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2013年6月28日 (金)

ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス 知覚と運動の人間学』木村敏・浜中淑彦訳

本書昔読んで、高度の専門的記述におののいた記憶だけが残っていましたが、今回読みなおしてみると、神経生理学の専門知識が増えたわけではないので、その点は今も変わっていませんが、その記述の中に息づいている思想の深さにあらためて驚かされました。

このところ木村敏の著書を読んでいることもあって、ヴァイツゼッカーの思想のエッセンスを何度も目にしているため、理解が進んだということもあると思います。それにしても、木村敏の解釈も見事です。この本からあれだけのことを引き出せるとは、やはり驚かないわけには行きません。

もう一人の訳者の浜中先生は坂田徳男の読書会「土曜会」のメンバーでもあり、訳者としても適任だったと思います。大橋博司先生もそうですが、坂田徳男のSinnの哲学の流れからすると、ヴァイツゼッカーの仕事も共鳴できたに違いありません。

ゲシュタルトクライスというのは行動の都度生成する人間のあり方ですので、坂田先生の言われる Sinn Kreis とも同じといえば同じですから(坂田徳男『人間崩壊さなかの哲学』)。

また、私の師匠の中村雄二郎の共通感覚論についての一連の仕事もヴァイツゼッカーと共鳴関係にあります。

生命現象のパトス的性格(293頁以降)や、知覚という行為の中に「述語的」性質(170頁)を見とっていることなど、実に面白いと思います。

ただ、中村先生に以前坂田徳男の本を紹介したことがありましたが、そちらの方は今ひとつピンときていなかったようでした。というか、坂田徳男の言うことが林達夫に似ているという感想を述べられただけにとどまりました。

ちょっと違うと思ったんですが、ま、いっか。

それはそうと、この機会に坂田徳男の幻の名著『性格学』も、もういちど読み返してみたくなってきました。

(みすず書房1975年5000円+税)


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2013年6月27日 (木)

安永浩『精神の幾何学』

著者のウォーコップ論を昔、岩波『講座精神の科学』第3巻で読んで、非常に感銘を受けたことがあります。本書はそのウォーコップについて、作者がその後の一層徹底した読解を通じて、独自の精神医学理論を紡ぎだすまでの歩みが分かる本です。

ウォーコップは生前に『ものの考え方―合理性への逸脱』という1冊の本しか残さなかった謎の哲学者ですが、その著書は実に魅力的で、講談社学術文庫の深瀬基寛訳を私も誇張ではなく100回近く読んだことがあります。

私のホームペー『知られざる思想家たち』でも紹介していますので、よかったらご覧ください。

ウォーコップを繰り返して詠んだおかげで、当時流行っていた現代思想のインチキなものには惑わされずにすんだ気がしますが、著者も同様に感じられていたようで、「目まぐるしく多様な変動のさ中にあって、ウォーコップ的ものの見方が、変わらず安定した視点を供給してくれた」と書かれています(142頁)。

ウォーコップは、生と死、無合理と合理、質と量、主観と客観、自己と他者といった二元論的パターンを通じて、世界を説明する方法をとりますが、常に、生から出発して理解するところが、実によく考えぬかれていて、ゆにーくなところです。

著者は学生時代からずっとこのウォーコップに親しみ、ウォーコップの思想のより一層の展開を成し遂げています。図式は洗練を加えられ、精神医学の分野だけでなく、哲学的認識論としても説得力を増しています。

私はこんなふうには展開できないですね。参りました、と率直に思います。

私の場合は「人間は神の他者である」という表現について、ずっと考え続けているところだけは、著者とは違うところかもしれません。その成果をいずれうまくまとめられたらいいなとは思っています。

たぶそんなふうに人によっていろんな読み方ができるのも、ウォーコップのえらいところなんでしょうね。

(岩波書店1999年2500円税別)

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2013年6月19日 (水)

木村敏『生命のかたち/かたちの生命』

本棚を眺めていたら、本書を発見。2005年の第3版で、一度は読んでいるはずの本ですが、読んだことをすっかり忘れていたので、再読。付箋まで貼ってあったんですけど、内容はすっかり忘れていました。

再読したら新しい発見があり、新たに付箋を貼りましたが、また何年かしたら忘れてしまうでしょうか。いずれにせよ、今回は印象に残った箇所をしっかりブログに書いておくことにします。

精神医学の対象というのは、普通の物理的現象のようにさしあたりこれ、と決めてしまうことができません。それだけに、観察の主体と客体の問題を常に原理的に考察しなければならないため、話題が哲学的になる傾向があります。

かつて、やはり精神医学者の安永浩さんがウォーコップに注目された理由もよくわかります(『講座 精神の科学3』岩波書店1985年、あるいは『精神の幾何学』)。

その結果、精神医学と同様に学問的対象を特定しづらい社会学や心理学にとっても有益な、そして、哲学や思想に興味のある一般読者にとってもわくわくさせられる、優れたテクストが残されることになります。

ことに最近社会心理学の理論的裏付けについて考えていることもあって、本書は多くの手がかりを与えてくれます。

著者は、ヴァイツゼッカーの「根拠関係」(その根拠自体が認識対象となり得ないような依存関係)の概念を手がかりに、こう述べています。

「生きているものを研究するために生命と関わりあうということは、われわれ自身が行為者として、行為しながら、行為そのものに内在する感覚でもって生きものを「見る」ということにほかならない。外界の光を媒体としてみるのではなく、われわれ自身の動きを媒体としてみるということである。そしてそれは同時に、研究対象をその生命から切り離して客観的に考察するのではなく、対象自身が行為し感覚しながら生きている生命活動そのものに照準を合わせてこれを見るということでもある。一言で言えば、行為主体としてのわれわれの自身が行為主体としての生き物に行為的に関わるということだ」(20頁)

ちょっと引用が長くなりましたが、こういう感じで著者はいつも曰く言いがたいことを言い当てるようなところがあります。綿密な思考とリズムを兼ね備えた絶妙な表現力が魅力です。

それはそうと「根拠関係」が気になるので、これからヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライス』も読みなおしてみます。

(青土社2005年[初版1992年]1800円税別)

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2013年6月17日 (月)

木村敏『偶然性の精神病理』

『あいだ』(1988年)を読んで以来久々に著者の本に接します。

客観的現実(リアリティ)と生命的事実(アクチュアリティ)の「あいだ」に自己が存在しているということです。

このバランスが崩れると、たとえば離人症のように、生き生きとした、あるいは生々しい「現実感」(アクチュアリティ)を失った状態に陥ったりするようです。

実際、とりあげられる離人症の症例も、痛々しいですけれど、確かにそういう感じです。著者によれば、離人症患者は「自身のアクチュアリティが失われているというリアリティ」を、大きな苦痛を伴って生々しく感じ取っている(14頁)とのことです。

リアリティとアクチュアリティは本書においては「アル」と「イル」の対比になぞらえて考察されてもいます。

「人間とはむしろ、『イル』と『アル』とのはざまで、この2つの存在様態が織りなす微妙な関係のーと言うことはつまり必然と偶然のあいだの決して相互排除的でない関係のー戯れに玩ばれている存在ではないだろうか」(83頁)

「この必然と偶然の、生成と存在の交錯するネットワーク、それが自己の居場所である。『イル』は単に『アル』の対偶ではない。物質の起源が生命の起源より古いのと同様に、偶然は必然より古く、アルはイルより古い。アルがはじめてイルを可能にする。必然とは姓名が偶然の世界に打ち込んだ亀裂である。『こころ』とは姓名が物質の世界に分け入った間隙である」(94-95頁)

この曰く言いがたいことを見事に言葉に表せるのが、著者のすごいところです。

さらに本書では、「フロイト以降の個人心理学的・『心因論的』な無意識論に対するひとつの大きな補完」(190頁)として、ハンガリー出身のソンディの運命分析を再評価していて興味深いものがあります。

いわゆる「ソンディテスト」で有名なソンディ理論の基本構想はフロイトの個人的無意識とユンクの集団的無意識との「あいだ」にあって、運命や遺伝を問題にしたわけですが、その表面上の用語はともかくとして、その着想自体は、社会心理学や社会学にも通じる重要な論点を含んでいると思います。

その点については著者の言葉を引用しておきます。

「われわれの意識的行動の主体を『わたし』と呼ぶとするなら、『わたし』とはなにも個人についてだけ言えることではないのではないか。強固な団結を形成しているグループについては、それが数人の単位であれ数百人の単位であれ、あるいは数千万、数億の国家単位であれ、そこには構成メンバー個々の『わたし』から独立した統一的な―『われわれ』としての―『わたし』のようなものが見られるのではないか。そしてメンバー個々の『わたし』の―しばしば『アイデンティティ』と呼ばれる―自己意識は、どうしてもこの統一的な『われわれ』を動かしている得体の知れない力に吸い込まれ、あらがいがたく他のメンバーと相似の方向に向かって流されて行くのではないだろうか」

「だが、私たちの気持ちのなかには、自分がこの強大な集団的無意識にもてあそばれることを潔しとせず、自分があくまでも一人のかけがえのない『わたし』であることを、そして自分自身が―意識レベルであれ無意識レベルであれ―自分の行動の主体であることを求める意識があることも、同じように確かなことである」(179−180頁)

(岩波現代文庫2000年1000円+税)

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2013年6月13日 (木)

笹山尚人『人が壊れてゆく職場 自分を守るために何が必要か』

著者は労働問題を専門に扱う弁護士です。その誠実で熱い姿勢が印象的な本です。

著者は言います。

「労基法は、どんなに非力な使用者であっても、人を雇う以上はこれくらいのことは守れるはずだということを前提に制定されている。だが、この労基法の内容をきちんと守っている職場に、私はほとんどお目にかかったことがない。そして、そのことを指摘すると『法律をいちいち守っていたら、経営なんてできませんよ』と開き直る使用者も多い」(216頁)

これ、わかります。他人事ではありません。身につまされるくらいよくわかります。

実際、この趨勢は著者が労働事件を担当してからこの方ずっと変化していないことだそうです。

他方で、労働者の生活の困窮の程度は非正規雇用者を中心に、明らかにひどさを増していると言います。

どうやら事態は経団連の要望とそれを受けた政府の政策どおりに進んでいるようです。

これはデフレになるはずです。本書とは直接の関係はありませんが、デフレ賃下げ原因説の情況証拠にもなります。

著者は自分を守るためには「法に定める権利の実現」をストレートに追求することを勧めます。手段としては交渉や裁判、それから労働組合として団結することというオーソドックスなものですが、本書ではその力が効果的に発揮された事例をいくつもとりあげてくれていて、参考になります。

非正規雇用の労働者でも「首都圏青年ユニオン」のような組合に加入することができ、実際に成果が上がっています。

最後にもう一つ引用しておきます。
「労働法について学び、現実の労働事件で多くの労働者が、使用者の勝手で違法な行為に苦しめられているところを毎日見ている私の立場からすると、『まともな労働組合』というのは切望する存在である。また、そういう労働組合とのつきあいは実に清々しく、楽しい。そして、そういう組合は実は結構多い。しかし、それは世の中の一般的潮流とはなっておらず、多くの人が労働組合の良さを知らないことは、日本にとって大きな不幸の一つだと私は思っている」(170頁)

同感です。私も今加入している組合がそういう組織になるよう尽力していくつもりです。

(光文社新書2008年760円+税)

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2013年6月11日 (火)

森博『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

著者は非常に整然とした頭の使い方をする人なので、複雑に入り組んだ問題に対して、一見虚を突いたような、あるいは人を喰ったような言い方でありながら、見事ご名答、という芸当で読者を楽しませてくれます。

本書には物事を「抽象的に考える」ための手がかりが示されています。

世の中の趨勢は具体的でわかりやすいものを求める方向にあるため、かえって瑣末な事柄にとらわれて思考の自由さや柔軟性を失っているところがあります。

著者の言う「抽象的に考える」というのは、それとはまったく反対に、客観的で冷静に事態を見極めることができ、思考の自由を獲得できることになります。

まえがきに、島をめぐる領土問題でもめている当事国の間で、その島が相手の領土だと主張する学者(「その学者は、自国の国益を棚上げしているだけでも普通の人より客観的だろう」)を出し合って、会議をさせるというアイデアが披露されていました。

理想論として一笑に付す前に、著者のこの発想力から学ぶことが多いと思います。他にも新鮮な物の見方がたくさん披露されています。

自由な発想ってこういうことを言うのでしょう。

多くの若い人に読んでほしい読んでほしい本です。

(新潮新書2013年700円税別)

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2013年6月 9日 (日)

佐野誠『99%のための経済学【教養編】 誰もが共生できる社会へ』

著者が良い人すぎて肌に合いません。

私も新自由主義を支持するわけではありませんが、
小泉政権以来の新自由主義がマスコミを通じて
国民を洗脳しているとは見ていません。

マスコミはもっと定見がないでしょう。

言うまでもなく、誰もが共生できる社会というのは理想ですが、
本書ではその経済学的根拠は十分に触れられていないので、
詳細については本書の理論編を読まなければいけないようです。

著者が洗脳されやすい国民を教え導いてくれるなら、
それはそれで素晴らしいことですが、
立場やイデオロギーの異なる人びとの言い分を

対話的に検討するようなスタンスではないのが気になるところです。

もうひとつ気になるのは、
著者自身がマスコミの情報を結構うのみにしているところです。
「アラブの春」や「ミャンマーの軍事政権」についての
一方的な味方は朝日の報道のまんまですし、
アメリカ合衆国の標記を「合州国」とするのは
本多勝一の見解のまんまです。

これって著者の言う洗脳ではないでしょうか。

たとえば高島俊男の見解も並べて検討したというようには
見えないのが残念です。

真面目でいい人なんでしょうけどね。

そういう人ほど自分と近い立場のインテリの言うことを
あまり疑わずに信じこんでしまいがちです。

もちろん、理論編が理論的にどうなのかは別問題ですし、
それに、共生の経済というのが実際可能なのかということにも
興味がありますので、いずれ読んでみるつもりではいます。

(新評論2012年1800円+税)

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2013年6月 8日 (土)

ヒューム『人性論』(三)大槻春彦訳

文庫の三巻目は原著の第二篇「情緒について」ですが、現代風に言えば「情念について」でしょうか。

この巻ではこれまでの抽象的議論から、具体的な自負と自卑、徳と美徳、美と醜、所有と富、名声愛、といった情念ないしは感情の問題が考察されています。

第一篇の「知性について」のような論理で押していく書き方と違って、少し勝手が違うので、本来の総論に当たる部分の第一篇をもう一度読みなおしながら、並行して読み進めました。

具体的な議論の展開の仕方が今の感覚からすると18世紀風にのんびりしているように見えるのが、ちょっとした違和感の理由のようです。論理についていくのではなくて、リズムに乗るのにコツが要るようです。

それにしても、経験論から問題が情念や道徳へと展開するというのは、要は個々の人間のミクロの印象や観念がどうやって社会全体の問題になっていくのかということだろうと思います。

一人の人間の話で収まりきれなくなってくるので、これは社会理論を含まざるをえないのです。ここでヒュームは「共感」という作用を一つの鍵概念として考えています。

この方向で論じられた社会理論というのは実は社会理論という看板を掲げる形ではほとんど存在しないように思われます。個人と社会の間には何らかの懸隔があって、単なる個人の集合がそのまま社会になるのではなく、社会はある意味でまとまった対象として、「物として」とらえられたり(デュルケーム)、理念型としてモデル化されたり(ヴェーバー)したほうが通りがいいからです。

経験論的立場では個人と社会との間に本質的な違いを認めないので、そこからどんな形で話が拡がるのかということは、実は昔からずっと考えてはいるのですが、それがそもそも「理論」として成り立つのかという問題もあるので、なかなか厄介です。

ただ、経験論と相性のいい社会理論家というのは、本人がそれを意図したかどうかはさておき、ニーチェ、フロイト、ベルクソン、アラン、D.H.ロレンス、ハイエク、ファイアアーベント、タレブのような、大理論嫌いの思想家たちではないでしょうか。(マイケル・ポラニーもハイエクに影響を与えたということから、このリストに入れておきたいと思います。)

とまあ、こんなことを考えながら読んでいます。

(岩波文庫1995年リクエスト復刊620円税込)

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2013年6月 5日 (水)

ヒューム『人性論』(二)大槻春彦訳

この巻では事物の同一性、人格の同一性が問題にされています。

あるものがそれとしてあるということは、考えてみれば結構不確かなことで、それを見ている人の印象と、その存在を確信することの間には、どうも理屈として納得できない要素があるとヒュームは見ています。

これが信念の問題になると、最初の感覚的印象に勢いや活気というものが加わって、余計怪しいではないかと言います。

「我々はこの連続的存在を捏造するだけでなく、信ずるのである。したがって疑問は、どこからこうした信念が起こるかである」(43頁)

このとき、人の知覚とその対象との間のつながりをそれぞれ別々のものとみる哲学的二元論はヒュームの考え方ではありません。怪しいけれどもつながっている。しかし、つながっているけれども怪しいと見るのです。

こうなると、物だけでなく、自我の同一性も怪しいものになてきます。
「人間とは思いも及ばない迅さで次々に継起する・久遠の流転と動きとの裡にある・様々な近くの束ないし集合にすぎない」(103頁)

20世紀初めにマッハが言っていたことですね。

そして、そこから同一性をめぐって「虚想」を紡ぎ上げる人間の理知(理性)について話が展開します。「人知の多種な矛盾と不完全」(124頁)とまで述べています。

そうすると、人間の存在理由や人生の目的までぐらつくことになりそうですが、そこでヒュームが言うのは、
「理知がこうした迷いの雲を吹き払し得ないとき、[人性の]自然それ自身が十分にこの目的を果たしてくれる。すなわち、上記の心的趨勢がひとりでに緩むか、さもなければ感官が他に何らかの気晴らしを求め、生気ある印象を得て一切のこうした妄想を抹殺するか、そのいずれかによって、この私を悩ます哲学的憂鬱および精神錯乱は自然に治癒されるのである」(124頁)
「私は感官や知性に服従して、よって以って自然の流れに身を任せてよいのである。いや、任せなければならないのである。」(125頁)

というわけで、結論としては、西洋の伝統的形而上学からむしろ意識的に縁を切った自然主義的哲学が語られています。

日本人にはある意味で感覚的にしっくり来るところのある哲学者でもありますが、形而上学批判の鋭さは迂闊に近づくと手を切るくらい危険なところがあります。

翻訳は訳語に多少違和感があるので、「理知」は「理性」、「情緒」は「情念」というふうに読み替えるとしっくりきたりします。論文でも書くとしたら、原書で確認しておく必要がありますね。

新訳も出ているので買わなきゃ。

(岩波文庫1995年リクエスト復刊460円+税)

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2013年6月 3日 (月)

ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』香西泰訳

山岸俊男の本で高く評価されていたので、読んでみました。これはすごい本でした。

人類の道徳を二種類に分けて捉え直すという着想もさることながら、それを6人の登場人物からなる小説ないしはプラトン流の対話篇形式で語るというスタイルも意表をつくものがあります。

こういう書き方でもいいんだ、という可能性を身を持って示してくれると、後に続く著述家たちの無意識のリミッターを解除してくれる効果があります。

そのためついつい、自分も書いてみようかという気になってしまいそうですが、ここは何よりも著者の精神の自由さを見習うべきところでしょう。そもそも簡単にかけるものではありませんし。

さて、著者のいう「市場の倫理」とは、「暴力を締め出せ」「自発的に合意せよ」「正直たれ」「他人や外国人とも気やすく協力せよ」といった形で、人びとの自由な意志に基づく、暴力を排除した契約社会のそれで、題目通り商業と相性がいいものです。

他方「統治の倫理」とは「取引を避けよ」「勇敢であれ」「規律遵守」「伝統堅持」というように、共同体のまとまりを重視し、略奪と収奪を根底においた戦闘的かつ戦略的なそれです。

これは山岸俊男の信頼社会と安心社会の区分に対応するものですし、ベルクソンなら開かれた道徳と閉じられた道徳のそれに対応するものですが、著者はこの二種類の倫理を混同すると「救いがたい腐敗」が生じると見ていることです。

この着想が最初に示されたのはプラトンの『国家』で、探してみると岩波文庫上巻の300ページあたりになるほどそのような記述がありました。スタイルも含めて、著者のアイデアの源泉になっていることがわかります。

それにしても、どうも両方の倫理の「いいとこ取り」というわけにはいかないようで、伝統的社会において、両者の混同が避けられてきたのは、著者によれば、一つには身分制社会だったからという理由が挙げられています。

このあたり、人類史上のある時期から資本制社会のパワーが増大する近代市場社会に入るわけですが、両方の倫理の混同がそのこととどんな関係にあるのかは、本書では特段には触れられていません。これは自分で考えておきましょう。

わが国に関して言えば、武士道と町人道徳を混同されることを考えるとわかりやすいかもしれません。今なら官僚の行動パターンが、武士道に当たると考えたらいいかもしれません。かなり情けなくなっていますが。

もっとも、日本に限らず、今日の民主主義社会においては当然ながら身分制をとることはできないので、著者はこうした二種類の倫理の存在を認めた上で「自覚的倫理選択」をしなければならないと考えています。

そううまく行くかどうかはわかりませんが、さしあたり、現代の道徳的腐敗の原因をこの二種類の道徳の混同に基づくと考えるのは、かなり有効な視点だと思いますし、おお、これは町人道徳(市場の倫理)だな、とか武士道ないしは役人根性(統治の倫理)だなと見ていくだけでも面白かったりします。

他にも細かな話題として、イク族の話とか身分制社会における商人の位置づけとか、グラミン銀行の話とか、様々な貴重なトピックが出てきて、本当に勉強になります。本を書くならこれくらい知的刺激のあるものにしないといけませんね。

(日本経済新聞社1998年2000円+税)

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2013年6月 2日 (日)

ヒューム『人性論』(一)大槻春彦訳

読めば読むほど過激な本です。よくこんなことを言えたなあと感心することしきりです。

本書『人性論』第一編では「理性」(理知)はどこかおかしいということと、因果関係なんか厳密には実証できないということを徹底的に論証しています。執念深さすら感じます。

25歳で本書を書いた頃のヒュームはガリガリに痩せ細っていたそうですが、おそらくその頃は本当にカミソリのような切れ味の知性だったのでしょう。

しかし、これは確かに一般読者はついてこられません。あまりの売れ行きの悪さに本人も悄然としていたようですが、現在残されているヒュームの肖像画は信じられないくらいふくよかで幸せそうな表情です。

何があったのかというと、有名な『イギリス史』を書いて、それが爆発的な売れ行きを上げたのです。そのために、ヒュームは印税だけで一生食べて行けるようになり、悩ましげな哲学者の風貌からは無縁でいられたのでした。

しかし、この人性論、ヒュームの言いたかったことが凝縮されています。このあたりを文献に基づいて、かつ、抜群の感性で読み解いたのが現代フランスの今は故人となったジル・ドゥルーズでした。(『ヒュームあるいは人間的自然』)

因果関係に見えるものは、印象に生気や勢いや活気が加わったもので、それはしばしば習慣に過ぎなかったりする、なんてことを言ってしまうと、第一原因たる神への冒涜だと読む信仰者もいたことでしょう。

実際、熱烈なクリスチャンであったカントも、ヒュームのこの本には心底驚かされたようですが、そこから立ち直って自分の哲学を作りました。それはそれで大変なことで哲学史的には意義深いことですが、ヒュームの衝撃の意味は時代が変わっても何度もおさらいしておく必要がありそうです。

どうやら人類はヒュームの頃からしても一向に賢くなっていないようです。というのも、人びとは理性で他者を操作し、理想的な経済および社会の運営をすることができるという信仰からなかなか自由になることができないからです。

社会主義圏が総崩れになっても、科学や理性信仰は健在です。人びとを「独断のまどろみから目覚めさせる」(カント)のに必要にして十分なことをヒュームは言ってくれているんですけど、〈誰を差し置いても理解してもらいたい人〉からだけは理解されない本かもしれません。

新しい訳も出ているようなので、いずれ入手するつもりですが、本格的に健闘するならやはり原書を読んだ方がよさそうです。

(岩波文庫1995年リクエスト復刊670円)

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