« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月30日 (日)

木田元『ハイデガー拾い読み』

著者によれば、ハイデガーは『存在と時間』の哲学者であると同時に、プラトンやアリストテレスの読解において、数々の優れた独創的解釈を提示した哲学史家でもあったとされます。

そのことがよく分かるのが、ハイデガー自身の講義録で、その膨大なテクスト群の中からこれはというところを紹介して論じたのが本書です。

なるほどこうして読んでみると、哲学史の常識を根底からひっくり返すような独創的な読み方から、ちょっと牽強付会にすぎるなと思われる読み方まであるのですが、強引な読み方も、本人の思想に引きつけてのことで、その理由を考えてみるとなるほど確かにその面白さは伝わってきます。

一方で著者は、評伝などからハイデガーの「人柄を知れば知るほど、私はこの人が嫌いになる」(12頁)とも正直に述べていて、その著者の姿勢には共感できます。こうして正直に述べられると、著者が言うように、人物はとんでもなく嫌なやつでも思想は面白いというのもありなのかもしれないという気にはさせられます。

まあ、少なくともその場合、ハイデガーの思想の何が面白いのかということが問題になってくると思います。ハイデガーは、プラトン以来の存在の哲学を「何かを作る」存在としてとらえ、それを「何かが成る」存在として組み替えようという壮大な構想を持っていたようです。

作るものとしての存在は、制作者の意図があって妙なものを排斥できますが、「成る」存在は自然の事物も人間もなんでもあるがままに入ってきます。無為自然という言葉を思い出しますが、これは日本人にとってはむしろ馴染みやすい思想になってしまいます。

矛盾や両論併記の状態に強いわれわれとは違って、本来制作的自然の考え方で善悪の問題を処理してきたはずのハイデガーにとって、突然「なんでもあり」の思想を主張するのは、あのヨーロッパ文化圏においては危険で悪魔的ととらえられかねないでしょう。日本人の私でもちょっといかんのではないかと心配になるくらいです。

そういう点で、もともとスコラ哲学の専門家になろうとしていたハイデガーですが、アリストテレス研究を推し進めて神学を封印したところには思いの外重大な意味があったのかもしれません。後の哲学の展開でも、制作的存在論の実は核心になるはずのキリスト教の立場をキルケゴールに言及しながらあっさり切り捨てているのも、こうしてみると腑に落ちるところがあります。

現実生活では悪の哲学の実践をしたのではないかと思うくらいの人でしたが、思想としては終始一貫していたように見えてきました。思想は彼の悪を解放する働きさえしたのではないかという気もします。

以上この5段落ほどは本書には書かれているわけではなくて、私の妄想にすぎません。ただ、そういう妄想に示唆を与えてくれた本書には感謝しています。自分なりにハイデガーについてのイメージがようやく持てたからです。

ファンの人には申し訳ありませんが、要するにハイデガーはジョン・レノンみたいな人だったのね、というのが私の理解です。ただ、それはそれとして、講義録の『現象学の根本問題』は読んでみなくてはと思っています。

(新潮文庫平成24年520円税別)

| | コメント (0)

2012年9月27日 (木)

内山節『哲学の冒険』

15歳の少年の頃の自身の哲学ノートにコメントするというかたちの哲学書。基本的なことがきっちりと書かれていて、いい本です。最後の書はお父さんとの対話というのもあります。

著者の父上が実際こんな人だったかどうかはわかりませんが、そんなこともありそうな気がしてきます。思えば15歳の自身の哲学ノートもそういう形をとっただけなのでしょうけれど、うまく作られています。

哲学は知識ではないという基本が押さえられているので、若い読者にも、哲学を敬遠気味の大人にも、抵抗なく読んで貰えそうです。私も中2の娘に読ませてみようかと思っているところです。

著者はエピクロスの「思慮深く美しく正しく生きる」という言葉を柱にして、こう言います。

「未来を恐れず、思慮深く、美しく、正しく生きていくとき、僕たちはほんとうの自由を手にするのかもしれない。自由に生きていくとは、本当はこういう美しさをもったものなのではないかと僕は思う」(21-22頁)

15歳にしてはませすぎている気もしますが、いい言葉です。西洋哲学の核になっている「思慮深く」というのが、よくいわれる「清く正しく美しく」にはないところで、ひるがえって、わが国には思考を美意識で代用する傾向があるのかもしれないなという気もしました。

他に途中で紹介されている小林秀雄の「雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り人は環境を作る」という言葉が、三木清の『構想力の論理』の中の言葉よりも輝いて見えるのが、印象深かったです。この問題はハイデガーやユクスキュルにもつながりますが、文学者の言葉は印象に残ります。

著者は哲学者として秀才の三木清よりも印象に残ろ言葉を紡ぎ出しているように感じます。文学的でもあると同時に、三木清よりもより人びとの生活に近いところから発想しているためかもしれません。

哲学の真理は著者によれば、

「客観的な真理ではなくて人間のみつけだしたものとか、もっと美しく生きられる未来をつくろうと思うとき発見される真理、というような」(192頁)

「僕は思うんだ。哲学を学問にしてはいけないと。なぜなら哲学は一方の手でつくられつづけ発展させられつづけながら、もう一方の手で壊されつづけなければならないという宿命を背負っているからだ。その理由は哲学はすべての人間たちの、すべての民衆のものだからだと思う」(210頁)

鋭い指摘も含んでいますが、文章が哲学の研究者なんかと違って、平易で美しいです。哲学者はまずはこうでなくてはいけませんね。

日曜日に著者の講演を聴きに行きます。楽しみです。

(平凡社ライブラリー1999年1,000円税別)

| | コメント (0)

2012年9月25日 (火)

山下祐介『限界集落の真実―過疎の村は消えるか?』

限界集落とはお年寄りの数が人口の過半を超えた集落のことを言いますが、かつてマスコミでセンセーショナルに騒がれたにもかかわらず、少なくとも今は消えていません。人口が自然減によって消滅した集落というのは実はないということも、本書に教えられたことです。

もちろんこれから現在元気に暮らしている70代〜80代のお年寄りが、徐々に亡くなっていき、息子や孫もそこを活用しなければ、本当に消滅することになるでしょう。新しいムラの形をどう設計するかということは、その点で今まさに正念場を迎えています。

著者は限界集落と言われる多くのムラに実際に足を運び、目で確かめ、ムラの将来像を予見します。社会学者の正攻法によるアプローチが見事です。また、世代論と家族論の視点から戦後日本の社会変化を捉えた第五章も鮮やかな描写です。

文章も学者臭くなく、かといって、くだけすぎたりもせず、新書にふさわしい読みやすさです。この問題にあまり関心がないという人も、本書をよく読むと、共同社会の特性を失ったのは実は都会のほうだという見方が示されていて、今後の日本社会のあり方を総合的に検討する上で、きっと得られることがあると思います。お勧めです。

(筑摩書房2012年880円+税)

| | コメント (0)

2012年9月23日 (日)

栗田和則・栗田キエ子・内山節・三宅岳『十三戸のムラ輝く 山形県金山町杉沢集落』

里山のムラもこんなふうに工夫を重ねていくと、生きていけるんですね、それも実に楽しそうに見えます。メープルシロップを採って名産品にしたり、生活展示資料館を開設したりしながら、山の幸を十分に活かしながら暮らしています。

いわゆる限界集落のように見えても、最近は若い人が戻ってきたりすることは珍しくなく、今読んでいる『限界集落の真実』を見ても、過疎地だからといってそのまま村がなくなってしまうことは、実はほとんどないんだそうです。

それも各地域でそれぞれにこの杉沢集落のような工夫を重ねつつ、元気な年寄りがしぶとく生き抜いているのが現状のようです。

もちろんんそう入ってもいつかは人はなくなりますから、今のうちに若い人を呼び寄せ、農業・林業で起業することも可能となるような枠組みづくりが急がれるのも事実です(今個人的には少し関わっていますが、可能性は大いにあります)。

少なくとも現状に悲観的になる必要はないという実感と、そう入っても急がなければという気持ちのどちらもが両論併記のまま頭の中に残る本です。

そういえば、その点でも先日観たアニメ映画の『おおかみこどもの雨と雪』は、色々と象徴的で考えさせられる内容を含んでいました。

(全国林業改良普及協会2006年1800円+税)

| | コメント (0)

2012年9月22日 (土)

WISDOM@早稲田『大学は「プロジェクト」でこんなに変わる』

職員の働き方次第で大学がよくも悪くもなることを教えてくれる本です。本書はよくなる方の例ですが、悪くなる例としてはおそらく全国のほとんどの大学がリストアップされそうです。

それにしても、早稲田の職員たちは頑張っていますね。学部や部署を横断するプロジェクトチームを作って稼働させるだけならどこもやっていますが、たいていはいらない会議が増えるのがオチですが、ここの職員は常に社会への貢献を意識しながら、楽しく仕事をできるように工夫を重ね、実践してこられたようです。まるで「楽しくなければ仕事じゃない」とでも言わんばかりの勢いが感じられます。

もちろん最初は教務システム一つをとっても手動の時代から、学部ごとに変貌を遂げた複雑怪奇な体制になっていたのを、IT化して全学部に共通なかたちを導入するのに10年かかったそうですから、ほんとうに大変だったんだなあと思われます。

しかし、それがいつの間にかe-ラーニングシステムの導入などについては日本一優れたシステムとコンテンツを提供するまでになっています。先生方の気持ちもうまく汲み取って、実にいい協力関係が作り上げられたのだろうと想像します。

印象に残ったのは次のようなセリフでした。

「職員の側にも教育・研究への深い共感が伴わなければなりません」(9頁)

しばしばお互いに憎みあったりしそうになる大学内部の職員と教員の関係ですが、こういう視点で考えてくれると、確かにお互いに歩み寄る第一歩になるはずです。

また学生に対しては、「学生を『管理』の対象と捉え、規則どおりにしか対応しない」(11-12頁)態度を強く戒めています。とんでもない態度の職員って確かにいますが、これは教員にも当てはまります。気をつけなくては。

多くの職員の寄稿からなる本でもありますが、職員が学生とよく話をしていることがうかがわれました。私も自分の大学院時代の事務の方々を思い出しました。

私が出た大学院の事務は当時は実にアットホームなところで、お酒を振舞われたり、いろんな話をしてもらったりしました。自分の結婚式にもお世話になった方に出席していただいたりしました。懐かしい思い出です。

やっぱ、何につけても多くの人と話をして、現場の声を拾うことが基本ですね。

(東洋経済新報社2008年1800円+税)

| | コメント (0)

2012年9月20日 (木)

榊博文『日本人は何故大人しい ―「陰陽」で読み解く「日本人」―』

社会心理学では相手と自分の意見の食い違いが大きくなると、人は自分の意見や態度を変える傾向があり、さらに食い違いが大きくなると、今度は相手を低く評価するようになると言われてきました(認知不協和理論)。

著者はこの理論を検証していくうちに、実は意見の食い違いが大きくなると、説得方向への意見変化が生じることに気が付きました。そして、

人は自分の立場と同様の立場に立つ意見を主張されると、その主張とは反対方向へ自分の意見を変えるという「ブーメラン効果」があることがわかってきました(161頁)。

これが著者のいう「認知の陰陽理論」です。

陰陽理論は万物に陰陽の二気があり、これが二つで一つをなしているという易経および道教に由来する哲学であり、世界観ですが、この気は固定的なものではなく、常に運動し、陰は陽に、陽は陰に移行するものとして捉えられます。

この見方をとると、世界が「こうなっている」ということについては説明できないものがなくなります。「なぜそうなるのか」についてはわかりませんが、それは思うに誰もわかりません。宗教的な説明ならいろいろありますけど。

この陰陽理論で世の中の様々な現象を説明したのが本書なのですが、東洋生まれの理論ですが、仮説を立てて検証していくスタイルは日本人離れしていて新鮮です。そもそも認知的不協和理論に異を唱えるところから出発している点で、ふつうの横のものを縦にするだけの学者さんではありません。

「一が二に分かれ、二が対立したり協力したりするところに陰陽哲学の妙味があります。そして外と内のバランスの中に、そして自分と他人との交流の中に人間生活があります」(219頁)

というだけあって、本書の話題は多岐に及びますが、特に日本人の性質については、こう言います。

「強者を支え、その陰で歴史を動かしてきたのは、じつは主役を立て、、裏からリードしていった表面的には弱気の、一皮むけば強気の遺伝子を持つ、穏和で聡明で、争いを避けることのできる人たちです」(253-254頁)

この対立し、矛盾する陰と陽を和していくところに著者は日本人の進むべき道を見出しています。スケールの大きな世界の見取り図が提起されていて、日本人として勇気づけられます。

(おうふう2011年2000円+税)

| | コメント (0)

2012年9月17日 (月)

トクヴィル『アメリカのデモクラシー第二巻(上)』松本礼二訳

第一巻と同様、トクヴィルは、アメリカ人の行動パターンをフランスのそれと比較しながら鋭い考察を披露しています。その観察力と感性の鋭さには驚かされます。

ただ、論じ方は結構単調なところがあって、鋭いことは鋭いのですけれど、続けて読むと単調で、論理の展開はお世辞にも上手いとはいえません。むしろ、アフォリズム集として読まれるのが相応しいスタイルなのかもしれません。モンテーニュやパスカルの国だからでしょうか。

たとえば、

「彼ら[アメリカ人]は実生活で出会う小さな困難をことごとく人の授けを借りずに解決しているので、そこから容易に、世界のすべては説明可能であり、知性の限界を超えるものはなにもないと結論することになる」(19頁)

「境遇の恒常的な不平等は、抽象的真理を求める誇り高くはあるが実り少ない研究に人を閉じこもらせ、それに対して、民主的な社会状態と諸制度は、学問に直接役立つ応用だけを求める態度に人を向かわせるのである」(86頁)

こういった箴言が散りばめられているのですが、その前後が必ずしもきっちりと論理的に展開されているわけではないので、どうかすると眠たくなってきます。で、ときどき鋭い表現に当たると、目が覚めるという感じです。

それでも、後から鋭い表現だけをまとめて読むと、ほーっと思うので、やはりこれはこれで独特の名著なのだろうと思います。

(岩波文庫2008年780円+税)

| | コメント (0)

2012年9月14日 (金)

木田元『偶然性と運命』

運とか運命というのは理屈で説明がつかないものなので、哲学者も伝統的に困ってきたようです。著者も決定的な解決ができる問題でないことは承知のうえで、挑戦されたとのことです。

しかし、そうは言いながら、西洋各国語に通じた博覧強記の人だけあって、西洋哲学史の中で、運命や偶然性の問題がどのように扱われてきたかを論じる第3章「〈運命〉の思想史」は読み応えがあり、示唆に富んでいました。

ライプニッツやショーペンハウエル、ニーチェも生の哲学の系譜ととらえ、ハイデガーやメルロ=ポンティまでを、生と時間論との関わりの中で、運命について思考してきた思想家だとみるところが刺激的でいた。

著者は、メルロ=ポンティを援用しつつ、〈人は自己の過去の経験を現在の経験の中でとらえ直し、あるいは他者の経験も事故の経験の中で捉え直すことで、その統一を形成することができる〉(158-159頁)ということを、運命の暫定的な説明としています。

いろんな哲学者が苦心しているそのさまがわかるだけでもありがたい本です。最後の章のドストエフスキーについてのエッセーもよかったです。文学で締めくくるのはいいですね。

(岩波新書2001年720円+税)

| | コメント (0)

2012年9月11日 (火)

藤原正彦『心は孤独な数学者』

「美の存在しない土地には天才は、特に数学の天才は生まれません」という著者の言葉が心に残っていて、出典を確認しようとして、本書を結局再読してしまいました。セリフは載っていませんでしたが、何度読んでもいい本ですね。

著者は言います。

「純粋数学というのは、種々の学問のうちでも、最も美意識を必要とするものと思う。実社会や自然界からかけ離れているため、研究の動機、方向、対象などを決めるガイドラインが、美的感覚以外にないからである。論理的思考も、証明を組み立てる段階で必要となるが、要所では美感や調和感が主役である」(214頁)

著者はニュートンやハミルトン、そしてラマヌジャンといった天才数学者たちの故郷を訪ねて、その美意識の源泉を探ります。それなら、冒頭のセリフは当然本書にあるだろうと思っていたのですが、ありませんでした。

そこで書棚にある著者の本をすべてひっくり返して調べてみたら、なんと『国家の品格』の165頁に載っていました。まあ、見つかってよかったです。

なんでこのセリフの出典を調べていたかというと、近代ハンガリーから科学的発見や発明品が山ほど出てくる理由を探る文章を書いているからなのでした。これで、最後にハンガリーの美しい風景を引き合いに出しながら、文章を締めくくることができそうです。

(新潮文庫平成13年438円税別)

| | コメント (0)

2012年9月 8日 (土)

内山節『「里」という思想』

人間は基本的にかつて自分自身が育ってきた、そして、今暮らしている地域に根ざした自然=文化的存在でした。しかし、近代化とともに、科学的真理や資本の論理が入ってくると、地域の自然と文化がどんどん破壊されてしまい、人びとは地域に根ざした根源的なつながりを失ってしまいました。

そこで失われたのは人と自然のつながりであり、人と人とのつながりであり、人と世の中とのつながりでした。

著者は実際に群馬県の片田舎の里に住み、その地域の人々との交流の中から様々な知恵を教わり、自らの思索を練りあげてきました。

とりわけ、著者のいう「多層的」という概念に興味を惹かれました。そもそも善悪二元論や合理主義で収まりきれないものが、まずは自然の中に存在し、そこから知恵を得た里の人びとの思考様式の中にも、何重にも層をなして共存していると考えています。

ただ、その多層的な存在様式は人びとが自然とのつながりを見失っていくにつれ、急速に薄れ、今や消え去らんとしているかのようです。

里の人びとがこの世を去ってしまうとき、里の終わりも突然やってきます。もうほとんど終わりかけているのかもしれませんが、すでに全国各地で少しづつ活況を呈しつつある里山復興の動きが全国に広がってくることを期待したいと思います。

9月30日に著者の講演会があるので、申し込みました。どんな話が聞けるか楽しみです。

(新潮選書2005年1100円+税)

| | コメント (0)

2012年9月 6日 (木)

チャルディーニ『影響力の武器 なぜ、人は動かされるのか』

著者は本書の「まえがき」で告白しているように、そのむかし、販売員や基金集めの人たちの説得を真に受ける、いいカモだったそうです。読みたくない雑誌や「清掃局員の舞踏会のチケット」(?)を買わされたりと、「自分でも心配になるくらい」だったと言います。

その苦い経験が、著者をして心理学における「承諾」の研究に向かわせたわけですが、著者がユニークなのは、よくある社会心理実験だけからではなく、実際にセールスマンや募金勧誘者、広告主などのその道のプロに弟子入りし、修行するといういわゆる「参与観察」を行なっていることです。

著者がそこから導き出した原理は「返報性、一貫性、社会的証明、行為、権威、希少性」の6つで、本書はこれを丁寧に解説してくれています。

それぞれにまとめと設問、また、読者からの応答が(第2版なので)あって、理解を助けてくれるだけでなく、楽しませてもくれます。こういう本を書くのはアメリカ人の学者は上手ですね。見習わなければ。

著者の写真を見ると、いかにも人のよさそうなおじさんで、なるほど騙されてきたのもなんとなくわかる気がしますが、いい人にふさわしく、本書は親切にも読者がだまされないための防衛法も記されていて行き届いています。

しかし、それにしても、騙しのテクニックはアメリカでは猖獗を極めているんですね、本書に出てくる様々な手口にはつくづく感心させられます。

訳文で気になったのは「独壇場」(208頁)で、これは「独擅場」ですよね。あと、「自分の幼い息子に進んで短剣を突き刺したアブラハム」(343頁)というのは原著の誤りか翻訳の誤りか確認していませんが、「突き刺そうとした」はずで、突き刺してしまっていたらアブラハムの家系図が変わっていたことになります。

そのうち確認しておきますが、全体にはとてもいい本でした。

(誠信書房2007年2800円+税)

| | コメント (0)

2012年9月 5日 (水)

米原万里『真夜中の太陽』

古本屋で見つけて買いました。20世紀末から21世紀初めにかけて書かれた時事評論エッセー集です。思いっきり辛口ですが、どんな時でも笑いを忘れない人なので、深刻になりっぱなしで重たくなるようなことはありません。

また、笑いから入って、お、そこからこの話に展開か、という話題の意外性の面白さも味わえます。読ませ方を心得ている人なので、読者の反応を想定しながら、それを楽しみながら書いている感じもします。

それにしても、当時の小泉政権とかも、実際、福祉予算を削ったりととんでもないことをやっていましたが、そのあたりに釘を差すことも忘れていません。当時の世相やマスコミの浮つき具合は今と大差ありませんでしたが、著者はさすがにみるべきところをみていましたね。

こうやって時間がたってみると、世相の浮つき加減だけは相変わらずですね。しかし、最近は誰がどう浮ついているのかも見分け難くなってきている気がします。著者のようにちゃんと釘を差したり水を差したりしてくれる人が少なくなっているせいでしょうか。少なくとも著者は早逝してしまって、本当に残念なことです。

(中公文庫2004年533円+税)

| | コメント (0)

2012年9月 4日 (火)

グリアソン『沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説』

グリアソンのSilent Trade(1903)の翻訳があったことを知って、早速読んでみました。これは確かに先駆的な経済人類学的業績ですね。世界各国の民族学的文献が参照されていて、原初的暴力と殺人の段階から交易段階への人類のジャンプがわかるように描かれています。

これで見る限り、まずは人類は共同体維持のため、かなりの殺し合いをやってきたことが報告されます。原始社会というと平和で穏やかなイメージもありますが、決していつもそんなに安閑とはしていられなかったようです。

そして、そんな殺し合いもいつまでもやってはいられないということで交易が始まった、と著者は見ています。そうかも。人類の死因の大きな部分を実は殺人が占めてきたとは最近の研究でも明らかになってきていますが、そのことを裏付けるものとしても貴重な文献かもしれません。

沈黙交易自体も世界中の例がふんだんに収録されていて、実に面白いです。ハンガリーの法哲学者ショムローの財貨取引についての研究(1909)も、本書の研究をかなり引用しているので、個人的には馴染みのある話も結構ありましたが、いずれにしても、本書はこの分野の先駆的業績として貴重だと思います。

ついでにショムローの『原始社会の財貨取引』(1909)もどこかの本屋が出してくれないでしょうかね。訳文は完成していますけど。

(ハーベスト社1997年2200円+税)

| | コメント (0)

2012年9月 3日 (月)

片山ユキヲ・東百道『花もて語れ5』

朗読を題材にしたマンガ、第5巻が出ました。出たばかりです。お勧めです。この巻では太宰治の「黄金風景」がとりあげられます。作品の深い解釈と、そこから広がるイメージの展開が感動的でした。太宰のこの作品も読んでみなくては。

(小学館2012年600円+税)

| | コメント (0)

2012年9月 2日 (日)

佐貫亦男『不安定からの発想』

航空工学の苦難の歴史だけでなく、不安定な状態を受け入れつつ、操縦することで安定を獲得するという知的営みが、実人生にも多くのヒントを与えてくれることも教えてくれる本です。

著者はこれを意識的に展開していて、本書中には様々な金言が散りばめられています。

著者は次のように言います。

「もちろん、力学と人間的行動との対比には問題があるから、このとおりとは断言できないが、よく対応する点も多い。したがって、このような力学的モデルを作って一応結論した上で、さrに細部にわたって再検討し、必要ならば訂正変更をすれば、さらに興味のある内的反省が可能となる」(214頁)

こういう思考法はわが国では畑村洋太郎さん設計理論などに典型的に現れていますが、本当はわが国の社会学的思考があまりにも理論モデルの構築とは無縁の作文をするので、こういう議論に慣れていないだけのことかもしれません。

本当はコントやデュルケームやヴェーバーの社会学理論にもこの要素が含まれているのですが、ついつい文学的ではないにしても、難しい文体の思想的著作として、こうした理論を情緒的に理解しようとする傾向があるため、話を無用に複雑にしてきました。

同じテキストを読んでもつかまえるポイントが随分ずれているところがあるのです。

その点で、こうした理系的なすっきりとしたモデル構築的知性に出会うと、頭の中のごちゃごちゃを掃除し、整理整頓してもらっているようで、さわやかな気になります。

比喩のすべてに納得がいくわけではなくても、作者自ら訂正変更の余地を織り込み済みなので、著者から議論の内容以上に余計なプレッシャーを受けることはありません。

著者の文体は堅苦しいものでないどころか、ユーモラスでおおらかな人となりが伝わってきます。楽しい本でした。

(講談社学術文庫2010年840円税別)

| | コメント (0)

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »