« ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』香西泰訳 | トップページ | ヒューム『人性論』(三)大槻春彦訳 »

2013年6月 5日 (水)

ヒューム『人性論』(二)大槻春彦訳

この巻では事物の同一性、人格の同一性が問題にされています。

あるものがそれとしてあるということは、考えてみれば結構不確かなことで、それを見ている人の印象と、その存在を確信することの間には、どうも理屈として納得できない要素があるとヒュームは見ています。

これが信念の問題になると、最初の感覚的印象に勢いや活気というものが加わって、余計怪しいではないかと言います。

「我々はこの連続的存在を捏造するだけでなく、信ずるのである。したがって疑問は、どこからこうした信念が起こるかである」(43頁)

このとき、人の知覚とその対象との間のつながりをそれぞれ別々のものとみる哲学的二元論はヒュームの考え方ではありません。怪しいけれどもつながっている。しかし、つながっているけれども怪しいと見るのです。

こうなると、物だけでなく、自我の同一性も怪しいものになてきます。
「人間とは思いも及ばない迅さで次々に継起する・久遠の流転と動きとの裡にある・様々な近くの束ないし集合にすぎない」(103頁)

20世紀初めにマッハが言っていたことですね。

そして、そこから同一性をめぐって「虚想」を紡ぎ上げる人間の理知(理性)について話が展開します。「人知の多種な矛盾と不完全」(124頁)とまで述べています。

そうすると、人間の存在理由や人生の目的までぐらつくことになりそうですが、そこでヒュームが言うのは、
「理知がこうした迷いの雲を吹き払し得ないとき、[人性の]自然それ自身が十分にこの目的を果たしてくれる。すなわち、上記の心的趨勢がひとりでに緩むか、さもなければ感官が他に何らかの気晴らしを求め、生気ある印象を得て一切のこうした妄想を抹殺するか、そのいずれかによって、この私を悩ます哲学的憂鬱および精神錯乱は自然に治癒されるのである」(124頁)
「私は感官や知性に服従して、よって以って自然の流れに身を任せてよいのである。いや、任せなければならないのである。」(125頁)

というわけで、結論としては、西洋の伝統的形而上学からむしろ意識的に縁を切った自然主義的哲学が語られています。

日本人にはある意味で感覚的にしっくり来るところのある哲学者でもありますが、形而上学批判の鋭さは迂闊に近づくと手を切るくらい危険なところがあります。

翻訳は訳語に多少違和感があるので、「理知」は「理性」、「情緒」は「情念」というふうに読み替えるとしっくりきたりします。論文でも書くとしたら、原書で確認しておく必要がありますね。

新訳も出ているので買わなきゃ。

(岩波文庫1995年リクエスト復刊460円+税)

|

« ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』香西泰訳 | トップページ | ヒューム『人性論』(三)大槻春彦訳 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。