内村鑑三『キリスト教問答』
今日も教科書を書きながら読んだ本を紹介します。教科書の該当頁はこんな感じです。
キリスト教の神の概念、いわゆる三位一体の神の概念にこの「社会」という思想が含まれていることに気がついていた一人が、わが国を代表するキリスト教思想家の一人である内村鑑三です。
「彼[神]の中に三位があって、彼は彼自身の中に聖なる社会を備えたもうたというのであります。「三位の社会」The Society of the Trinity とは、米国第一の神学者ジョナサン・エドワードのはじめて用いし熟語でありまして、「社会」なることばの何人の口にものぼる今日に至っては、はなはだ俗化されやすき語句ではありますが、しかしこの事によく注意して用いますれば、その中に深い真理を含むことばであると思います」(125頁)
内村鑑三は、誤解を受けるかもしれないと留保しながらも、「神は個人ではない、社会である」(125頁)とさえいい切っています。それは、父と子と精霊という三位(三つの位格)の間に「完全にして純正なる愛が存在しているから」(133頁)だといいます。
「そのひとリ子を世のために捨てたもう神の愛を知って初めて父の愛の何たるかがわかるのであります。父の命とあれば死にまでこれに従いし子の従順を見て初めて孝の何たるかがわかるのであります。聖父と聖子とより出て、自己については少しも語らずして、聖なる二者の栄光をのみ、これをあらわさんとする精霊の恩化を受けて、われらは無私の生涯の何たるかを知るのであります」(135頁)。
神の純粋な愛の共同体が三位一体の核心にあるというわけです。三位一体説は信仰の論理ですから、理屈に合わないものとしてしりぞけるのは簡単ですが、これがカトリックやプロテスタントあるいは正教といった宗派の違いにもかかわらず、キリスト教の根本教義の中心に位置づけられてきたという事実は無視できません。
それよりはむしろ、この思想があるからこそ、キリスト教は社会に積極的に関わってきたと考えたほうがいいでしょう。いくら神の国に入るといっても、この世の問題はこの世にいるうちに少しでも解決に近づけておかなければいけません。自分の子孫もいつかは神の世界に入ってくることを望むならなおさらです。
なお、この場合、いうまでもないことですが、人が「神の国」のような聖なる社会の存在を認めず、人は死んだらそれきりで無になると考えていても、それならそれで、生きている間にこの世をできるだけ住みよいものにしていく義務から逃れるわけにはいきません。
どちらに転んでも結局のところ「現世をよりよく生きなければならない」という点では、個人の場合も社会的活動の場合も同じ理路をたどることになります。
(講談社学術文庫1981年780円)
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