『林達夫著作集3 無神論としての唯物論』
林達夫の書いたものは昔からしっくりこないと言いながら、著作集の3巻目に入りましたが、ここまで読んでようやくその理由が少し分かって来ました。
著者がときには自身を「戦闘的無神論者」と定義して、多くの文献にあたりながらキリスト教思想史を批判的に解読していくのは、1930年代には稀有な仕事だったと思われます。一般読者だけでなく、知識人の中でも、西洋の各国語で書かれた文献を駆使しながらキリスト教の存在意義を批判的に考察するというのは、林達夫以外にはできる人はいなかったといっていいかもしれません。
ただ、他の無神論者の例に漏れず、あえて神を否定する立場というのは、「ひょっとしたら存在するかもしれない神というものが本当に存在してもらっては困る」という形で、神に対する強烈な関心があることを示しています。
多くの一般的日本人はそういう形ではなくて、もっとキリスト教に限らず、宗教一般についての正確な知識を得ようとすらしない「無宗教」とか「やまと教」(ひろさちや)という民俗宗教の信者です。
その意味でも著者のスタンスはかなり屈折していて、信仰の中心にある善き人間性の存在は知っていながら、あるいいはそれだからこそ、現存する宗教的権威の欺瞞は舌鋒鋭く糾弾します。しかし、それと同時に、宗教を単なる時代遅れの迷信のように考える科学万能主義的な態度にもまた厳しく批判的になります。
つまり、著者はマルクス主義を含む科学万能主義に対する狂信的宗教の匂いも嗅ぎ取っているのです。それで、たとえば「マルクス主義芸術学の第一人者フリーチェがこの点でアカデミック・フールにも劣る学問的無能力を示している」(260頁)というようなことをさらっと書いたりするわけです。
もっとも、著者はこれだけ西洋思想の中心に近いところの文献を渉猟し、読み解いていくことの出来る人ですから、当然ながら、西洋の哲学思想がキリスト教の神との緊張関係の中で培われてきたことも知り尽くしているはずです。
それならば、思想が生まれてくるドラマをもっとスリリングに描くことができるはずだと期待するのですが、著者はそこをあえて避けているのではないかと思われるくらい、著作の中で原理的考察をしないのです。
実際に著者が言っているわけではありませんが、「西洋の読書人には当然の常識だからね」という感じで、核心についてはさらっと流されてしまいます。読者としてはストレスがたまるところです。
しかし、それはそうとして、精神史的な叙述スタイルはかなりおしゃれですし、ヨーロッパの北方的文化と南方的文化の違いに目を向けるなど、着眼点の面白さは光っています。本書第2部の「三つの指輪の物語」などは、比較文学の論考として大変見事なものです。
著作集は残り三巻ありますが、ここで投げ出さずに最後まで読んで、できるだけ多くの事柄を学びたいと思います。
(平凡社1971年1,000円)
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