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2016年2月23日 (火)

大森荘蔵『知の構築とその呪縛』

ガリレイやデカルトに始まる近代科学において、その対象を客観化する方法が確立する中で、色、音、匂い、手触りといったものは主観的で不確かなものとして科学から排除されてきました。

しかしそうした主観的要素を極力排除することで、科学の対象はすべてが「死物」となってしまったと著者は言います。

それで、科学は感覚ひとつをとっても本当の意味では「説明」できない、ことになります。いわば、近代科学は細密画として描かれていても、全体が何なのかという略画を欠いているために、意味を見失っているというわけです。

著者はこれまでの科学の上に、その略画を「重ね描き」することを提唱します。

「日常的に描写される風景と、科学的に描写される光波や脳細胞などは実は一にして『同じもの』なのである。この「同じもの」が一方では日常的に描写され、それに「重ねて」(時間的、空間的に重ねて)科学的描写がなされるのである」(233頁)

そうすると、私たちの「心の働き」といわれるものは実は「自然の働き」なのだと著者は言います。

「心ある自然、心的な自然が様々に(感情的、過去的、未来的、意志的、等々)立ち現れる、それが『私がここに生きている』ということそのことにほかならない」(238頁)

著者の『新視覚新論』や『物と心』で著者が言いたかったことと、科学的認識論は本書でつながって、あ、なるほどそういうことだったのか、と気付かされます。

もっとも、ガリレイとデカルトによってもたらされた客観的科学の「迷路」の中に現代人は入りこんだままなので、「それゆえわれわれの祖先が持っていた感性を取り戻すのは一朝一夕にできることではない」とも著者は言います。

「それは入信したり、改宗したり、棄神したりするのに似て、理屈の上のことではなく、理屈を含んでの全生活を変えることだからである。自然観、人間観、政治観、文学観、芸術観、倫理観、人生観、等々のすべてを改変し、それを実生活の中で実践することだからである。あてずっぽうであるが、現代文化が基本的に変化するとすればこの方向ではないかと私には感じられる」(289頁)

仰るとおりです。異存ありません。私もこの方向で考えていくつもりです。

(筑摩書房1994年880円+税)




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