」と思っている学生が多数を占めます。どうやら彼ら、彼女らは無宗教といっても無神論でもなさそうです。多くの人びとが初詣や法事に出かけるのも道理です。沢瀉氏は続けて次のように述べます。

「では、つぎに、魂は肉体の死とともに滅するものではないと考えてみよう。この場合、残る魂と考えられるものは各自の自覚する自我である。(中略)したがって我々の魂が現在迷えるものであるとすれば、それは今救われねばならないのであり、今救われることなくしては魂は永遠に救われないのである。したがって、魂があの世で肉体なき国に生まれるとしても、それだからとて現世を自ら捨ててあの世に去ることは無意味である。いずれ死ぬものなら自殺したほうがよいであろうというような考えはゆるされない。現在この世で生きた意識がそのまま魂の国に生きるのである。いかにこの世を生き抜くか。この世の生に即して、それに応ずる意識があの世に生きる。あの世はこの世の写しである。彼岸の肉体は消え失せて、彼岸には精神のみが映し出される」(同書214-215頁)。

というわけで、死後の魂の存在がどうであれ「問題は死後の生活にあるのではなく、いかにこの世を生きるかにある」(同書215頁)という結論になります。

ただ、沢瀉氏自身も述べているように、「我々自身はこの世において救われるとしても、すでに死んだ人達は一体どうなっているのであろうか」という問題が残されています。

これに対しては、生者による死者たちの追憶こそが私たちが「自分の意識を通じて死者を意識的に幸福にすることもできる」(216頁)とまで述べています。「亡きひとを深く憶うとき、彼らの魂はわれわれの魂とともに動いている」(同頁)からなのだそうです。大胆な哲学者ですね。素敵です。

(第三文明社、レグルス文庫、1972年580円)

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2012年4月 4日 (水)

G.フェレーロ『権力論(上)(下)』伊手健一訳

フェレーロはイタリアの歴史家です。現代政治史が専門です。ハンガリーの政治思想家ビボーが講義を受けていたと聞いていたので、以前から注目はしていましたが、わが国ではしっかり翻訳が出ているところがすごいですね。今回読むのは二度目ですが、あらためていろいろと発見がありました。

フェレーロの権力論は独裁者の心理を内在的に分析する点で新鮮です。フェレーロによれば、独裁者の恐怖心は「正統性」の欠如に由来するとしています。

人間社会においては、どんな形でも必ず政治的指導者が存在し、統治機構が形成されます。そこでは体制を維持するために権力が必要となります。必ず例えば治安の問題一つを考えてみても、権力は常に何らかの形で行使されなければなりません。

政治的指導者の決め方は社会ごとにそれぞれで、時代とともに変化してきました。一昔前までは世襲制と貴族・君主制、現代では選挙制と民主制が主流となっていますが、このとき重要になるのが、社会の成員が納得できる決め方をすること、すなわち正統性原理です。

例えば、狩猟民族のリーダーは、狩りの際に最も適切な指示を出し、仲間を統率できる人が選ばれるでしょうし、農耕民族のリーダーもまた、共同作業をとりまとめることに秀でた人を選ばなければ、生き残れなかったでしょう。また、いったん選んだリーダーの命令には服従し、改選されるまでは協力することにしておかなければ、集団全体の死活問題になります。

この正統性原理は人類最初期の頃から一種の「暗黙の契約」(62頁)として機能してきたと見ることができるでしょう。そして、これがあって初めて、社会のある人が命令権をもち、他の人びとがそれに服従する義務をもつということが根拠づけられます。この意味で、正統性原理は権力争奪のために繰り広げられる暴力の連鎖を断ち切り、社会に安定をもたらすはたらきをします。

ところが、独裁者は正統性原理によらずに、それもしばしば不当に権力を手にするため、いつなんどき、「正統な」権力者が登場して自らの地位を追われることになるかもしれないという恐怖感にさいなまれることになります。

「独裁者は正統性原理を侵すことにより権力を獲得する故に、権力を握る瞬間に、必ず恐怖が独裁者を襲うのである」(41頁)

 この恐怖が独裁者と服従者との間で相乗作用を起こすと(しばしばそれは起きるのですが)、大変なことになります。権力は服従者からの反抗の危険におびえ、服従者を恐怖させようとし、服従者はまたこれに対して憎悪をかき立て、反抗精神を高めることになります。

 反対に権力が恐怖を引き起こせば起こす程、服従者はますます恐怖を持つようになり、服従者が恐怖を持てば持つ程、権力はますます恐怖を引き起こす必要があるのである。この必然的な結果は、想像もできない恐ろしいことになるであろう。人類の受けるあらゆる不幸のうちで、権力と服従者との間の相互恐怖こそ、最も恐ろしいものである(同『権力論(下)』209頁)。

フェレーロは人類が正統性原理を確認し、正統原理に裏打ちされた「正統権力」を立てることによってしか、この権力の恐怖から解放される道はないと考えているようですが、同時にそのことの困難さも十分承知しています。

というのも、「絶対的に合理的、かつ公正な正統性原理の発見」はフェレーロの存命中はもちろん、現在に至ってもなされていませんし、そもそもそんなものは存在しないという今日の社会の虚無的世界観も有力だからです。

また、その一方で、宗教的原理主義者はそれぞれに明確な正統性原理を打ち立てて、その正義のためには暴力=テロルも辞さないという、これまた困った形の暴力の連鎖が生じているという事実もあるからです。

しかし、正統権力が暴力の連鎖を断ち切るために構想されているという基本に返るならば、正統原理の効用を今一度検討してみる価値はあります。皆さんも、まだ人類に対する希望は捨てたくないでしょう。私もそうです。

(竹内書店昭和47年)

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