ヒューム『人性論』(一)大槻春彦訳
読めば読むほど過激な本です。よくこんなことを言えたなあと感心することしきりです。
本書『人性論』第一編では「理性」(理知)はどこかおかしいということと、因果関係なんか厳密には実証できないということを徹底的に論証しています。執念深さすら感じます。
25歳で本書を書いた頃のヒュームはガリガリに痩せ細っていたそうですが、おそらくその頃は本当にカミソリのような切れ味の知性だったのでしょう。
しかし、これは確かに一般読者はついてこられません。あまりの売れ行きの悪さに本人も悄然としていたようですが、現在残されているヒュームの肖像画は信じられないくらいふくよかで幸せそうな表情です。
何があったのかというと、有名な『イギリス史』を書いて、それが爆発的な売れ行きを上げたのです。そのために、ヒュームは印税だけで一生食べて行けるようになり、悩ましげな哲学者の風貌からは無縁でいられたのでした。
しかし、この人性論、ヒュームの言いたかったことが凝縮されています。このあたりを文献に基づいて、かつ、抜群の感性で読み解いたのが現代フランスの今は故人となったジル・ドゥルーズでした。(『ヒュームあるいは人間的自然』)
因果関係に見えるものは、印象に生気や勢いや活気が加わったもので、それはしばしば習慣に過ぎなかったりする、なんてことを言ってしまうと、第一原因たる神への冒涜だと読む信仰者もいたことでしょう。
実際、熱烈なクリスチャンであったカントも、ヒュームのこの本には心底驚かされたようですが、そこから立ち直って自分の哲学を作りました。それはそれで大変なことで哲学史的には意義深いことですが、ヒュームの衝撃の意味は時代が変わっても何度もおさらいしておく必要がありそうです。
どうやら人類はヒュームの頃からしても一向に賢くなっていないようです。というのも、人びとは理性で他者を操作し、理想的な経済および社会の運営をすることができるという信仰からなかなか自由になることができないからです。
社会主義圏が総崩れになっても、科学や理性信仰は健在です。人びとを「独断のまどろみから目覚めさせる」(カント)のに必要にして十分なことをヒュームは言ってくれているんですけど、〈誰を差し置いても理解してもらいたい人〉からだけは理解されない本かもしれません。
新しい訳も出ているようなので、いずれ入手するつもりですが、本格的に健闘するならやはり原書を読んだ方がよさそうです。
(岩波文庫1995年リクエスト復刊670円)
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