« 内山節『哲学の冒険』 | トップページ | 西加奈子『ふくわらい』 »

2012年9月30日 (日)

木田元『ハイデガー拾い読み』

著者によれば、ハイデガーは『存在と時間』の哲学者であると同時に、プラトンやアリストテレスの読解において、数々の優れた独創的解釈を提示した哲学史家でもあったとされます。

そのことがよく分かるのが、ハイデガー自身の講義録で、その膨大なテクスト群の中からこれはというところを紹介して論じたのが本書です。

なるほどこうして読んでみると、哲学史の常識を根底からひっくり返すような独創的な読み方から、ちょっと牽強付会にすぎるなと思われる読み方まであるのですが、強引な読み方も、本人の思想に引きつけてのことで、その理由を考えてみるとなるほど確かにその面白さは伝わってきます。

一方で著者は、評伝などからハイデガーの「人柄を知れば知るほど、私はこの人が嫌いになる」(12頁)とも正直に述べていて、その著者の姿勢には共感できます。こうして正直に述べられると、著者が言うように、人物はとんでもなく嫌なやつでも思想は面白いというのもありなのかもしれないという気にはさせられます。

まあ、少なくともその場合、ハイデガーの思想の何が面白いのかということが問題になってくると思います。ハイデガーは、プラトン以来の存在の哲学を「何かを作る」存在としてとらえ、それを「何かが成る」存在として組み替えようという壮大な構想を持っていたようです。

作るものとしての存在は、制作者の意図があって妙なものを排斥できますが、「成る」存在は自然の事物も人間もなんでもあるがままに入ってきます。無為自然という言葉を思い出しますが、これは日本人にとってはむしろ馴染みやすい思想になってしまいます。

矛盾や両論併記の状態に強いわれわれとは違って、本来制作的自然の考え方で善悪の問題を処理してきたはずのハイデガーにとって、突然「なんでもあり」の思想を主張するのは、あのヨーロッパ文化圏においては危険で悪魔的ととらえられかねないでしょう。日本人の私でもちょっといかんのではないかと心配になるくらいです。

そういう点で、もともとスコラ哲学の専門家になろうとしていたハイデガーですが、アリストテレス研究を推し進めて神学を封印したところには思いの外重大な意味があったのかもしれません。後の哲学の展開でも、制作的存在論の実は核心になるはずのキリスト教の立場をキルケゴールに言及しながらあっさり切り捨てているのも、こうしてみると腑に落ちるところがあります。

現実生活では悪の哲学の実践をしたのではないかと思うくらいの人でしたが、思想としては終始一貫していたように見えてきました。思想は彼の悪を解放する働きさえしたのではないかという気もします。

以上この5段落ほどは本書には書かれているわけではなくて、私の妄想にすぎません。ただ、そういう妄想に示唆を与えてくれた本書には感謝しています。自分なりにハイデガーについてのイメージがようやく持てたからです。

ファンの人には申し訳ありませんが、要するにハイデガーはジョン・レノンみたいな人だったのね、というのが私の理解です。ただ、それはそれとして、講義録の『現象学の根本問題』は読んでみなくてはと思っています。

(新潮文庫平成24年520円税別)

|

« 内山節『哲学の冒険』 | トップページ | 西加奈子『ふくわらい』 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。