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2012年4月 5日 (木)

沢瀉久敬『個性について』

人は死んだらどうなるのかという問題は、その昔、人が人としてこの世に登場してきて以来、今日までずっと問い続けられていると思います。

この問題は自ら死んでみる以外には確かめようがありませんが、これまで冥界に行ってからこの世に戻ってこられた人はいないようなので、今生きている私たちにとってできることは、これをできる限り論理的に考えてみることくらいでしょう。

人が死ぬと肉体が滅びるのは当然のことですので、この問題は、今こうして生きて感じ、考えている「私」がその後どうなるのか、ということになるでしょう。これは死後にも霊とか魂といったものが残るのかという形で問いかけられてきた問題でもあります。
 
本書には、この問題についての次のような印象深い記述があります。(この記述がいつまでも頭に残っているので、今回あらためて読んでみました)

「まず考えられるのは魂も肉体とともに滅するという考えである。もしそうであるとすれば、どういうことになるであろうか。もしそうなれば、それでよいのだと私は思う。無限に生きるということが、それ自体としてそれほど楽しいことであるかどうかという点には問題があるであろう。やがて尽きるべきものが今あるというところにこそ生のいとしさが生まれるのではないか。しかも絶対の虚無に期すべきものが今あることこそ生の喜びではないか」(213頁)

一般的に自らを「無宗教」と称してはばからない日本人にとっては、論理的にはこの考え方が一番受け入れやすいように思われます。ところが、実際に大学で学生たちに話を聞いてみると、必ずしもこの考え方は多数派ではなくて、「死後はなにか霊魂のようなものが残るんじゃないか」と思っている学生が多数を占めます。どうやら彼ら、彼女らは無宗教といっても無神論でもなさそうです。多くの人びとが初詣や法事に出かけるのも道理です。沢瀉氏は続けて次のように述べます。

「では、つぎに、魂は肉体の死とともに滅するものではないと考えてみよう。この場合、残る魂と考えられるものは各自の自覚する自我である。(中略)したがって我々の魂が現在迷えるものであるとすれば、それは今救われねばならないのであり、今救われることなくしては魂は永遠に救われないのである。したがって、魂があの世で肉体なき国に生まれるとしても、それだからとて現世を自ら捨ててあの世に去ることは無意味である。いずれ死ぬものなら自殺したほうがよいであろうというような考えはゆるされない。現在この世で生きた意識がそのまま魂の国に生きるのである。いかにこの世を生き抜くか。この世の生に即して、それに応ずる意識があの世に生きる。あの世はこの世の写しである。彼岸の肉体は消え失せて、彼岸には精神のみが映し出される」(同書214-215頁)。

というわけで、死後の魂の存在がどうであれ「問題は死後の生活にあるのではなく、いかにこの世を生きるかにある」(同書215頁)という結論になります。

ただ、沢瀉氏自身も述べているように、「我々自身はこの世において救われるとしても、すでに死んだ人達は一体どうなっているのであろうか」という問題が残されています。

これに対しては、生者による死者たちの追憶こそが私たちが「自分の意識を通じて死者を意識的に幸福にすることもできる」(216頁)とまで述べています。「亡きひとを深く憶うとき、彼らの魂はわれわれの魂とともに動いている」(同頁)からなのだそうです。大胆な哲学者ですね。素敵です。

(第三文明社、レグルス文庫、1972年580円)

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