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2013年11月11日 (月)

聖アウグスティヌス『告白』(下)服部英次郎訳

下巻では「無からの創造」「記憶」「時間論」などについて魅力的な議論が展開されています。

たとえば、記憶の力についてアウグスティヌスは、

「この力はもちろんわたしの能力であって、わたしの本性に属している。しかもわたしは、このわたしというものの全体を捉えることができないのである」(21頁)

このあたり、「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの楽観とは対照的です。アウグスティヌスは、記憶のうちには、感覚によって得られない知識があるということを見てとっていて「それらのものがすでに私の記憶のうちにあった」(24頁)と述べています。

神秘的と言って単純には片付けられない問題を含んでいるのが、アウグスティヌスの哲学的才能の特徴で、ここから最大限のものを引き出しているのはたとえばベルクソンのような哲学者かもしれません。

ほかに、世界は無から、み言葉において創られたとか、私たちは魂において時間を測るとか、宗教的であることはもちろんですが、哲学として考えてみるべき問題がふんだんに含まれているテクストです。

存在と認識と意志の三者において、「わたしは存在し、認識し、意志する。わたしは認識し、意志しながら存在し、わたしが存在して意志することを認識し、存在して認識することを意志するのである」(214頁)という表現があったりします。

以前から感じていたことですが、こういうところを読んでいると、デカルトなんかは神の御言葉を理性に置き換えて水で薄めたような気がしてきます。アウグスティヌスのある種のスピリチュアルで獰猛な魅力というものはまったくなくなっています。

これは『三位一体論』にもチャレンジしなくてはいけないですね。

(岩波文庫1984年第7刷400円)



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