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2013年6月17日 (月)

木村敏『偶然性の精神病理』

『あいだ』(1988年)を読んで以来久々に著者の本に接します。

客観的現実(リアリティ)と生命的事実(アクチュアリティ)の「あいだ」に自己が存在しているということです。

このバランスが崩れると、たとえば離人症のように、生き生きとした、あるいは生々しい「現実感」(アクチュアリティ)を失った状態に陥ったりするようです。

実際、とりあげられる離人症の症例も、痛々しいですけれど、確かにそういう感じです。著者によれば、離人症患者は「自身のアクチュアリティが失われているというリアリティ」を、大きな苦痛を伴って生々しく感じ取っている(14頁)とのことです。

リアリティとアクチュアリティは本書においては「アル」と「イル」の対比になぞらえて考察されてもいます。

「人間とはむしろ、『イル』と『アル』とのはざまで、この2つの存在様態が織りなす微妙な関係のーと言うことはつまり必然と偶然のあいだの決して相互排除的でない関係のー戯れに玩ばれている存在ではないだろうか」(83頁)

「この必然と偶然の、生成と存在の交錯するネットワーク、それが自己の居場所である。『イル』は単に『アル』の対偶ではない。物質の起源が生命の起源より古いのと同様に、偶然は必然より古く、アルはイルより古い。アルがはじめてイルを可能にする。必然とは姓名が偶然の世界に打ち込んだ亀裂である。『こころ』とは姓名が物質の世界に分け入った間隙である」(94-95頁)

この曰く言いがたいことを見事に言葉に表せるのが、著者のすごいところです。

さらに本書では、「フロイト以降の個人心理学的・『心因論的』な無意識論に対するひとつの大きな補完」(190頁)として、ハンガリー出身のソンディの運命分析を再評価していて興味深いものがあります。

いわゆる「ソンディテスト」で有名なソンディ理論の基本構想はフロイトの個人的無意識とユンクの集団的無意識との「あいだ」にあって、運命や遺伝を問題にしたわけですが、その表面上の用語はともかくとして、その着想自体は、社会心理学や社会学にも通じる重要な論点を含んでいると思います。

その点については著者の言葉を引用しておきます。

「われわれの意識的行動の主体を『わたし』と呼ぶとするなら、『わたし』とはなにも個人についてだけ言えることではないのではないか。強固な団結を形成しているグループについては、それが数人の単位であれ数百人の単位であれ、あるいは数千万、数億の国家単位であれ、そこには構成メンバー個々の『わたし』から独立した統一的な―『われわれ』としての―『わたし』のようなものが見られるのではないか。そしてメンバー個々の『わたし』の―しばしば『アイデンティティ』と呼ばれる―自己意識は、どうしてもこの統一的な『われわれ』を動かしている得体の知れない力に吸い込まれ、あらがいがたく他のメンバーと相似の方向に向かって流されて行くのではないだろうか」

「だが、私たちの気持ちのなかには、自分がこの強大な集団的無意識にもてあそばれることを潔しとせず、自分があくまでも一人のかけがえのない『わたし』であることを、そして自分自身が―意識レベルであれ無意識レベルであれ―自分の行動の主体であることを求める意識があることも、同じように確かなことである」(179−180頁)

(岩波現代文庫2000年1000円+税)

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