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2013年11月17日 (日)

E.ジルソン『神と哲学』三島唯義訳

ギリシャ哲学においては物事の「本質」が問題とされたのに対して、中世のアウグスティヌスからトマスにおいて、「存在(する)」ということが形而上学的意義を獲得するという流れが明快に説かれています。

ジルソンの方法は「過去の哲学の歴史から、哲学的問題の正しい定式化に取り入れられるべきもろもろの基礎資料を選び出し、これらの資料に基いて、その問題の正しい解決をおこなう」というものです。

このやり方は私も常々そうしたいと思ってやってきたものと多分同じだろうと勝手に思って、なんだかジルソンを味方につけたような気になっています。

先日はアウグスティヌスから申命記にさかのぼって、モーゼの発言に感心していましたが、選び出されたテクストがアウグスティヌスの『告白』の同じ箇所だったりするので、やはりここに注目するんだ、と嬉しくなってしまいます。

「主われらの神は、唯一の主にまします」(申命記6-4)

というところです。

これをジルソンは「それ自体はもともと哲学的でない陳述が、いったん立てられた後は哲学の歴史における画期的な陳述となってしまった」(62頁)という公平かつユーモラスな言い方をしています。

ユダヤ・キリスト教の神とギリシアの神々とはまったく違うのですが、これが相乗作用をしていく歴史を実にうまく物語ってくれています。さすが大学者だけのことはあります。

(行路社1975年初版、1992年5冊、1545円)

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