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2013年9月26日 (木)

デカルト『方法序説』落合太郎訳

本書を読むのは5回目か6回目で、ここ2年くらい読んでなかったので、お久しぶりという感じです。

読むたびに色々と発見がありますが、今回感じたのは、著者の粘り強さです。

あるときデカルトは行動の格率(行動基準)を確認した後、

「それ以来まる九年のあいだというものは、世間をここかしこと巡りあるくことだけで私は何もしなかった」(40頁)

もちろん、何もしなかったというのではなく旅先での人びとを観察し、哲学的に確かなものを得ようと考え続けていたのですが、それにしても、求道者のようです。

こういう思索と旅を経て、「われ思う、ゆえにわれあり」というときの「考える私」の存在を確認するに至ったわけですね。

故池田晶子によると、デカルトは「考える私」を見出したのは偉いけれど、「信じる私」を見ようとしていないという重要な指摘がありましたが、信仰についても本書の中でチラチラと触れてはいます。本気かどうかは定かではありませんが。

この点では、デカルトは「もし欺かれるなら私は存在する」というアウグスティヌスと比べると、人間の思考を脳天気に信頼し過ぎているという指摘(ドーソン他『アウグスティヌス』服部英次郎訳筑摩叢書) があって、これが脳裏に焼き付いています。

これは要するに「神思うゆえにわれあり」ということなんでしょうね。ウォーコップの『ものの考え方』(講談社学術文庫)の中の記述「われわれは神の他者なのである」も思い出してしまいました。

デカルトの文章は一文は長いですが、明快を旨として書かれています。新訳も出してほしいものです。

(岩波文庫1953年)




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