2009年7月 9日 (木)

J.S.ミル『コントと実証主義』

 A.コントの『実証社会学講義』はとても全部読む気になれない本ですが、ミルのような知性がしっかり解説してくれると助かります。しかし、実はコントに関心があって読んだのではなく、ミルが実証主義をどうとらえているかという点に興味があったので読んでみたのでした。ミルは有名な『論理学大系』において帰納法と演繹法を論じるにあたって、自然界の斉一性を重視していたことが知られていますが、実証主義も基本的に帰納法に依拠しているので、そんなことが書かれていないかと思って読んでみました。
 実際それは「継起の斉一性」という表現でちらりとは出てきましたが(63-64頁)、詳しくは『論理学大系』を見よとのことで、うーん、楽はできないようです。ただ、ほかに驚かされたのは、ミルがコントは科学哲学のうち、探求の方法すなわち発見の原理の追求において比類なき成果を上げたと評価しているところです。
 今までコントにそんな面白いところがあるなんて考えもしませんでしたし、中公の世界の名著あたりを読んでみても、そんなことは感じたことがありませんでした。ただ、本書の記述を読んでも具体的にどのようなことで優れているのかは今ひとつわかりませんので、また、コントについては読み返してみます。ただ、少なくとも清水幾太郎の解説ではまったく触れられていなかったのも確かです。
 ミルの記述は常識的で公平で好感が持てます。ただ、コントの思想が晩年妙な宗教を興し、全体主義的国家を志向するような思想を展開するのにはさすがに辟易している感じです。実際、自分が認めた本以外は有害なので焼き捨てよというコントの主張には改めて驚かされます。自由主義、多元主義をよしとするミルの主張はもっともですし、強引な体系化を進めようとするコントとはこのあたりではまさに水と油という感じですが、コントの思想の暴力性を窺い知るのにも役に立つ本です。
 そういえば、マルクスはコントのことをぼろくそに言っていましたが、体質的には近親憎悪だったのかもしれません。両者ともに自分の思想が同時代の決定版で、すべての問題に最終的解決を与えうるものだと信じていましたから。
 ただ、マルクスはヘーゲルを経由しているせいか、哲学的に深遠なものを感じさせる文体であることも確かです。そして、何よりコントほど荒唐無稽で無防備な議論ではなかったことが幸いしたのでしょう。

(村井久二訳木鐸社1978年1500円+税)

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2009年7月 8日 (水)

日下公人『日本人の「覚悟」 「芯」を抜かれた人は退場せよ!』

 いつもながら驚くべき博識と斬新な発想によって日本人に自信をもたせてくれる本です。実際、わが国の底力は相当のものだということは舶来好みのインテリの言論からはわかりません。著者のような人がいろいろと事実に基づいて語ってくれることではじめてバランスがとれるのかもしれません。もっとも、すべてのいいものは先進国からやってくると考えるのもまた典型的日本的な現象ではあります。
 感心させられたエピソードをいくつか挙げてみます。

  • 1891年に陸軍歩兵だった二宮忠八はカラスが羽ばたかずに滑空しているのをヒントにして、ゴム動力のプロペラ飛行機を開発し、滑走から飛行する実験に成功した。ライト兄弟の飛行に先立つこと12年前の出来事だった。
  • 江戸時代は、猫も年をとると人間の言葉が分かるようになると信じられていた。
  • 日本はオイルショック以降、省エネ技術が進み、石油輸入量が増えなかったため、これを当てにしていた当時のソ連は経済がガタガタになり、体制転換せざるをえなくなった。
  • 安部元首相は温家宝首相に「中国にも拉致問題はありますよね」と囁いて、思いっきり困らせたことがある。

 とまあ、こんなところに付箋を貼りながら読んでいます。情報や薀蓄は多岐にわたり、面白いったらありゃしません。
 ところで、日本の底力がすごいのは「友だちに誉められたらうれしいとか、互いに認め合う仲間の間で『すごい!』と感心されたいという欲求が満たされれば、日本人は低評価でも全力投球する」(96頁)というところでしょう。これが外国だったら、誉めるくらいなら金をくれということになりそうです。
 実際アメリカでは肩書きだけでなく、大学教授でも年収まで具体的に示さなければ、社会的に認められないそうで、(大学教授は年収は安いけれど企業からお金をもらえる有能な人は自分で研究所を作って羽振りがいいのです)このあたりは文献研究なんかやる人だと大変そうです。私なんか年収に関して同じ大学の教授から気の毒がられたことがあるくらいですから(その先生がもらいすぎているのかもしれませんが)、いずれにしても、ここがアメリカでなくてよかったです、ホント。

(祥伝社平成21年1,600円+税)

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2009年7月 7日 (火)

勝間和代『起きていることはすべて正しい』

 このタイトル、いいですね。新聞の連載記事で同じ言葉を著者が座右の銘としていることを知り、思わずつられて買ってしまいました。この点ですでに著者の術中に見事にはまっていたのかもしれませんが、この言葉、確かにその通りだと思います。自分だけがいつも正しくて、周囲はみんな間違っているという人は、たいてい独善的なだけで、そのことが原因で周囲からますます孤立するという悪循環に陥っているからです。
 本書を読むと、売れっ子には売れっ子になるだけの理由があることがよくわかります。実に積極的な人で、自分を売り込むだけではなく、周囲の人に多くのものを出し惜しみせずに分け与えることにも熱心なのです。これがまた好循環をもたらし、いろいろな優れた人びととの新たなコラボレーションを生み出すという仕組みです。
 本書の書き方も懇切丁寧に必要かつ有益な思考法や道具立てを紹介するということが徹底されていて感心させられました。巻末には参考文献リストや本人の用語集まで整理して掲載されています。ふつうならここまで手の内を明かさないというくらいのことまで書かれています。もっとも、この手の内を知ったところで、とんでもない努力が伴わないとうまくいきませんが。
 実際、本人は21歳で母親となり、正社員からパートに左遷されたり、子どもの耳鼻科通いでクビになりかけたり、本人がワーカホリックでメニエール病になったりと、もう大変な苦労をされているわけですが、これをすべてプラスに変えてきたというのですから、本当に頭が下がります。
 印象的だったのは、結婚や出産によって経験値が上がり、人間的な器が広がるということが説かれていることで、「仕事と家庭と両方あると、また別種の経験が広がるため、新しい気づきやメンタル筋力が生まれやすくなります」(51-52頁)と言っている箇所です。慧眼です。3人の子を持つシングルマザーでありながら、ここまで言い切れるところがすばらしい。
 また、具体的には仏教の「三毒」を追放するということで、「妬まない、怒らない、愚痴いらない」という心がけです。怒らないというのは私にとっては一番難しいところですが、これも最近加齢のためかずいぶん怒らなくなってきた気もします。
 いずれにしてもこのモットーは早速自分のものとして実行したいと思います。実際、妬んで怒って愚痴ってばかりなんてサイテーですもんね。このところ多くの人から有形無形の手助けをいただいて、本当に助かっています(ところで、昨日のヴィシュキ・アンドラーシュ氏講演会でご協力いただいた皆さん、ありがとうござました)が、これを意識的にモットーにすることで、さらにいいことが起きそうな気がします。
 また、このこととも関係しますが、一人だけの力では成し遂げられないことであっても、周囲の人びとの助けがあればできることがたくさんあります。そのためには、いかにして自分の応援団を作るかということが鍵となるのですが、これを著者は「Giveの5乗」という表現を用いています。つまり「自分ができることについては、なるべく多くの人に対して知恵なり、人脈なり、考え方なりを供給することを推奨しています」(316頁)ということなのです。
 5乗というのはすごいですね。私は2乗はおろか倍返しもできていない気がします。これも是非見習いたいと思います。といっても、私にはベストセラーを書く才能はないと思いますが、それでも自分なりの成功体験が増えることだけは容易に予想されます。
 また、著者は月に50冊から100冊の本を読んでいるとありますが、これも見習いたいところです。読書時間が毎日2時間キープできればこの数字は可能ですが、ただ、書籍代も月10万円から15万円ということで、これはちょっと真似のできないところです。私の場合は読む本がなくなってきたら「Book Off」ということにしています。
 いずれにしても今の状況を何とか打破する方法を考えながら自己研鑽に励むしかなさそうです。それにしても本当に勇気づけられる本です。

(ダイヤモンド社2008年1500円+税)

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2009年7月 4日 (土)

池田晶子『人生は愉快だ』

 本書の帯に「死んでからでも本は出る」とあります。実際本書も入れると9冊出ています。本書も第1章の172頁分が書き下ろしですから、著者はいろんな仕事を並行して進めていたようですが、それにしてもこの膨大な仕事量には改めて驚かされます。これだけ書けば、本人も仕事に関してはあまり思い残すことはなかったのではないかと想像します。
 本書の第1章というのは、古今東西の哲学者・思想家たち30人についてそれぞれ短くコメントしたもので、簡潔ながら著者独自の視点が異彩を放っています。たとえば、著者はウィトゲンシュタインのところでこう述べています。
 「たいていの人は、世界が在ることそのこと、自分が居ることそのことが神秘なのだとは感じていない。神秘はどこか別のところにあると思っている。だから科学でありオカルトなのだ。本当の神秘を感じた人は哲学をする。しかしこの哲学的天才の見ていたものを、続く研究者たちは見ていない。亜流は魂を受け継がない。天才の技術や方法を真似ることはできても、その天才を真似ることはできない」(141頁)
 その通りですね。そもそも仮に著者が亜流の研究者だったら、こんなに仕事はできなかったでしょう。そして、それはわが国の読書界にとってはまことに慶賀すべきことです。著者こそは哲学者の魂を受け継いでいる当の本人だからです。
 ここでいう哲学者の魂というのは、自信というものについての著者の考え方に現れています。つまり、「誰にとってもそうであるところの考え」は、自分一人を超えていて、「それが自分を超えていることを知っているから、人は自信をもてるのですよ」(202頁)と言います。オリジナリティとかどうでもよいところで成立しているのが自信です。結果的に自分というものがよく出ることにはなりますが、それはあくまで結果であって、目的ではありません。こうした考える姿勢と生き方が一致しているのが哲学者の魂なのでしょう。
 著者はちょっと早めに人生を完結させてしまったので、哲学者の魂としてはついに非の打ち所のないものになってしまいました。えらいことです。今頃おそらくあの世で過去の哲学者たちと談笑していることでしょう。

(毎日新聞社2008年1500円税別)

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2009年7月 3日 (金)

プラトン『ソクラテスの弁明 クリトン』

 やはりこれは何度読んでも名著です。ソクラテスのとんでもなく凄いところが、しっかりとらえられています。ただ、年齢がいってから読むと、文庫本の活字の小ささが目にこたえます。角川文庫版の山本光雄訳はどうかと思って見てみましたが、あまり違いませんでした。最近の文庫だともう少し大きい活字になっているかもしれませんが、これからも繰り返して読むつもりなら、結局のところプラトン全集を買っておくべきかもしれません。
 実はプラトン全集はかつて大学院の博士課程に進んだときに、研究の方向を再確認するために全部読んだのですが、意図がよこしまだったためか内容をあまり覚えていません。当時は『テアイテトス』が気に入ったという印象だけが残っています。図書館から借りて読んだので線を引いたり書き込んだりできなかったことも手伝ったかもしれません。
 そういえば後輩の大学院生で本にバツ印をつけたり批判を書き込みながら読んでいるN君という面白い人物がありましたが、今頃どうしているのでしょう。これは著者と対話するわけですから、なかなかいい読書法だと思いましたけどね。ウォーコップや福田恆存を紹介してくれた好青年でしたが、語学も抜群にできてドイツ語や英語の原書も自在に読みこなしていたのに、残念ながら大学という制度からは外れてしまったようです。

 さて本書ですが、やはり「一番大切なことは単に生きることではなくて、善く生きることである」(74頁)というくだりは何度読んでもいいですね。そして、不正には不正を、禍害には禍害を報いてはならないという議論にクリトンが素直に同意してしまうシーンも感動的です。もっともこのあたりはプラトンの創作でしょうけれど、それはそれでいいと思います。
 おそらく池田晶子が言っていたように、ソクラテスという人は決して自らの信じる正義に殉じたのではなく、正義や善を愛するにあたって、死というものはおそらく本当にどうでもよいことだったのでしょう。死は考えてもわからないし、考えられません。死を恐れる自分というものを考えると、死んでしまってからならそれは考えられないし、死んだ後に残る魂があれば、それはもはや死を恐れていないはずですし、とまれ、いろいろと考えてみて、文字通り死を恐怖しなかったのがソクラテスです。理解はできます。とりあえず。でもあまり苦しみながら死にたくはないなあ。
 やっぱり哲学者というのはかなりの変人です。ソクラテスはその後に続く哲学者たちの中でもとりわけ群を抜いています。哲学に興味がある人はまずはこのソクラテスのヘンさ加減をしっかり味わうこといいでしょうね。

(久保勉訳岩波文庫1927年1964年改版310円)

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2009年7月 2日 (木)

池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』

 最後の「新刊」ということで、遺稿三部作の三冊目です。著者はソクラテスと同様に、「死とは何でもないものだ」と、また「ただ生きるよりよく生きる」ことが大事だと本気で思っていたようです。亡くなる直前まで、酸素吸入器をつけながら書いていたそうで、それは「よく生きる」ことにつながっていたのでしょう。
 著者は1990年の時点ですでに「禅の達人は、一切がただ可笑しくて、月を見ても呵々大笑するというではないですか」(45頁)と書いていますが、実際、こういう境地に達していたのでしょう。何事にも執着しないことで、かえって何事も楽しんでしまうというわけです。えらいものです。
 そして、この点がしばしばつまらぬことに執着しがちな大学の教授先生と大きく異なるところなのでしょう。これほどまでに自由闊達な、それでいて考える文体を獲得した哲学者は、わが国では坂田徳男くらいではないかと思います。
 思うに「哲学」というのは学と付いていますが、知を愛するという意味だけで、学(-logy)は不要です。おそらく舶来品の輸入にあたって体裁を整えるためにとってつけただけの話でしょう。最初、西周が希哲学と名付けたはずですが、いつの間にか「希」(こいねがう)の字もとれてしまいました。
 本当はフィロソフィーが「愛知」でもよかったのかもしれませんが、地名も人名もありますし、手垢が付いた感じがしたのかもしれません。そういえばフィロソフィーという地名や人名は外国ではあんまりないんじゃないですか。わが国では「哲学の道」とか「哲学堂」なんてのはありますが。
 いずれにしても、考えることが哲学からなくなってしまえば、ブランド品の輸入と変わりませんが、実際大勢はそうでしたからね。H大学の哲学科に行った先輩は、研究会で顔を合わせる東大の哲学の学生がみんな二言目には「東大です」と言うのを聞いて辟易していましたが、それは彼らに取ってみれば輸入業者なら大手一部上場の会社の方が有利だからでしょう。本当にできる哲学者はそうではないと思いますが、そういう人は大学の先生にはならずに市井でがんばっているのかもしれません。
 この点、著者は文筆業で一家をなしたわけですが、これもまたすごいことです。もちろん、これはこれでいろいろと大変だったようです。本書には大手新聞社系のビジネス誌で連載が見送られた没原稿なども収録されています。そこで著者は「哲学は役に立たない」と明言してはばからないため、編集部が気分を害したのだろうなと想像されますが、これも今だったらOKかもしれません。「哲学と人生とは、じつは真っ向相反する関係にあるのですよ。世の人ずっとそのこと勘違いしてきている」(51頁)という表現は味わい深いものです。哲学は実人生の立場からすると魅力的という以上に怖いものでもあるのですが、役に立つ哲学は怖くないどころか、そもそも哲学ではないのです。
 さて、著者はこう問いかけます。
「『正義』とは何か、『善』とは何か、それらを生き死ぬ我々とは、誰か」(214頁)
 この遺稿三部作がすべて同じ副題「さて死んだのは誰なのか」ですが、著者はいい問いかけを遺してくれました。多少なりともこの問いかけにこたえるべく、少しは発言もしてみたいとは思いますが、何より著者の魂に共鳴するべく善く生きなきゃいけませんね。

(毎日新聞社2009年1500円+税)

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2009年7月 1日 (水)

池田晶子『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』

 この巻は遺稿集三部作の2巻目に当たります。テーマがテーマだけに、著者がこれを論じながらも、ついに論じきれないという苦闘の後が窺えます。魂というのは本人の意識や肉体を超えて、もっと本人らしいものなので、これは確かにソクラテスもプラトンもお手上げのはずです。しかし、著者が巫女さんのようになってみれば、感覚的にはしっくりくるものでもあるので、このテーマに惹かれるのはよくわかります。
 もっとも、これは答えがどうの語り口がどうのというより、その格闘ぶりに感心させられます。オカルトの方へは行かずに魂を語るなんてできないだろうと思っていましたが、実は本書には愛犬の存在とその魂がたっぷりと語られているのでした。編集の妙かもしれません。
 著者は「犬とは、犬の服を着た魂である。そして、人間とは、人間の服を着た魂である」(116頁)と言います。このコリー犬と著者のツーショット写真は目つきや表情がお互いに見事なまでにそっくりで驚かされます。これは明らかに二つの魂です。今頃あの世でいっしょに散歩しているのではないでしょうか。ついでながら、編集の中心人物の一人であるだろう著者のご主人の愛も感じられます。
 もう一つ感心させられたのは、デカルトの『情念論』からの引用です。それは「『嫉み』をいだく人びとの顔色が鉛色になりがちなのはなぜか」というくだりですが、デカルトが観察した以上のことを感じていることがわかって面白いと思いました。これを著者は「感情という精神の一作用の、塊(マッス)な感じ、不透明な感じをよくとらえていると思う」(231頁)と述べていて、それはそれで面白いのですが、このような何か黒々とした感じで大学構内をうろついている邪悪そうな魂というのもよく見かけるんですよね。なるべく遠巻きに観察して、近寄らないようにしています。くわばらくわばら。

(トランスビュー2009年1500円+税)

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2009年6月30日 (火)

岩田靖夫『いま哲学とは何か』

 ソクラテスに始まり、ハイデッガーやロールズまできっちりとフォローされていて、これ一冊で西洋哲学小史のような趣がありますが、それぞれの解釈がしっかり考えられていてユニークで、教えられるところが多々ありました。
 なかでもとりわけ、ソクラテスの「無知の知」というのは人間が自己絶対化に踏み込むことを許さない知恵だという見方は新鮮でした。「人間が自己絶対化に踏み込むとき、自己神化が起こり、他者の抹殺が起こるのである」(11頁)とあります。それはまあ、ちょっと論理が飛んでいる気もしますが、そうかもしれません。それで、対話の精神は「自己絶対化の放棄であり、異なるものに対して開かれた心を持ち続けることである」(12頁)となるわけです。
 実に若々しい思想です。そもそもソクラテスがそうだったのでしょうが、終章も再びソクラテスへの共感が語られます。死んでも不正を犯さなかったソクラテスを「加害行為を根絶するために、一切の復讐を放棄した」(202頁)と見るわけです。ここまでくるとそれはいうまでもなく宗教的な境地ですが、そうした「宗教的な境地への畏敬の念を失えば、人類に未来はないであろう」(同頁)とくるわけです。
 ちょっとナイーブすぎるので、私のようなすれたおっさんにはつらいところもありますが、著者の人となりが上品な感じがするのでOKです。岩波新書を読むまじめな若者たちには(きょうびそんな若者なんて絶滅危惧種のように珍しい存在なのかもしれませんが)ぴったりだと思います。そういうのもまた大事だよねと最近は若さということにも寛大になりつつあります。これもまた加齢のなせる技でしょうね。若者といっしょにいるだけで感動することがあります。

 なーんて思いながらいっしょにバスケットボールをやっていたら、先週ひどい捻挫をしてしまい、ギプスと松葉杖を余儀なくされました。歩けるようにはなりましたが、まだ完治していません。年甲斐もなくがんばって、久々に二桁得点したと思った矢先でした。ま、そんなもんですね。でもまた懲りもせずにやるんだろうね。われながら阿呆です。

 それはそれとして、今書いている本の最後に少し加筆することになったので、この機会に『ソクラテスの弁明』にはもう一度目を通しておく必要がありそうです。

(岩波新書2008年700円+税)

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2009年6月24日 (水)

池田晶子『私とは何か―さて死んだのは誰なのか』

 著者が亡くなってかれこれ2年になりますが、これまで単行本に収録されていなかった原稿や未発表草稿からなる3部作が新刊として日の目を見ました。これはその一つです。それにしてもたくさん書いていたんですね。文筆業という肩書きに偽りなしですが、あらためて感心させられます。
 著者の思考はいつもながら明晰、明快で論理の力で宇宙の果てまでも連れて行ってくれます。「私とは何か」と問うものは、それ自体すでに「私」を超えているわけで、それは私でもありあなたでもあり、人びとでもあるような、でも、それは決して邪悪な存在ではないような意識です。
 このあたりでわが国の講壇哲学者は心配になってきて、何かよすがとなるべき外国人タレントはいないかとあたりをきょろきょろし始めるのですが、著者はためらうことなくどんどん進んでいきます。このあたり私などには実に爽快ですが、これを嫉妬も手伝って、学問的でないとか批判する人もいることでしょう。
 学者の世界だったら、弟子にあいつを批判しろと命じたりすることも珍しくありませんが、哲学の学閥ではどうなんでしょうね。私は師匠がメインストリームから外れているというか、うまく距離を置いていた人だったので、そんなヤクザの舎弟のような真似はしなくてすみました。わが国の業界のしきたりからすると、この点だけでも幸せなことだったかもしれません。
 女性の哲学者というのはあまり例がありませんが、著者は希有な例外です。ほかにはシモーヌ・ヴェーユくらいでしょうか。もっとも、著者はそもそも世界精神の人なのであって、女性とか男性とかいうことに意味を認めていないので、そんなことを言うと失礼に当たることでしょう。そう、著者は日本人ということも超えて、世界的にもあまり例を見ない独特の哲学者なのだと思います。

(講談社2009年1500円税別)

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2009年6月23日 (火)

曾野綾子『中年以後』

 以前文庫で読んだ気もするのですが、古書店で買った単行本を読んでみました。読後感が新鮮だったので、前に読んだことをまったく忘れていたのかもしれませんが、教えられることが多々ありました。というか、的確な表現と、随所に見せる決めぜりふの見事さに改めて驚かされました。以下印象に残るフレーズをいくつか列挙してみます。

・当然のことだが、若い時には何と言っても、まだ多くの人に会っていないのだ。そして人は、会った人間の数だけ賢くなる(11頁)
・正義は、最終的には人間には評価できないものなのである。正義もまた、人間の評価に委ねると、多分に利己的になる(41頁)
・年を取ると、正義という名の情熱の筋を通すより、気にくわない他人にも優しさを示す、などということの方がはるかに難しい姿勢であり、偉大な徳だ、ということがわかってきた(122頁)
・突然病気に襲われて、自分の前に時には死につながるような壁が現れた時、多くの人は初めて肉体の消滅への道と引換えに魂の完成に向かうのである(151頁)
・自分がいい人だということを信じていられるのは、精神の形態としては、よく言えば若いのだが、悪くいえば幼稚なのである(174頁)

 自己完成なんて自分としては普段意識しないのですが、思えばクリスチャンは生きているうちにこれを目指さなければいけないのでした。そしてその可能性が開けてくるのが中年以降というわけです。
 というのも「体力は確実に落ちているけれど、人生を見る目は確実に深くなっている」(215頁)のが人生の半ばも過ぎた頃だからです。「だから四十歳から六十五歳までの四分の一世紀間、もし大きな病気もせずふつうの生活ができたなら、それはすばらしい贈り物を受けたことになる」(同頁)わけです。
 そして、このときに「ふしぎな輝きを増すのが、徳だけなのである」(234頁)と著者は言います。この徳を大切にする意味でも「中年以降は、自分を充分に律しなくてはならない。自分にしっかりとした轡をかけて、自分の好きな足どりで、しっかり自分自身を馭さなくてはならない」(238頁)のです。
 なぜなら「徳こそは人間を完全に生かす力になる」(241頁)からです。

 昔朝日新聞系の雑誌の記者座談会で「曾野綾子牧師の説教なんか聞きたくない」という発言を読んだことがありますが、著者はカトリックですので「牧師」はありえません。著者の言葉は、わが国の似非インテリに特徴的な宗教音痴には通じないでしょうけれど、虚心坦懐に耳を傾けると、多くのことが得られます。本書には勇気づけられるとともに、襟を正さなければ、というか、もっと積極的に徳を意識して人生を送るべきだといううことを教えられました。さすがカトリックです。ここまで具体的に言ってもらうと信徒でなくても腑に落ちます。

 余談ですが、先週、息子さんの勤める関西の私大が募集停止になったとの報道を耳にしました。有能な人なので次の職には困らないと思いますが、ご心配なことでしょう。もちろん、私も他人事ではありませんが。

(光文社1999年1,500円+税)

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2009年6月18日 (木)

木村藤子『「気づき」の幸せ』

 霊能者がどのように透視するかがよくわかります。どうやら相談者の情景が手に取るように目に浮かぶようです。そんな能力を授かってしまったら、もう運の尽きです。霊能者の看板を上げるしかないでしょう。
 でも、相談者のためを思うほど、その人が言われたくないようなことも言わなければならないし、因果な商売です。かつてテレビ番組の中で飯島愛が芸能界の仕事を引退するのを涙を流しながら引き留めていた著者には、その時点ですでにかなりはっきりしたことが見えていたのかもしれません。
 こうした霊能者の存在が日本の土着の文化の中でどのように根付いてきたかということはあまり研究されていないような気がしますが、秋元松代の戯曲の世界にその怪しい部分とともに見事に描き出されていたのが思い出されます。もっとも、著者は戯曲の中野人物のように教祖になるタイプではなくて宮司さんの奥さんによくあるような優しくてふくよかな感じの人です。
 現実の相談者の例では、祖先の霊がたたっているというより、どうやら本人の所業に原因がある場合の方がはるかに多いようです。霊のせいにして自分の責任を逃れるなら、こんなに楽なことはないからです。これでは言いたくないことも言わなければならなくなるはずです。
 一般に、怪しい人は気配や雰囲気でわかるという人は少なくないと思いますが、それにしても、ここまではっきりと見えると本当に大変だと思います。かつての教え子のおばあさんで四国の地元では除霊の仕事をしているという人が、孫が金縛りに遭うのが心配で、ときどき名古屋の下宿まで面倒を見に来られていました。そのおばあさんによれば、毎晩かつての戦場を走り回っている武士たちを見るとのことでした。これでは夜もおちおち寝ていられません。
 いやー、見えなくてよかった。

(小学館2007年1,200円+税)

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2009年6月17日 (水)

土屋賢二『汝みずからを笑え』

 著者の哲学書をいつかは読もうと思いながら、結局のまんまにしていますが、ユーモアエッセーの方は古本屋で見つけるとすぐに買って読んでしまいます。それで、相変わらず著者が本業の哲学者としてどんな人なのかということは不明のままで、この毒にも薬にもならないけれども優れた笑いの本を楽しんでいます。
 この書いている著者自身もヘンだということを気づかせて笑いをとるという高度なギャグは、ひょっとしたらイギリスの文学に出てくるようなセンスなのかなという気もします。たとえばジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』(中公文庫)なんかに出てくるあれです。著者にもエッセーでなくて想像力をとんでもなく飛躍させた冒険譚を書いてもらうと、これまた面白いかもしれません。
 もちろん、いつもながらの味わいは健在です。電車の中で読んで思わず笑い出すと、周囲から怪しまれるので、読むには時と場所を選ぶ必要があります。著者のエッセーは無性に読みたくなるときがあります。内容については特に書くことはないので、この欄にも何を書こうかと迷ってしまいますが、また読んでしまったと公開するわけではありません。ともかく、こんなに冗談ばかり書けるというのも、やはりすごい才能だと思います。

(文春文庫2003年476円+税)

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2009年6月15日 (月)

小林信彦『人生は五十一から』

 題名に惹かれて古本屋で入手。私も今年で51歳になります。先日届いた高校の同窓会案内が「全員五十歳記念同窓会」ということでぎょっとしましたが、みんな紛れもなく半世紀を生きてしまったわけです。何せこれまでに私は一度も同窓会に出ていないので、いまだに自分の記憶の中では同級生はみんな18歳なのですが、いずれにしても当時の記憶がなければ、お互いに「太郎はすっかりおじいさん」なのでしょう。実際、孫を可愛がっているような人もあることでしょうし。
 著者は「はじめに」で「五十を過ぎて、ようやく、世の中や人間関係のからくりが見えてきたときに、肉体の老化があらわになりました」と書いています。逆に、肉体が老化して体力勝負がきかなくなったために、世の中の見え方が変わってきたという面もあるかもしれません。
 いずれにしても、ものの見方が落ち着いてくるのは確かですので、経済学者の間ではこの10年は「黄金の五十代」とかいって、良い仕事ができる時期だとされています。もっとも、理科系の才能は開花するのが早いので十代ですでに天才のような人もありますし、作曲家の多くは五十代ではすでにピークを過ぎているようです。
 ただ、落語家と作家は五十歳以降に、野球で言うなら「タマが止まって見える」ため「体力があればヒットやホームランが打てる」と著者は言います。古今亭志ん生なんかはものすごく体力があったと言われてみると、確かに説得力があります。
 自分の頭の方は置いといても、とりあえず体力をつけておかなければということは言えそうなので、トレーニングは続けています。この数年でナンバ走りを身につけたせいか、ずいぶん体力が付いた(というより楽な走り方を身につけた)ため、今でも学生たちとバスケットボールを楽しむことができます。
 しかし、さすがにそろそろトレーニングの仕方を考えなければ心臓に悪そうなので、先週から「ためしてガッテン」でやっていたスロージョギングを取り入れ始めました。やってみると、こちらの方がはるかに楽で身体に合っています。何だか楽しいし、精神的にも良さそうです。効果についてはいずれ報告します。

 もっとも、この年代はいいことばかりではありません。五十から六十にかけて鬱病にかかる人も多く、著者もかなりひどい鬱の状態からどうにか帰還したという経験があるそうです。本書にもその状態が出てきますが、「こうした心理状態だと、女性とのごたごた、借金、ギャンブルの落とし穴、病気―ちょっとしたことが引き金になって、あの世にジャンプするのは容易である」(26頁)とあります。
 そういえば、尊敬する著作家の日垣隆氏も最近ようやく精神的危機状態から脱出されたようで何よりですが、いつ自分がそうなるかなんてわかったものではありません。私が研究しているハンガリーの法哲学者ショムローは四十六歳で自殺しています。私もいつの間にか彼の年齢を超えてしまいましたが、最近はショムローに限らず、中年期に自殺した学者や作家の気持ちも少しわかるようになってきました。年をとってみないとわからないことがあるのは確かですね。
 本書は「現代恥語ノート」のような批評精神も読ませますが、故人を偲ぶ文章が光っています。著者と同時代人だった芸人たちは、今日の伝説化された存在ではなく、その当時のそれぞれに生きることに格闘している姿をとらえられているので、今もなお草葉の陰で喜んでいるのではないでしょうか。
 江戸っ子で、芝居や映画あるいは落語に通じた著者は、週に一度くらいは会って話を聞きたくなるような横丁のご隠居さんという感じでしょうか。大人のエッセーです。

(文春文庫2002年448円+税)

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2009年6月14日 (日)

長谷川慶太郎『日本は「環境力」で勝つ』

 シュワルツネッガー知事がカリフォルニアでハイブリッドカーに対して優遇措置を行なっていることは少しは耳にしていましたが、本書で初めてそのとてつもない実態がわかりました。高速道路の優先車線(リザーブ・レーン)を無条件で走れるだけではなく、パーキングメータの超過料金も払わなくていいというもので、実態はホンダやトヨタのハイブリッドカーの優遇です。当然ながら激しい抗議をしてくるアメリカの自動車会社に対しては「悔しかったらハイブリッド車を作って来い」と言って一蹴しているとのこと(59頁)。
 ところがアメリカの自動車産業界では「機械工」と「電気工」は同じ会社で働いていても、それぞれ別の職種組合に属していて、現場ではお互いに対立しているため、協力なんかできっこないそうです。わが国の大学の教員と職員以上に対立しているわけです。ということは、ガソリンと電気を組み合わせて走るハイブリッドカーは開発しようにもできない状態なのでしょう。
 それにしてもいつもながらよく小まめに取材されていて感心させられます。著者は80歳を過ぎても年に何度も現場に足を運ぶそうですから、体力気力とも衰えていません。本書では著者お得意の鉄鋼業界の最新テクノロジー事情もわかります。溶けた鉄鋼を何千分の1秒かの文字通り瞬時に成分分析し、その情報をただちにフィードバックしては鋼材の質をコントロールするというようなことは世界一の技術水準のなせる業です。
 この技術は本書には書かれていませんが、おそらくゴミの焼却処理における温度設定にも役立てられているはずです。有害物質を出さない温度というのがありますから。実際、今日の製鉄所はもはや煙突からは水蒸気しか出していません。それまでに出てくる成分はすべて再利用しているからです。
 というわけで、環境保全にわが国の技術が有益であることは論を待たないのですが、一般的な新聞報道では、日本が環境保全技術の先進国だという話はあまり聞こえてきません。たとえば環境保護先進国とされるドイツなんかより劣っていると思っている人が多いのではないでしょうか。
 確かにドイツは表面的には容器リサイクルなど市民総出で潔癖症のように取り組んでいると伝えられますが、現地調査に行った知人の話では、最終的に処理に困った廃棄物はすべて森に穴を掘って埋めているそうです。そこから地下水の汚染がそろそろ始まるはずですけど、どうするんでしょう。
 ナチの協力者を告発してきた風潮と似ていて、ドイツ人の政治行動は表面的には派手ですが、その目的は別のところ(自分たちが他から民族差別を受けないためとか)にあるのではないかと疑われてきます。ワルなのかバカなのか判断に困りますが、政治家について言えば明らかに前者です。
 かの有名な京都議定書での二酸化炭素削減目標でも、わが国のナイーブな政治家はドイツの巧みな数字のトリックにまんまとしてやられたのですが、そのことに気がついてすらいないようです。バスに乗り遅れまいとしてドイツについて行っては、とんでもない痛い目にあったのはそんなに昔のことではありません。
 少なくともドイツ人に関して言えば、戦前も戦後もその行動パターンや思想は変わっていません。戦後に人格も思想もリセットされて自国民のみならず諸国民はすべて平和主義者になったと信じているのは日本人だけです。もちろん、それはまたそれで自覚症状のない病人の類には違いないのですが。

(東洋経済新報社2008年1500円+税)

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2009年6月10日 (水)

村上和雄『生命の暗号―あなたの遺伝子が目覚めるとき』

 著者の名前は産経新聞の正論欄でしばしば見かけるので、古書店で買ってみました。
 われわれの身体に指令を与える遺伝子は、無駄ともいえるようなとてつもなく多くの可能性をもっていて、その中から環境に応じてスイッチ・オンになったものが作動しているそうです。それがわれわれの身体の恒常性から進化までを支配しているのですが、ときと場合によってというか、何かのきっかけによって、今までオフだったスイッチが急にオンになると、突然見違えるような動きをし始めると言います。
 思えば、地球上に存在するあらゆる生物は同じ遺伝子暗号を使って生きているわけで、こうした遺伝子の精妙な動きを研究していると、神秘的なものに敬意を払わないではいられなくなるようです。著者は遺伝子の背後にある偉大な力のことを「サムシング・グレート」と呼んでいます。
 このサムシング・グレートに敬意を表しながら、「志を高く」「感謝して生き」「プラス発想をする」ということを著者は提案します。これがサムシング・グレートに喜んでもらい、遺伝子をオンにすることにつながると著者は考えていますが、なるほどそうかもしれません。実証的ではないのですが、世界的発見をいくつもしている著者の経験に裏打ちされた感覚は信頼に足るものだと思われます。著者はオカルトに陥るぎりぎりのところで踏みとどまっています。江原啓之のファンなら違和感なく入っていけると思いますが、そうでなくても、科学と宗教の本質は同じという考えは納得がいくものです。
 著者の思想はともかくとして、本書の中に出てくる世界レベルの科学者たちの熾烈な競争にはあらためてすごいなと思わされます。よくもまあこれに打ち勝って遺伝子解読についての世界的業績を打ち立てられたものです。すばらしい。
 最近の著者の本もこれをきっかけにフォローしてみます。

(サンマーク出版1997年1600円+税)

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2009年6月 9日 (火)

岡本吏郎『お金の現実』

 お金に対して著者はまず何よりも理性的なアプローチをすることを勧めます。それは貯金をするということです。株で一発大儲けなんてことは情念的アプローチであり、凡人には向いていません。そして、しっかり努力して実力を蓄え、10年たったらその貯金と実力という原資から著者いうところの「生け贄」を捧げるんだそうです。
 10年スパンで自分に投資しながら蓄えを作り、勝負するというわけです。これは経営者でなくても同じでしょうね。おそらく10年ごとに時給計算してみて、どーんと高くなっている人がいるとしたら、そういう人だろうと思います。
 著者はお金の怖さをよくわかっていて、成功する経営者には一種の狂気のごときものが宿っていることも知っています。だてに経営コンサルタントをやっているわけではないようです。きっとこれまでにもいろんな経営者を見てきたのでしょう。
 著者は経験上断言できることとして、多くの場合、お金が入ってくるときには私たちの実力よりも過剰に入ってくるということを挙げています(212頁)。要するにもらいすぎなわけです。このあたり、お金の神秘的な側面もよくとらえられていると思いますが、そこで「自分の実力を手元のお金に合うように努力をする」ことがポイントになってくると言います。この実力が伴わなかったとき、お金は出て行ってしまいます。しかし、また努力すれば、敗者復活戦もあるそうです。そんなものなのかもしれません。何度も起業しては成功と失敗を繰り返すようなするような経営者もいますもんね。私には未知の世界ですが勉強になります。
 個人的な結論としては貯金と努力ということになります。もっとも、自分の時給が高くなるかどうかは不明です。今の勤め先で、いつまで給料が出るかという問題もありますし。でも、そのときには貯金がものを言うでしょうから、やはり著者のアドバイスに従っておく必要はあります。

(ダイヤモンド社2005年1600円+税)

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2009年6月 7日 (日)

木村剛『日本資本主義の哲学』

 外国資本100パーセントのベンチャー企業を立ち上げ、その後日本の資本100パーセントの会社としてコンサルタント会社を経営してきた著者ならではの「現場の経験」が生きています。外資も内資もどちらも経営経験がある人というのはそうはいないと思います。著者がしばしば東大系の経済学の教科書だけ読んでいるような学者を厳しく批判するのも、この現場を知っているからでしょう。
 実際本書を読むと、資本主義というものの理解についてなるほどと思わされるところが多くて、本当に勉強になります。著者が山本七平の『日本資本主義の精神』を高く評価しているのも印象的でした。思えば山本七平も小さな出版社の経営者でした。会社経営で苦労している点で、共感するところも少なくないのでしょうが、何より両者に共通するのは、現場から世の中をよく見ているという点です。
 特に近年の大企業の不祥事は、経営者が責任をとらなくなってきているところにその特徴があるのですが、かつては機能集団を共同体的、つまりムラ的な集団として統治してきた日本の会社組織ですが、著者のいう「ムラヲサ」が裏切ることでモラルハザードが起きているという指摘は説得力があります。
 もともと弱肉強食で露骨な資本の論理を日本流に「ムラヲサ」の共同体的統治でアレンジして乗り切ってきたところが、トップから裏切りを始めるなら、共同体は崩壊するしかなくなります。そして、そういわれてみると世の中の至る所で官僚化が進んでいて、今や日本中の組織が無責任体制になってしまっています。
 著者は今こそ「ニッポン・スタンダード」の確立を呼びかけています。「親米でも嫌米でもなく、『アメリカ万歳論』でも『外資ハイエナ論』でもない、日本独自の日本スタンダードを確立しよう」(301頁)と。
 狂ったモラルを糾しさえすれば、この道は意外にすんなり確立できるような気がしてきます。ただ、狂い方が組織によってはかなりのものなので、そこが一番の問題でしょうね。

(PHP研究所2002年1,700円税別)

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2009年6月 3日 (水)

野村雅一『身振りとしぐさの人類学 身体がしめす社会の記憶』

 昔英語科の先生が飲み会の席で、一つ二つと例に挙げながら何かを話されていたとき、何気なく手の甲を相手に向けてVサインをする形になったとき、同僚のオーストラリア人の先生の表情が引きつっていたことを覚えていますが、本書を読んで、それがどんな意味かわかりました。なるほどそれはまずいよね、ということは文化摩擦の中でしばしば起こってきますが、一般的には人を指さすことも危険のようです。
 本書はジェスチャーの人類学であり、比較文化論です。話の小ネタにするにも新書としてはかなりの量のトリビアな知識が詰まっている本です。印象的な話がたくさんありすぎて覚えきれません。比較文化論の講義の前にぱらぱらと読み返すといいかもしれません。
 ただ、本書はそれだけにとどまらず、最後の方の「しぐさの逸脱」という章で、物忘れや運動障害についても考察していて、ひと味違います。著者が言うところの「身振りの思想史」というものが意図されていて、問題提起としてもかなり意欲的なところが感じられます。フロイトによって無意識のしぐさの意味づけがまったく新たなものとなったことや、映画の語法がクローズアップや単なる補講というものにも演技の余地を与えるに至ったという指摘などは新鮮です。
 言語や意味だけにとらわれすぎて窮屈になっている思想を身体による表現の側から解きほぐすという可能性も感じさせてくれ。る本でした。

(中公新書1996年680円+税)

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2009年5月29日 (金)

ジェイムズ・M・ジャスパー『ジレンマを切り抜ける 日常世界の戦略行動』鈴木眞理子訳

 ゲーム理論や社会学の諸理論は理想的かつ典型的状況だけを考えていて、現実の人間行動の複雑さをとらえていないというのが、著者の出発点です。この手の学問は面白くなりかかったところで止まっているということで、現実世界の戦略行動が実際にどのようなジレンマに直面しているかをつぶさに記述した本です。
 確かに社会学はしばしば全体構造の検討に忙しく、個人と集団の営みを無視して機能分析に集中しがちですし、ゲーム理論は現実のわれわれのしばしば間違ったりもするような戦略行動をとらえ切れていないというのももっともでしょう。
 ただし、訳者があとがきで「非常に面白いけれども最初掴み所がなく思え、翻訳の過程では途方に暮れそうになったことも多々ありました」と正直に述べているように、読者としても同じ感想を持ちます。
 著者は定式化された社会学の立場を認めず、定式化自体を拒んでいるせいか、一応のまとまりはあっても内容は漠然としています。たくさん出てくるジレンマも著者が断っているとおり、決して解決されるわけではありません。この点で、昔読んだギュルヴィッチの現象学的法社会学が、現象を細かく分類しすぎて何とも掴み所のない奇っ怪な理論になってしまっていたのを思い出しました。もちろん、本書の問題提起としてはなかなか鋭いものがありますので、研究者には有益な本だと思います。
 しかし、私のような怠惰でせっかちな読者は、具体的なジレンマの解決事例を示してくれたらわかりやすいのにとついつい思ってしまいます。定式化を批判するなら新たに定式を提示した方が説得力は増すはずだからです。さらに言えば、実際、ジレンマは何らかの形で行動を通じて解消されるはずですし、実際に最善の解決に至らなくても、人間の非合理な行動が意外な解決法を見いだすという例も発見できると思うからです。ただし、著者はあまり行動経済学の方法は取り入れていないようです。
 このあたりアメリカの学者らしく、話題は一見豊富に見えて、実は守備範囲は意外と狭いのかもしれません。ヨーロッパにしばしば生まれてくる博物学的知性とは違う感じです。ヨーロッパの学者はアメリカに行くと、みんな専門の話はしないし、文学などの教養もないし、会えば天気の話しかしないと嘆いている人も少なくありません。著者はそこまで極端ではないと思いますが、そういう香りがちょっとします。たとえばドストエフスキーなんかは読んでいない感じです。ま、これは私の勝手な思い込みですが。

(新曜社2009年3200円+税)

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2009年5月28日 (木)

友枝敏雄・山田真茂留[編]『Do! ソシオロジー 現代日本を社会学で診る』

 通信教育で担当している者科学の教科書が絶版になってしまったので、新たな教科書を探しているところです。いろいろと目を通している中では、値段も手頃で設題もついているので、本書にしようかなと思っているところです。
 学説史的記述はなく、現代日本社会のタイムリーな社会学的諸問題が検討されています。現実の社会問題を自分で考えることが社会学だという主張はもっともですし、諸学者にも取っつきやすいのではないかと思いますが、「自分で考えてみましょう」という設題に対して提出されてくる学生の答案の出来を考えると、いささかぞっとしないでもありません。
 箸にも棒にもかからないような答案を添削するのは大変なので、問題はアレンジするつもりですが、教科書を写せばいいような問題にすると、今度は死ぬほど退屈な作業になります。通信教育の担当者に共通する悩みです。しかし、年に数枚は実に良くできた答案も読むことができるので、それはそれで実に楽しみでもあります。この本ではどんな答案が返ってくるでしょうか。
 本書のほかにも社会学の教科書をざっと見てみたのですが、不思議なことに、複雑系やカオス、あるいはネットワーク科学の成果を取り入れたものがほとんどありません。社会心理学や行動経済学とも交流がないようで、ましてやレヴィットの『ヤバい経済学』やヴェンカティッシュの『ヤバい社会学』もちっとも出てこないのは、あれだけアメリカに留学している人が多いのに、どうしたことでしょう。
 社会学もいつの間にか旧態依然とした社会学の固定観念の枠組みにとらわれてしまったのでしょうか、もうちょっと他の分野の学問的成果を活かすようなところがあってもいいと思います。もっとも、ポストモダンの思想なんかは結構触れている著者がいますので、全体にもう少し時間がかかるのかもしれません。

(有斐閣アルマ2007年1,800円+税)

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2009年5月27日 (水)

橋本治『いま私たちが考えるべきこと』

 世の中には「自分のことを考える」のがそのまま「他人のことを考える」になってしまう人がたくさんいると著者は言います。共同体を中心にすべてを考えていれば、人はそうならざるをえないでしょう。ムラ社会であっても、会社であっても同じです。そこにある「私たち」の本質を著者は「前近代」ととらえ、答えのない未来に向かって自分で考える「私」を「近代」として対比させて考えています。これは著者による実に新鮮な社会学の試みです。社会学のややこしい問題もこの見方をとることで、すとんと腑に落ちるところがあります。
 著者がすごいのは次のようなことをさらっと言ってしまえるところです。
「いま私たちは『自分の所属する“自分たち”』を超えた、『私たち』を考えなければならない」(147頁)
 そして、この「私たち」というのは前近代のように答えが過去にあるようなものではなく、「自分と他人とで作り上げるもの」となります。これは実に魅力的な社会理論です。今日の先端の社会科学の理論的達成とも重なる点がありますが、著者は外来の思想などに一切頼らず、あくまで言葉と論理だけを用いて、ここまで考えています。今日のわが国が誇るべき思想家の一人です。
 私が昔フランス語を教わったY先生は橋本治と東京大学で同じクラスだったそうですが、当時文学的な志の高かった同級生のうち「作家として筆一本で食べているのは橋本治だけだ」とおっしゃっていました。しかし、いつの間にか思想家にもなっていたとは、これまた大変なことです。
 また、内田樹は橋本治の論理と小田嶋隆の文体に影響を受けたとどこかで言っていました。この論理に小田嶋隆の文章の呼吸が加われば内田樹になると言われると、なるほどそんな気もしてきます。

(新潮社2004年1300円税別)

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2009年5月26日 (火)

西加奈子『きりこについて』

 自分がブスだということに気がついた女の子の「きりこ」が主人公かと思ったら、ちょっと違いました。猫の「ラムセス二世」がイケてます。この小説の始まりはちょっといまいちかなと思いかけましたが、さすが力のある小説家です。いつものように後半に加速して、とってもよい世界に連れて行ってくれました。みんなを勇気づけてくれる物語です。
 著者の小説はいつも最後に盛り上がります。最後は群像劇のようにもなるのですが、人間の外見と中身と性という扱いにくいテーマを見事に料理してくれたのは賢い猫でした。この点で人間が猫に学ぶことは少なくありません。
 著者はかなりの愛猫家で、猫語についても造詣が深いようです。猫が語るという意味では夏目漱石の猫以上です。なぜかは最後にわかります。新聞の新刊紹介に、本小説執筆中に著者の愛猫が世に召されてしまったとありましたが、そのこともこの小説に深みを与えているのでしょう。
 小説後半である会社が設立されます。もちろんフィクションですが、その経緯にネットワーク理論としても興味深いものがありました。ある種の「弱さ」を抱えた人たちがネットワークの中心となっていくというのは、そのとおりですから。そういえば、猫もまたネットワーク作りの名人でした。作家の観察力と直感はすごいですね。
 ところで猫といえば、普段お世話している中国人留学生たちのほとんどが猫嫌いであることに驚かされます。みんな猫は不潔だというのです。ちょっとカルチャーショックです。中国はどうやら猫にとって天国ではなさそうです。猫が住みよい国はいい国だと小室直樹が言っていましたが、そうかも。

(角川書店平成21年1300円税別)

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2009年5月19日 (火)

リチャード・フロリダ『クリエイティブ・クラスの世紀―新時代の国、年、人材の条件』

 世界の幸せを引っ張っていくのはクリエイティブな人びとであり、そういう人びとが過ごしやすい都市が発展するという本です。創造性が新たな技術と製品を生み出すのですから、実にもっともな話です。それで、そういうクリエイティブ・クラスが育つための都市の条件として著者はテクノロジー(技術)、タレント(才能)、トレランス(寛容性)の三条件を挙げています。その指標の一つとしてゲイに対する寛容性を例に出したものですから、アメリカではかなり誤解され、攻撃されたようです。
 そういえばゲイに対する不寛容さはアメリカのような宗教的原理主義国家では、イスラム県ほどではないにしても、かなりきついものがあるのでしょう。その点でわが国は伝統的に寛容で、人気タレントもたくさんいるくらいです。
 案の定、著者たちの研究グループによるクリエイティビティの測定では、わが国はスウェーデンについて2位という位置に付けています。わが国がゲイの天国かどうかは別にしても、宗教的な価値観が文化に影響を与えていないということでは(宗教を経典宗教に限るなら)納得のいく話です。
 いずれにしても、才能のある人にとって居心地のいい場所であれば、世界中から面白い人がやってきてくれて元気な街や国ができるということは確かですから、近年、特に9/11以降寛容性を失ってきていたアメリカに対する警世の書ではあるのですが、わが国に対しては、われわれが気がつかない良さを教えてくれるところがあって、面白いと思います。 一方、本書を読みながら、勤め先のある岡崎市の活性化についての可能性を考えています。旧商店街をどのようにしたらいいでしょうね。いっそ大学のキャンパスを全部もってくるとかしてみるとどうでしょうね。
 実は、7月6日(月)にハンガリー関係の講演会を企画していますが、月曜日の午後にどれくらいの人が来てくれるかわかりません。現在、いろんなメディアで宣伝しては試しているところです。関心のある方は「知られざる思想家たち」のトップページなど覗いてやってください。お近くの方は是非足をお運びください。

(井口典夫訳ダイヤモンド社2007年2400円+税)

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2009年5月17日 (日)

吉田智子『オープンソースの逆襲』

 不特定多数の人びとに開かれたネットワークの創造性を最大限に引き出すのがオープンソースの畏るべき特徴です。グーグルがどういう仕組みで儲かっているのかということも本書ではっきりとわかりました。本書の説明もわかりやすく書かれていますが、おいしいラーメンのスープのレシピを公開した人びとをめぐるフィクションがところどころに挿入されていて、さらに理解を助けてくれます。マイクロソフトやリナックス、グーグルなどが登場し、ここ20年くらいのITの流れが鳥瞰できます。『ウィキノミクス』などを読んで、今ひとつわかりにくかったことも、本書を読むと実によくわかりました。
 ところで今留学生たちの使っているパソコンがかなり古くなってきているのですが、これなんかも本書にあるように、WindowsをLinuxに入れ替えると当分快適に使えるようになるはずです。ITサポート部門の人に提案してみましょう。
 それはともかく、いろいろなところに人びとの英知を結集する仕掛けを作ことによって、わくわくするような未来が開けてくるような気がします。組織としてのポイントはコーディネーターないしはネットワーカーをどのように活かすかということでしょう。リーダーはその見通しをもっているだけで、後は決断さえしてくれたら大丈夫なのですが、その決断ができなければ、逆に時代からどんどん取り残されてしまうでしょう。実際取り残されているところはどんどん倒産しています。
 こうなってくるときょうびは「う、やっば、もう手遅れかも」と思っている組織人も少なくないだろうと思います。世はまさに乱世ですから、そういう人は自分でネットワーカーになるしかないでしょうね。でも、乱世だからこそ、実際に自分でやってみると案外簡単においしいラーメン屋さんが繁盛することもあるのかもしれません。

(出版文化社2007年1,429円+税)

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2009年5月16日 (土)

セネカ『人生の短さについて』茂手木元蔵訳

 ベーコンを読んでいるとしょっちゅう名前が挙がるので、読んでみました。めっぽう頭がよく、政治権力の中枢にもいたこともあり、この世の絶頂もどん底も経験した人だけに、ストイックなことを言っても(ストア派の系譜に位置づけられる人ですから当たり前ですが)、辛らつな批判をしても説得力があります。足りないことがあるとしたら「可愛げ」でしょうか。教え子のネロから殺されるなんてのは、ネロもとんでもない人ですが、どこかで敵と思わせるところがあったからでしょう。周囲の雑音に邪魔されないストイックな生き方というのは謀殺を防ぐことにはならなかったようで、また、それを本人も運命としてまともに受け容れてしまうのが、すごいけど可愛くないところでしょう。解説にリヴィウスの筆によるセネカの最後が引用されていますが、見事な運命の受け容れ方です。歴史家が書き留めたくなるのも道理です。
 かつては権力の中枢にもいてその影響力をふるった人であるだけに、権力者の心理がよくわかっている人です。その俗物的側面をえぐり出すような描写はかつての自己批判も含んでいるのでしょうが、異様なほど鋭いので、死刑を命じられる原因を自らあえて作り出しているのではないかと疑われるほどです。これでは引退してから言いがかりを付けられても仕方なかったのかなという気がします。口は災いの元とは言いますが、それを地でいく人でしょう。他山の石としなければ。くわばらくわばら。
 しかし、単なる学者とは違って、権力者の猜疑心と恐怖感にさいなまれる心理を見事にとらえています。その点ではイタリアのG・フェレーロのご先祖さまのような人です。

(岩波文庫1980年460円)

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2009年5月12日 (火)

土屋賢二『ソクラテスの口説き方』

 いつもながらこの毒にも薬にもならないけれども抱腹絶倒のエッセーは、すごいなと思います。この芸は誰にも真似できないのではないでしょうか。そういえば、上杉清文の文章がちょっと近いかもしれませんが、味わいは異なります。最近最近上杉さんの本からは遠ざかっていますが、読みたくなってきました。また調べてみます。
 さて、本書ですが、ときどき哲学的にすごい展開になるのかと思わせられるところがありますが、次の行ではそれがまったくの杞憂だったことに気がつかされます。でも、ひょっとしたら本当に専門的にもすごい人なんじゃないかという気もするので(確か野矢茂樹がそんなことを論理トレーニングか何かの本の後書きに書いていたような記憶があります)、いつかは勁草書房から出ている専門書の方も読んでみたいと思いながら、まだ手に入れていません。このエッセーシリーズを読んでしまってからでも遅くはないでしょう。
 それにしても、著者は実際哲学の中の何が専門なんでしょうね。ウィトゲンシュタインとかの論理哲学でしょうか。あのあまり面白くない日常言語学派なんかをこんな冗談に変換しながら読んでいたのだとしたら、やっぱりすごい才能です。ベルグソンに『笑い』という本がありますが、別にあれを読んで笑えるというものではありません。その点では、笑いを論じるよりも著者のように笑いを作り出せるほうが、哲学などどうでもよい読者にとっては、はるかにすばらしいことだと思います。

(文春文庫2003年467円+税)

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2009年5月 9日 (土)

山下一仁『農協の大罪「農政トライアングル」が招く日本の食料不安』

 農協と農林族の政治家と農水省の官僚たちが見事にグルとなって日本の農業と食糧安全保障を破壊してきたことが実によくわかる本です。特に農協はいつのまにか結構な金貸し業者として組織防衛を図るようになっていました。
 何せ、大規模な専業農家を育てるのではなく、小規模の兼業農家による組合を維持するために、意欲的な専業農家に対してはさまざまな嫌がらせをしてきたというのが実態です。兼業農家は土日にしか農業をしないので、いきおい農薬に頼る農法となり、環境にも多大な悪影響を与えてきたわけです。それでまた、農協は高い農薬を売りつけることができるという循環が成立してきました。
 しかし、さすがに兼業農家も高齢化が進み、その結果農協の存続自体も危うくなってきていることに、少しは気がつき始めているようです。それでも何だか少子化の中の地方の弱小私立大学のようで、問題が深刻になっていることは頭でわかっているだけで、おそらく自己改革はできないでしょうね。
 本書の指摘でなるほどと思ったこととして、わが国は水資源が豊富なために工業が発達したということがあります。原材料のさまざまな加工の過程で、廃物や廃熱を処理する際に水が必要になるわけで、アラブなんかは油は出ても水がないために工業団地が作れないわけです。
 また、水田は森から養分を含んだ水を得ると同時に、水で病原菌を洗い流す結果、連作障害が起きないということも教えられました。家庭菜園でも同じ作物を二年連続で植えたりすると悲惨なことになりますからね。たいしたものです。
 さらに、水田というのは森林の保水効果とあいまって大きな洪水を防ぐダムとしての役割も果たしていて、日本の取水量300ミリというのは世界第一位なのだそうです。
 いろいろと勉強になりました。

(宝島新書2009年667円+税)

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谷沢永一『人間力』

 この連休中は出版予定のハンガリー法思想史研究の校正に没頭していました。専門的な内容ですが、面白い本になりました。完成したらあらためてお知らせします。その校正の合間にちょぼちょぼと読んでいたのが本書です。「にんげんりき」と読みます。司馬遼太郎の小説に出てくる言葉だそうです。
 著者の本を読むと、必ず面白い本が紹介してあるので、何といっても読書欲が刺激されます。紹介されている本の中には、有名でも意外と読まれていないものがあって、絶賛されたりすると、読まずにはいられなくなります。積ん読状態だった本も新たに読む意欲をかき立てられます。新たに買わなくてすむので経済的です。アダム・スミスの国富論も未だに積ん読状態ですが、そんなに面白いなら読んでおこうかという気になります。
 本書の後半は特に司馬遼太郎について熱く語られていて、やっぱり『坂の上の雲』は読んでおかなきゃという気になりました。熱さということでは、土方歳三について書かれた『燃えよ剣』を小朝が高座で見事に語っていたのを思い出しました。昔森鴎外記念館で話をしたタクシーの運転手さんも司馬遼太郎の作品について熱く語っていました。どうやら人を熱くさせる作家のようです。
 このほかにシュンペーター『経済分析の歴史』、三宅雪嶺『同時代史』、『エリアーデ日記』が気になりました。しかしシュンペーターの本なんか全7巻です。大変な本を挙げてくれるものです。読み出したら面白くてやめられないとのことですが、大変そうです。

(2001年潮出版社1500円+税)

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2009年5月 2日 (土)

『ベーコン随想集』

 ベーコンの人間観察の鋭さが窺われる本です。論文に引用するというほどではありませんが、ベーコンが単なる書斎派でなく、実生活でもいろいろと苦労があった人だったことが偲ばれます。本書では具体的で実践的な問題への対処法が披露されています。感心させられたところを少し引用してみます。
 「大胆は無知と卑劣の子であって、他の資格よりはるかに劣るのである。しかし、それにもかかわらず、それは判断が浅薄であったり勇気がなかったりする世間の大多数の人を魅了して、手も足も出ないようにしばる。それどころか、賢明な人々にも弱気になっているときには効果がある。そんなわけで、われわれは大胆が民主的な諸国において驚嘆すべきことをなしとげたのを見るのである」(60頁)
 何だかいわゆるひとつの「小泉劇場」のような感じです。昔からこの手の人間は何一つ変わっていないようですね。
 全編こうした知恵や警句の類が随所に出てきます。ベーコンがシェイクスピアと同時代人という事実も頭に入れて読むと、余計楽しむことができます。次のような文学的な比喩もなかなかのものです。
 「運命の歩みは空の銀河に似ている。銀河は多くの小さな星の集合もしくは塊である。小さな星は散在してよく見えないが、いっしょになって光っている。同様の、多くの小さな、ほとんど見分けのつかない徳性が、というよりむしろ能力や習慣があって、それらが人をしあわせにしているのである」(179頁)
 この後、「少し愚かなところ」と「バカ正直でないこと」が幸せにつながるという論理展開もユニークですが、ここだけでもなかなか味わい深いものがあります。話題は多岐にわたりますが、注釈が細かく付けられていて、理解を助けてくれます。
 かつて師匠から各世紀から一人ずつ選んで、現代思想の潮流の中で混乱しそうになったら、読み返すようにするといいと言われたたことがあります。今までは十七世紀はデカルト、十八世紀はカント、十九世紀はヘーゲルを折に触れて読んできましたが、これから十六世紀から十七世紀にかけての哲学者としてベーコンを加えたいと思います。

(渡辺義雄訳、岩波文庫1983年620円)

 

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2009年4月27日 (月)

日下公人『2009年の日本はこうなる』

 いつもながら、日本は心配ない、大丈夫、自信を持ちましょうという本です。長谷川慶太郎の本も趣旨はよく似ていますが、著者の本は天才的なひらめきに満ちていて、もう一つ壁を突き抜けた明るさがあります。
 著者はまた、政府の要人や官僚とも言葉を交わす機会が多い人なので、彼らのナマの反応が窺われて興味深いものがあります。ODAをバラまく外務省のお役人に「国民はどうですか(喜んでいますか)」と突っ込むと、答えがなかった(48頁)といったくだりは、相手の当惑が目に浮かぶようです。
 農協のでたらめぶりも本書では3頁くらいで概観できます。先日『農協の大罪』という本を買ったので、いい予習になりそうです。農業は日本に食料を輸出する国に技術や肥料や種子を提供して現地生産するというのは、すでに始めている人もいるそうですが、安全で良質な作物の輸入確保のためには妙案だと思います。
 子どもを3歳まで育て上げた女性には1000万円を支給するというのも面白いと思います。「日本人は国際水準の二倍くらい賢くて、三倍くらい働き者で、四倍くらい精神が高潔で、五倍くらい文化水準が高いと考えれば、一人につき一千万円を払っても決して高い買い物ではない」(164頁)というのがその根拠です。なんて積極的で素敵な発想なのでしょう。

(ワック株式会社2009年1200円+税)

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2009年4月26日 (日)

長谷川慶太郎『それでも、「平成恐慌」はありません。―これが、世界経済再生のシナリオ』

 デフレ基調の世界経済で生じたアメリカの金融破綻は、確かに世界中に影響を及ぼしていますが、そこから抜け出すには公共事業投資しかなく、そうなってくると、技術力では世界的に圧倒的優位に立っているわが国には、工作機械を中心に世界中から発注が相次ぎ、一人勝ちするだろうという話です。
 わかりやすく明るい話です。こんなに希望に満ちていていいのだろうかというくらい良いことが書かれています。とりわけ先端技術の情報に関しては、著者自らが現場に足を運んで書かれているだけに、有象無象のお茶の間エコノミストとは違って、独特の説得力があります。御年82歳でもまだまだ現場を取材する気力と体力が衰えていないことには驚かされます。
 本書で特にはCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)という、企業の債務不履行を対象にした怪しい保険について、簡にして要を得た説明がなされていて勉強になりました。これに手を出している金融機関が全部やられてしまったのが今回の金融破綻なのだそうで、著者はこれをサブプライム・ローンよりも深刻な原因とみています。
 また、アイスランドやハンガリーの通貨危機についてもわかりやすく説明されていたのに感心させられましたが、ハンガリーの通貨が「フロリン」と記されている(71頁)のは「フォリントForint」の誤りです。著者にしては珍しいことですが、外国の知人から聞いた音をそのまま表記したのではないかと思われます。
 マスコミの報道だけを見ていて気が滅入る人には、元気と勇気を与えてくれる本だと思います。

(ワック株式会社2009年838円+税)

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2009年4月21日 (火)

アラン『幸福論』神谷幹夫訳

 この翻訳は私にはまったくなじめませんでした。訳文がかなり短く分けられていて、それがかえって理解を妨げるようなところがあります。また、文末にやたらと「のだ」が用いられています。アランはそんなにくどくないと思うのですが、違和感があります。赤塚不二夫の「これでいいのだ」も脳裏をよぎります。外来語も頻出し、訳者は時代に合わせようと苦心されたのでしょうが、マシーンとかメカニックとかナイーヴなんかはあんまり気持ちのいい言葉ではありません。
 一読して意味のわからないところは他の翻訳にもありますが、ともかく通読していると改めて感動させられるところがあるのが、この本の特徴だと思います。しかし、この翻訳に限って言えば、感心して付箋を貼ったところがひとつもありませんでした。意味がなかなかまとまって伝わってこないからです。
 たぶん原文と対照させながら読むと意味が通りはするのでしょうし、むしろある意味で8冊も刊行されている『幸福論』の翻訳の中で、「私の訳こそ正確なのだ」という自負すらそこはかとなく伝わってきます。語学的にもひょっとしたら一番正確なのかもしれません。でも、日本語的には随所に疑問符がつきます。
 たとえば、「われわれは人を何か考え込ませるような説教をぶって、死にかけている人のとどめを刺そうと、人間の弱さや苦しみをうかがっている司祭には見慣れている」(195頁)とあって、この「司祭には」に違和感を抱かざるをえません。ただこれは頭の中で「司祭なら」とでも置き換えると、まあ何とかわかります。
 教室のフランス語購読ならこれくらいの話し言葉でも、みんなはわかってくれます。でも、日本語の本として考えるなら、もう少し読者の立場を代表して編集者が苦言を呈してくれないと困ります。
 6月から7月にかけて、市民講座でアランの断章から5編選んで、一日ひとつずつを合計5回かけてじっくり読んでみます。いくつかの訳本を対照させながら原文を検討しようと思っていますが、ある意味で本書も、何でこんな日本語になるのか考えてみるうえで、いい教材になるかもしれません。

(岩波文庫1998年700円+税)

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2009年4月19日 (日)

上田閑照『私とは何か』

 著者は人並みはずれて勤勉で、他人の思想の解説は実に見事ですが、ご自分の言葉でものを考えることになると、妙に力が入りすぎるのか、いろいろと面白いことを考えているようなのに、それがうまく読者に伝わらないという、なんだか損な役回りというか、星の下に生まれた感があります。
 著者は昔はあまり一般的な著作を発表されていませんでしたが、その実力は周囲から高く評価されていて、大学院のころに同じゼミの先輩が著者の講演を聴くのを楽しみにしていたのが思い出されます。当時は、とにかくすごい人だから話を聞いておいたほうがいいという感じの噂が広がっていました。
 私のほうは「ふーん」と思いながら、著者の『十牛図』を立ち読みしてみても、いまひとつピンと来なかったので、講演会には行きませんでした。その後、鈴木大拙の解説などで多少は著者の文章に触れる機会はありましたが、書店で単著も出ているのを目にしながら、いつかはまとまったものを読まなきゃと思っているうちに、気がついたらほぼ30年が過ぎていました。
 本書はそんなわけでようやく読んでみた著者の単著ですが、うーん、なんとも不器用な人だと思います。残念ながら30年ほど前の印象は当たっていたところがあります。読んでいて、これはと思ったのは山川登美子、西田幾多郎、夏目漱石の引用の部分で、肝心の著者の文章が凡庸なのです。いいことも書かれているのですが、書くことと考えることとがうまくつながっていない気がします。
 京都学派周辺の人にとっては学識人格とも優れた哲学者であっても、そうした空気と無縁の一般読者にとっては、いわゆる「考える文体」を持った人でないと、どう転んでも学者でしかありえないのです。
 こういう人をどうとらえたらいいのでしょうね。ご本人が真面目すぎるのでしょうか。なんとも言えませんが、さしあたりここでは性急に判断せずに、別の本ももう少し読んでみようと思います。

(岩波新書2000年660円+税)

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2009年4月15日 (水)

アラン『幸福論』(白井健三郎訳)

 業界ではシラケンさんと呼ばれている翻訳の名手によるアランです。またあのシラケンさんがあのだれそれの難解な翻訳に取り組まれるそうだ、すごいね、でもちょっと物好きかも、といった感じで噂されているのを聞いたことがあります。
 アランの翻訳の難しさは、文脈の中に伏線のように張り巡らされている論理の絶妙なつながりを発見することだと思います。文法的には一見何の変哲もないストレートな文章の連なりの中に、同じエッセー中で触れた言葉を受けて新たな表現で言い換えられたりするところが多々あるので、不用意に日本語に置き換えると逆説が逆説でなくなったり、反語が反語でなくなったりして悲惨なことになります。
 その点で本書はアランの精妙な論理が日本語で隅々までわかるように訳出されています。さすがです。この点でいずれ通して読むつもりで時々眺めている岩波文庫の神谷幹夫訳よりはるかに優れています。

 それにしても翻訳というのは難しいものです。単に原語がわかるだけでは、必ずしもいい日本語になるとは限りませんし、思い込みの強い研究者だと自分が著者になったようなつもりで意味を取り違えてしまったりします。そもそも日本語に難のある書き手が翻訳者でなくてもたくさんいますから、名訳というのは常に希有な僥倖だということがわかります。
 そもそも、英語みたいに膨大な学習者人口を抱えている言語でさえも、翻訳者としてすぐれている人はそんなに多くないですもんね。逆に、この人の訳ならやめとこうというひとなら結構います。でも東大英文科なんかを出ている翻訳者は教室の優等生のままで結構仕事に恵まれていたりもするから、理不尽だなあと思うことも少なくありません。日本語としてひどい文章がそのまま通ったりするのは、きっと編集者の日本語も怪しくなっているからでしょう。
 ただし、最近はAmazon.comなどで利害関係のない人から容赦のない批判が出たりするので、結構参考になります。内容はいいけれど、翻訳は一つ星なんてのがあります。読者の中にはすごい人がいるのです。変な訳が淘汰されていくとしたら、ネット社会も捨てたものではありません。

(集英社文庫1993年648円+税)

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2009年4月12日 (日)

ベーコン『学問の進歩』

 『ノヴム・オルガヌム』にいたく感銘を受けたので、これも再読してみました。以前には明らかに今とは違う関心から読んでいたらしく、今から見ると変なところに線が引いてあります。何だかちょっと小っ恥ずかしいような気もします。何しろ1983年に読んでいるので、この本から得られたことが何だったのかということさえ記憶に残っていませんが、どうやら当時はロッシの『魔術から科学へ』かホッケのマニエリスム論のような本から示唆を受けて本書を読んでいたようです。
 本書はベーコンが提唱する学問の大革新の壮大な計画の一部を披露したものです。気宇壮大とはこのことかと思わされます。様々な学問の革新についての傾向と対策が語られていく中でわかってくるのは、ベーコンが帰納法論理学を強調するだけの論理学者ではなく、人間を総合的に考える視点がしっかり定まったユニークな思想家だということです。
 ベーコンは机上の論理ではなく、現実の人間のありようを観察し、世界における論理的・合理的にとらえがたい現象の重要性をしっかりとらえています。もっとも、本書はベーコンの計画の中では序章に当たるものなので、個々の論点をしつこく掘り下げてはいませんが、その慧眼にはしばしば驚かされます。ノヴム・オルガヌムにつながる思考の萌芽は十分読み取ることができるので、いつか論文にまとめてみたいと思います。
 さて、具体的にベーコンがどんな点に着目しているかというと、感官や情念、身体、発見や判断、徳を表現する想像力、精神を落ち着かせもする愛の作用、自然に学ぶこと、個々の事実から離れることで誤りに陥ること、体系的知識はしばしば見かけ倒しだということなどです。この論点からしても、ベーコンが単なる論理学者ではないことがわかるでしょう。
 ベーコンの常識と実践的で経験的な思考を支えているのは聖書の教養です。特にパウロに対する評価が高いのには共感しました。ちなみに仮想敵はアリストテレスに代表される異教徒=ギリシャ的な体系的知識です。ただ、この大変な人を敵に回すだけあって、相当相手のことを読み込んでいます。なお、セネカやキケロ、あるいはカエサルなどは味方につけています。この時代の教養に追いつくのは大変ですが、私もちょっとでもあやかるべくこれから徐々に読んでいないものを減らしていこうと思います。
 ところで、ベーコンはシェークスピアと同時代ということですが、この著作もあの戯曲の底流にある世界観と共通する点がある気がします。それは決して奇をてらうようなものではありませんが、当時の人びとのコモンセンスを支えていた当のものです。「リア王」や「ハムレット」あるいは「あらし」の終幕のところで芝居全体を振り返るような時間の流れが感じられるあの箇所です。あの何とも言えない静寂さがいいのです。
 それはともかく、ベーコン本人の語り口も当時のスタイルなのでしょうが、結構芝居がかったところがあり、俗説ながらベーコン=シェークスピア説がある理由もわかります。訳文からの想像ですが、この文章はおそらく独特のリズムで綴られているのではないでしょうか。実際、本書は英語で書かれた最初の哲学書ということですし、その文体についての研究書もあるようです。研究書はともかく、本書の原書をひもといて英語原文を眺めるくらいはしてみるつもりです。演劇的知というのがベーコンにこれほど当てはまるとは思いませんでした。

(服部英次郎・多田英次訳岩波文庫1974年500円)

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2009年4月 2日 (木)

青木健『ゾロアスター教』

 このところ、Niederhauser『東欧ロシア史学史』の翻訳原稿に文献注をつける作業にかかりきりで、更新が滞っていました。なにしろ数えてみたら担当のロシア史学史の章だけで450以上の膨大な注になったのですから、道理で時間がかかったわけです。
 私などは単なる翻訳に過ぎませんが、原著者のような歴史家というのはこういう大変な作業を含めて資料を読み込んでいくわけですから、心底すごいなあと思います。
 本書の著者なども、大量の専門文献を収集し、整理し、そして何より読みこなしている人だと思いますが、資料に埋没せず、漠然とした関心のある一般読者に向けてこういう本を出してくれると本当に助かります。
 本書はゾロアスター教の全体像が概観できる好著です。その始まりから展開、ヨーロッパでの過剰な思い入れを伴った受け入れられ方、そして、インドのカースト制の中に組み入れられて保存されてきた「パールスィー」の様子なども含めて、門外漢が知りたいと思うことが、漏れなく触れられています。
 専門家になると一般読者への思いやりがいつの間にか失われることも少なくないのですが、ここまで特殊な専門ということもあってか、そのあたりの配慮と謙虚な姿勢には頭が下がります。
 著者によれば、善悪二元論的世界観が提唱された後、教祖が予言した「世界の終末」がなかなかやってこないため、処女懐胎から救世主が登場するという考え方が苦し紛れに生み出されたそうです。そして、それにもかかわらずこの思想が計り知れない影響を世界の宗教史上に与えるに至ったというのは何とも面白いところです。
 元々の土俗性もしっかり書かれていて、初期の熱心な教徒たちは、犬が善なる創造物であるのはいいとしても、カエルは悪なる創造物であるとして、毎日カエルを殺す時間を設定し、熱心にカエルを探し出しては叩き潰していたそうです。このあたりはなんだかこの世界初の倫理的宗教という文化的意義や、その高い精神性との折り合いが付きにくい部分です。人間というのはつくづく変な生き物だと思います。
 また、ササーン王朝下のゾロアスター教文化においては、男性の服装に対して口うるさく批評しない女性が好ましいとされていたというのも興味深いところです。女性の美意識と男性に対する価値観がある程度確立していたからこその評価基準でしょうから、女性たちはそう虐げられていたばかりでもなかったのかもしれません。
 ホメイニ改革前のイラン女性たちのファッションがパリのそれと区別がつかないくらい進んでいたというのも、こうした昔からの美意識のなせる技だったのでしょう。しかし、原理主義に国家を乗っ取られると、とんでもないことになるというのもまた宗教のおっかないところです。今日のイランはもはや自力で現体制を改革することはできないように思われます。
 日本も相当なバカが政治をやっているところがありますが、こんなになってしまうと、おそらくすべてが破壊されるのでしょうね。この点、何のかんのと言ってもわが国は幸運でおめでたい国ですが、やはりそれは幸せなことでしょう。

(講談社選書メチエ2008年1500円税別)

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2009年3月27日 (金)

『林達夫著作集2 精神史への探求』

 玄人好みの渋い才能が光る巻です。第1部の「ルソー」では、ルソーの理論家としての側面を鮮やかに浮かび上がらせていて驚かされました。J・デリダが『グラマトロジーについて』の中で難解な言い方で示していたことが、ここでは明快に説き起こされています。目の付け所は変わりませんが、よりルソーの作品に立ち入って精密に論じられています。これが第二次大戦中に書かれていたことを考えると、偉いものだと思わずにはいられません。
 また、デュルケーム学派に始まる宗教の民族学的研究がヨーロッパ的偏見に基づいていたことをはっきりと指摘しているところにも感心させられました。こう述べています。

「私に言わせれば、これらの発言の立場は、例外なく異教的儀礼の遺制のすべてを妖しげな呪術視し、『魔法』を不法なものとして禁止し、そして『魔法使い』を焚刑に処したところの中世から近世にかけてのキリスト教の教会政治的立場と本質的には、ほとんど変わるところがないのである。従ってそれは根本的には異教や『邪信』に敵対し自家宗教を救護するところのいわば護教論的見方であって、自由にして公正な科学的なそれでは決してないと断ぜざるを得ない」(261頁)

と、結構激しい口調ですが、こういうことをスパッと言うことのできない人種が社会学者などと呼ばれているうちは、わが国の学問は輸入業者のつくるギルドの域を出ないでしょう。学会ないしは業界の中で泳いでいると、このような疑問がそもそも浮かんでこないと思います。この点で、著者は文字通り「自由にして公正な、科学的な」見方ができた人です。
 ただ、著者のスタイルにはやはりどこか感覚的にしっくり来ないところがあるのも正直なところです。付録の「研究ノート」で林達夫の教え子である哲学者の福田定良が「私は先生にとって縁なき衆生のひとりでしかない」と書いていましたが、その感覚は私にもあります。私も著者のような「学問の人」ではないし、なりえない気がしますので(福田定良のような文章は書けるようになりたいと思いますが)。
 それにしても第1巻の付録では中村雄二郎の文章が異彩を放っていましたし、この巻の付録の福田定良のエッセーも秀逸でした。全集の月報みたいな感じですが、これも読むのもまた楽しみです。

(平凡社1971年1,000円)

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2009年3月26日 (木)

アラン『幸福論』(串田孫一・中村雄二郎訳)

 市民講座でフランス思想の読解講座を開くので、テキストにどうかと思い、30年ぶりくらいに読み返しました。やはり名著です。今年前半のテキストはこれで決まりです。後半はこれを続けるか、それともアランの教え子で今年生誕100年を迎えるシモーヌ・ヴェーユにしようか、まだ思案中です。講座がスタートして受講生の意見を聞きながら、ゆっくり考えるつもりです。
 それはともかく、アランのメッセージというのは「理性だけではらちがあかないでしょう。そのときは身体に聞きなさい」というものです。身体の発する声に耳をそばだてることの深い意味を悟っているのがアランの特長です。デカルトの情念論に学んで、このような哲学が出てくるところが何ともすごいところです。
 ちなみに、翻訳者の一人はわが師匠ですが、師匠もアラン経由でデカルトの情念論を引き合いに出していたのでしょう。本書には様々な思考の鍵が埋め込まれています。ゆっくりゆっくり何度も味わいながら読んでいきたい本です。実際、気に入ったエッセーは二度三度と読み返しつつ、その思考と文章のリズムを味わいながら読み進めるため、読むのに時間がかかるのも確かです。
 それにしても、こちらも年をとったせいか、いろいろと身につまされれてわかることがたくさん書いてあります。講座で読むエッセーを選ぼうと思って付箋を貼り始めたら、これまた繰り返して何度も読んでしまいます。付箋もあっという間に10枚を超えてしまって、これなら最初の頁から順番に読んでいく方がいいかという気になっています。
 それから、これも若い頃には感じなかったのですが、自分はどう逆立ちしてもこのようなものは書けないということが、いやになるほどはっきりとわかります。若い頃にはこれがこんなに手の届かないところにある才能だとは思いませんでした。自分でも少しばかり文章を書くようになってみると、彼我の違いはあまりにも歴然としています。何の変哲もないような文章ですが、よく見ると独特の論理とリズムでつながっています。論理が微妙に飛躍しながらもつながっているのがわかると快感です。これは真似できるようなものではありません。
 原書でもじっくり味わってみるつもりです。

(白水社2008年1300円+税)

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2009年3月25日 (水)

日下公人・高山正之『日本はどれほどいい国か 何度でも言う、「世界は腹黒い」』

 この二人の対談ですから、思った通り、お互いの主張を補強し合うような盛り上がりを見せています。この手の対談本はふつうしゃべったままではなくて、かなり後から手を入れるものですが、本書は目一杯書き込まれていて、資料としても貴重な記述が随所に見られます。
 かのアウンサン・スーチーの支持勢力が華僑とインド系、およびその原因を作った英米で、みんなミャンマーに対する既得権益を手放そうとしていないという構造は本書ではっきりわかりました。このあたりの事情は日本の新聞を読んでいる限りは絶対にわからないと思います。
 それにしても両者とも国際情勢と戦争の歴史に詳しいのに感心させられます。その情報源にも興味があります。言及されているものについては今後、できる限りフォローしてみたいと思います。翻訳のないものも結構ありそうです。
 ところで、この対談では日下公人氏がクリスチャンだったことを初めて知りました。対談ならではですね。もちろん日下氏だからこそ、若いときから西洋世界の略奪的性格を見抜いていたのでしょう。むしろ相手の懐に飛び込んで、もっと普遍的なことを考えてきたのだろうと思います。
 ほかに印象的だったのは、アメリカやオーストラリアの原住民に対する差別や虐待の歴史で、さらには現在もその酷さが継続していることがわかります。また、メキシコのメスチソの母たちは子供とは引き離されて生涯奴隷のままだったそうで、本当に文字通り人間扱いされていなかったのですね。
 世界は腹黒いというのが常識であり、それを忘れているか、見てみないふりをするのが今日のわが国民のようですが、やはり、世界が腹黒いのを承知の上で無償の善行を施して初めて世界中から畏敬の念をもって見られることになるのでしょう。今は子どもっぽい単純なお人好しですが、立派な大人になる可能性もまたあるような気がしてくる本です。
 それにつけても、この方向でわが国が成熟するための最大の障害は役人とインテリではないかと思います。役所や大学だけでなく、民間企業でもこういうタイプの人間がどんどん増えているような気がします。見分けるのは簡単で、彼らは揃いも揃って口舌の徒だという点で共通しています。そして彼らは、何はさておき自己の責任だけは決して取ろうとしません。そうだ、こいつらは腹黒いのでした。
 いずれにしても、わが国民の官僚化に歯止めをかけないと、これからますます大変なことになりそうです。

(PHP研究所2008年1,300円+税)

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2009年3月22日 (日)

前田耕作『宗祖ゾロアスター』

 ゾロアスター教が古代ギリシャ思想やユダヤ・キリスト教に与えた影響には絶大なものがあります。本書はその影響の影の部分から元の姿をとらえようとする文化史的・精神史的試みです。ヨーロッパ人はこういう物事の本質を瞬時に悟ってしまうような思想は怖くてたまらないのでしょう。それに様々な魔術的妄想が付与されてきたため、元の形はますますわからなくなり、怪しいイメージだけが先行していますが、むしろこれはヨーロッパの怪しさの投影でしょう。対抗して出てきたキリスト教文明の方がはるかに暴力的で悪魔的な力を全世界にふるってきたのですから、怖いのはそっちです。
 本書ではゾロアスター教の中心思想の構造がきっちりと分析されているわけではないので、その点についてはほかの本で補う必要がありそうですが、ゾロアスター本人の伝説とゾロアスター教を取り巻く状況はよくわかります。
 なかでもとりわけ印象的だったのは、初めて聖典とされる『ゼンド・アヴェスタ』を翻訳したフランス人アンクティル=デュペロンの情熱です。現地に長期間滞在しペルシャ語を習得しては原典かどうかを確かめつつ翻訳するという大変な仕事をした人がいたんですね。
 また、ニーチェのツァラトゥストラは言うまでもなくゾロアスターのことですが、ギリシャ思想については覚え違いや勘違いの多さで知られたニーチェらしくなく、ゾロアスターについては意外にも当時の研究を結構正確に参照していたことがわかります。
 文庫版あとがきに、ゾロアスター教がイランだけでなく、今日インドやパキスタンの一部でパールシー教という生きた宗教として生き残っていることが書かれています。著者にはそのあたりを調査した仕事もあるのでしょうか。あったら読んでみたいと思います。

(ちくま学芸文庫2003年1,000円+税)

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2009年3月20日 (金)

『林達夫著作集1 芸術へのチチェローネ』

 古本屋で著作集全六巻で2,500円だったので、つい買ってしまいました。これからぼちぼち読んでいきます。
 林達夫の文章を読んでいると、戦前の優秀なナンバースクールの学生はきっとしびれたんだろうなと想像されます。とんでもない博識ぶりが読む者を圧倒しますが、著者自身意識的に英独仏伊羅の言語をちりばめたりもして、このような語り口が格好良く見えた時代があったことがわかります。
 1970年代後半あたりまでは大学の先生は学生を知識の点で圧倒的に凌駕しているのが当然だと思われていたためか、文章も漢文表現や外来語が駆使された難解なものが少なくありませんでした。読者はこうした知識人に少しでも追いつくべく難しい表現に挑戦するのがよしとされていたところがあります。(今は中学生にもわかるような文章表現でなければ版元が本を出してくれそうにない雰囲気ですが、それは書き手にとって決して悪いことではありません。)
 このバランスが崩れたのは、1980年代に入ってますます大学生が本を読まなくなったことと、フランス現代思想の流行により、日本語的にあまりにもわからない本が出てきて、それまでの読者層が音を上げ始めたことにあったような気がしています。一方でわかりやすく思想を語る人も出てきていましたから、あえて難解な表現の奥にある(かもしれないし、ないかもしれない)深い思想に思いを寄せる必要がなくなったからかもしれません。
 それはさておき、林達夫のスタイルはかつて明らかに知識人のお手本とされていた時代があったように思います。ここで文章の中に政権政党への批判をそれとなくちりばめると、故加藤周一の文章のようにもなりそうです。ただし、著者の文章からは政治性が徹底して排除されているので、その点では隙が見られません。著者はライフスタイルとしては自然体を心がけ、書くテーマも趣味に徹しているためか、博識ではあっても衒学的ではなく、不思議と厭味な感じはしません。
 この巻で面白いと思ったのは精神史的考察の手法で、百科事典的知識を独特な視点で編集する手際が見事です。この人があの人と同時代で同じ空気を吸っていたのかとか、この時代の流れの中であの不思議な本が書かれたのか、ということが改めてわかって面白いのが精神史です。この点著者の面目躍如たるところがあります。
 たとえば、トマス・モアの『ユートピア』がベーコンの『ニュー・アトランティス』やラブレーの『テレム僧院』へ、さらにモンテーニュやコペルニクス、そしてグーテンベルクへとつながっていく切り口は見事です。「発見と発明の時代」ということで言えば、なるほどこういう見方があるのかと感心させられました。
 もっとも、著者の芸術論には独自の芸術の見方はあまり感じられませんでした。旧制一高生の時に書かれた「歌舞伎に関するある考察」は著者の早熟さを示す見事な論考ですが、演劇論としては凡庸です。著者は歌舞伎にはよく足を運んだそうですが、能にのめり込んでみたり、西洋に足を運んで各国の演劇を観て回ったりするということはその後もあまりなかったようで、演劇センスとしては疑問符が付きます。
 しかし、だからこそ林達夫からも多くを学んだ中村雄二郎や土屋恵一郎のような、本当に演劇が好きで自らも制作に関わったりしていた人たちの出番もあったわけですから、ま、いいのでしょうね。

(平凡社1971年1,000円)

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2009年3月19日 (木)

ベーコン『ノヴム・オルガヌム(新機関)』

 出勤前に読む本を選んでいて、あ、これまだ読んでなかったかもと思い、とっさに持って行ったところ、読み進めるうちに自分で線を引いた箇所が出てきました。増刷の日付を見ると2005年に購入しているので、そのときに読んでいたようです。まあ、よくこういうことはありますが、今回読み返してみて改めてベーコンが只者でないことがわかりました。
 ふつう、思想史的にはベーコンは、アリストテレスの論理学に対抗して新たな帰納法的論理学を立てようとしたとされますが、この帰納法は近代の科学万能主義的信念に基づく単純な実証ではありません。もっと科学の現場から出てくる実践的かつ深遠な思想に支えられています。それはたとえば次のような引用をみても明らかです。

「推論によって立てられた一般命題が新たな成果の発見に役立つことは決してあり得ない。なぜならば自然のもつ精細さは、推論のそれを何倍も越えるものだから。しかし個々的なものから正当に順序立てて抽出された一般命題は、逆に個々的なものを容易に指示し・提示し、したがって諸学を働きあるものにする」(77頁)

 そもそもベーコンはこの「自然のもつ精細さ」にただならぬものを感じている人で、それをどのように言っているかというと、

「触知的な物体に含まれていながら、精気の働きは人眼に触れず、人々〔の考察〕を逃れるようになる。また粗大な物体の部分における、より精細な構造転換(実際には微小なものの間の移動であるのに、人々はふつうに変化と呼ぶ)も同様にすべて表に出ない」(91頁)

というようなことで、なーんだ、気がついているじゃないのと言いたくなります。もちろんこの微妙さを感知できるというのは、ベーコンが単純な実証主義的科学主義者ではないことを物語っています。
 またそうした人だからこそ、「人間的な事がらや運命が懸けられているかの真実で実質的で生きた公理」の重要さを指摘することができるのだと感じました。この公理をベーコンは「中間的公理」と呼んでいますが、これが社会科学における実践的真理を担保する哲学になっているのは実に面白いと思います。イギリスには先人にこういう人がいるから原理主義的社会科学が流行らないのかもしれません。
 ベーコンにこういう思想があったことに今回初めて気づかされました。収穫です。現在構想中の社会学の教科書に、これは是非とも加えなければと思っています。

(桂寿一訳岩波文庫1978年660円+税)

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2009年3月18日 (水)

高山正之『日本人が勇気と自信を持つ本 朝日新聞の報道を正せば明るくなる』

 副題通りの本です。朝日は独善的なだけではなく、とりわけ歴史に関しては不勉強で捏造記事が少なくないことがよくわかります。著者は新聞記者だったにしては珍しく、並外れた勉強家である上に、情報のポイントを正確につかみだして見せてくれるところが、単純な秀才にはできないところです。
 以下、朝日新聞が伝えない事実を列挙してみます。

・2002年日韓共催ワールドカップサッカー大会において、韓国が「審判員をカネで買収したことによる意図的な誤判定」の存在をFIFAが認めたこと。
・世田谷の一家四人殺害事件において、犯人は指紋をたくさん残していったため、その他の有力な手がかりもあり韓国に捜査協力を求めたが、拒否されたこと。
・拉致被害者の有本恵子さんのご両親が、生存情報が寄せられた手紙を持って社民党の土井たか子事務所に相談したら、その2ヶ月後に金正日は拉致を認め、有本恵子さんと夫の同じく拉致被害者石岡亨さんと娘二人が石炭ガスの中毒で死んだことが知らされたこと。

 というような事実です。ただしこうしたことは産経新聞にも載っていないので、しばしば記者クラブでの談合に基づいて同じ記事が書かれていることがわかります。新聞記者も同業者共同体の中で役人化して久しいのでこんなことになるのでしょう。
 このほか驚かされた指摘は、シドニーオリンピックの開会式で踊っていた先住民アボリジニが体を黒く塗った白人で、本物のアボリジニは「私たちを滅ぼさないで」と会場の外で座り込み抗議をしていたこと、また、かつての外交官試験は情実任用がまかり通っていたことなどです。
 後者の件では、祖父以来3代続けて外交官だったペルーの元日本大使なんて人の情けなさが偲ばれますが、事実がわかると納得できる情報というのは結構あるもので、本書はほかにもそうしたポイントを押さえた指摘がたくさんあります。
 やはりジャーナリストというからにはこうでなくては。

(2007年テーミス1,000円+税)

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2009年3月16日 (月)

坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(下)』

 この巻では釈迦入滅後の教団の様子などにも触れられていて興味を惹かれました。ただ、このお経がいかにありがたく、霊験あらたかなのかということをしきりに繰り返されても、その核心のところが書かれていないので、そう言われてもちょっと困るなあという感じになります。熱い気持ちは伝わってきますが。
 中巻には、この世の一切は空であるとはちらっと出てきましたし、仏教の教科書的な記述も少しはありましたが、下巻まで読み終えてしまうと、え、それだけ?という気にさせられます。昔読んだものの今は内容をすっかり忘れてしまったあの上巻に戻らなくてはいけないようです。かすかに残っている記憶では、やはりたとえ話に妙味があったので、そのあたりが大事なのかなという勝手な予測を立てています。
 やはり西洋哲学的な読み方をしてはいけないのでしょう。しかし、インド文化の色彩はずいぶん濃いと感じます。当たり前ですが、比較文化論的、文化人類学的にも興味深い価値観がたくさん出てきます。これをもって舶来の思想としてありがたいものだと言われれば、雰囲気としては抗いがたい時代があったことはわかります。
 それにしても、このまま唱和してもありがたいというのはお経のどのあたりになるのでしょうか。日本人にとってもそのままありがたい箇所となると、あの辺かなとか想像してみたりもしますが、南無阿弥陀仏よりもずっとわかりにくい思想だと思います。
 時間があれば上巻をもう一度読んでみます。

(岩波文庫1967年760円+税)

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2009年3月10日 (火)

坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(中)』

 ずいぶん以前に本書の(上)を読んだので、書かれていたことの多くは忘れてしまいましたが、たとえ話の多いお経だという印象だけはありました。続きを読むとやはり同様のことを感じますが、内容を韻文の「詩頌」にして繰り返すところや、いわゆる「偈」というものに今回初めて気がつきました。法事でお経を唱えているとき、リズムが変わったり、歌になったりするのは内容としてはこんなことが書いてあるというのが面白いと思いました。
 いつも何も意味がわからないまま唱えていたわけですが、特に法華経というのはとにかくこの教典が世にもありがたいものだということが繰り返して出てくるので、それはそれでいいのかもしれません。内容は気が遠くなるような数字がたくさん出てきて、インドらしいなと思うところがありますし、女が生物的に男になってから悟りを開くというような、フェミニズムからは怒られそうな箇所もあります。
 仏教とは関係ないにしても、最近まで夫を亡くした女性を焼いてみたりしていたわけですから、あの地域の文化は結構女性差別的なのかもしれません。女性差別以前にカースト制度がありますしね。
 今度はできれば間をあけずに(下)を読むつもりです。

(岩波文庫1967年760円+税)

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2009年3月 5日 (木)

安部英樹『不良のタオ 無極山荘の仙人が教えた「老子」』

 著者は国際的な「不良」で、アラブやアメリカそして台湾と放浪しながら堅気ではない人生を送ってきた人です。台湾に居を構えるようになって知り合った道家の師のところに通うようになり、結局弟子入りすることになりました。本書はそこで得られた教訓とそれまでの半生を対比させながら、各章末に「俺の老子」という形で著者の消化した老子の教えがまとめられています。
 国際的に「道を極める」著者の生き方にはまず驚かされました。アラビア語や英語や中国語を駆使しつつ、世界の極道たちとも渡り合って生きていくのは、本人が頭脳明晰才気煥発であるだけでなく、人並み外れた努力家でなければなりません。当然、そこからくるストレスもとんでもないものでしょうから、そうやって気張って生きていくのがいつまでも持たないということも理解できます。また、そうした著者だからこそ、人生の途上で老子の思想と出会うのもまた必然だったのでしょう。
 経験に裏打ちされた著者の老子解釈には小難しいところが全くなくて、改めて教えられることも多いのですが、著者にとっては当たり前のこととして、何気なく書かれた次のような言葉にもどきりとさせられました。

 「人間は、生きていくための智慧と出来事への反省の心さえあれば幸せになれるのに、いつの世にも学問がいいことだと信じて疑わない人があまりにも多い」(73頁)

 これは学問をやると知識にとらわれ、結局は型にはまって自縄自縛になるということを戒めている箇所です。とりわけ学者はバカの代表格ですが、職場の人間模様を見ているだけでもその手の見本市みたいなものです。これは要するにバカが学者をやっているというのが実情だということでしょう。私は名ばかり大学教員で毎日事務仕事ばかりやっていますが、それでも自分を学者と規定するなら十分自戒しておかなければなりません。
 さらに言えば、人は知識によってばかりか経験によっても自縄自縛になります。それは学問に限らず反省を知らない人の常で、政治でもスポーツでも経営でもあるいは芸術でもみんな同じです。そして、バカが政治をやるとどんなことになるかは、現在身をもって国民が経験しているところです。
 この点で何よりも大事なものが「智慧と反省の心」というところがいいですね。確かにこれを失った人は思いっきり硬直しています。人によっては外見からでもわかるくらいです。
 そういえば「柔らかい心を持つことができなかったものは柔らかい脳を持つことになる」といって脳軟化症になった(と当時考えられていた)ニーチェを揶揄したのはG・K・チェスタトンでした。ニーチェはそんなに学問ばかりをした人ではなかったと思いますが、それでもチェスタトンから見ると心は硬かったのでしょう。チェスタトンの柔軟さというのは大変なもので、思えば彼もその行動様式は「不良」そのものだったかもしれません。
 本書の著者もなかなか魅力的な人です。

(講談社2008年1500円税別)

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2009年3月 3日 (火)

髙山正之『変見自在 サダム・フセインは偉かった』

 朝日を読んでいてよくわからない問題は、週刊新潮連載のこのコラムでストンと腑に落ちることが少なくありません。タイのタクシンが客家華僑だと聞けば一瞬にしてわかるようなことを隠すのは「日中友好」のためではあっても、ジャーナリストの仕事ではありません。幸い、著者には筋金入りのジャーナリスト魂がある上に、大変な勉強家です。学者が足元にも及ばない情報収集・文献処理能力がこのわかりやすいコラムに集約されています。
 ほかにも東チモール情勢やハイチの歴史的事情、アフガニスタンとパキスタンの関係などは記述としては数行ですが、見事に歴史的政治的ポイントが押さえられているので、本当に勉強になります。東チモールとポルトガルやハイチとフランスの関係については改めて教えられました。そうだったのか、なるほど。
 また、明治維新が「上からの革命」だったという説はコミンテルンの指令だったのですね。これはやっぱりという感じですが、歴史科学研究会なんかはきっと今でもこの路線をかたくなに踏襲しているのでしょう。いずれにしても、伊藤博文などの足軽出身政府が武士を馘にして日本に科挙制を導入したことがわが国に災厄をもたらした、という説明は実に説得力があります。
 明治20年に早速出された「官吏服務紀律」にはすでに「十七条にわたって官吏は物を買うな、無賃乗車をするな、威張るな、秘密を漏らすな、たかるなと、武士の時代にはなかった悪行の禁止が並ぶ。『上司も黙認すれば同罪で処断する』とあり、組織的な悪さもあったのだろう」(70頁)とあります。あいつら最初っからこんなだったわけです。今と何も変わっていません。民間の会社も大きくなると官僚化する上に「渡り」もあるので、今や日本中で同じタイプの小賢しい連中があらゆる組織の上の方で跳梁跋扈しています。
 最近はひとえにこの連載目当てにコンビニで週刊新潮を立ち読みするようにしていますが、それでも新刊が出たら買わないではいられないと思います。ほかの本もできるだけ手に入れて読んでおくつもりです。

(新潮社2007年1400円税別)

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2009年3月 2日 (月)

スディール・ヴェンカティッシュ『ヤバい社会学:一日だけのギャング・リーダー』

 アメリカのエスノメソドロジー社会学の流れは、ついにこんなに面白いノンフィクションを生み出すに至りました。映画化の話もあるそうですが、本書自体がすでに見事な構成ですから、そのままシナリオになりそうなくらいです。登場人物が実に生き生きと描かれていて、とても学者が書いたものとは思えません。
 それにしても、無法地帯のスラムにここまで入っていけたのは、ふつうの学者には無理です。著者は名前からもわかるようにインド系の移民ですからある程度入りやすかったのかもしれません。白人ならこうはいかないと思います。しかし、いずれにしても、あまり不自由のない中産階級の家庭に育った好奇心一杯の素直な性格がよかったのでしょう。これも才能でしょうね。
 この1990年代のシカゴの無法地帯では、救急車は呼んでも絶対に来ないし、警察はギャングと変わらずカツ上げにやってきたりはするため、ギャングよりも恐れられています。その中でギャングの中堅幹部や団地の自治会長が、住民の稼ぎの上前をハネながら地域一帯の安全を確保している様子は、なんだか原始社会の部族闘争のようです。
 ギャングの組織経営が大企業の経営とほとんど瓜二つの構造をしているということは、スティーヴン・レヴィットの『ヤバい経済学』にも出てきましたが、本書に出てくるギャングの縄張り争いやシマの獲得手法はアメリカの領土拡大=侵略手法とそっくりです。メキシコからテキサスやカリフォルニアを取り上げたり、ハワイを併合したのと同じことがギャングの世界でそれなりの正義感に基づいて行なわれています。やっぱアメリカですね。下々まで同じ構造をしていることは文化人類学的にも興味深いものがあります。

(東洋経済新報社2009年2200円+税)

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2009年3月 1日 (日)

高山正之『「モンスター新聞」が日本を滅ぼす』

 朝日をはじめ各紙がいかに事実をねじ曲げて報道しているかが、これでもかと証拠を示して書かれています。確かに、誰かが指摘してくれない限り、昨年のアメリカ下院議会でのマイク・ホンダ議員による慰安婦非難決議が、定足数をはるかに下回るたったの10人による「全会一致」で採択されたことなんか、ほとんどの人が知らないままで終わってしまいます。
 また、かつて三国軍事同盟を結んでいたはずのイタリアが戦後にいけしゃあしゃあと連合国の一員として日本から戦時賠償金をせしめていたというのも「へぇー」という話です。これって支払う側としては少しでも抵抗したんでしょうかね。
 また、フランクリン・ルーズベルトの露骨な人種差別的反日感情は書簡として残されてもいるわけですが、その通り政策として着実に実行されてきたことにはさらに驚かされます。
 著者はいつもながら複雑な歴史をコンパクトにまとめてわかりやすく書いてくれますので、本当に勉強になります。それにしても世界は改めて思うに悪人だらけです。その中で日本人がここまでお人好しで通ってきたのは幸運なことでもありますが、この行動パターンは急に改められるものでもないので、きっとこれからもこのまんまお人好しを続けていくことになるんでしょう。
 それでも多少は事実を抑えておく必要があるでしょうから、本書を読んだ上で、なおかつお人好しとしての覚悟を決めるのも悪くないかと思います。

(PHP研究所2008年1,200円税別)

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2009年2月27日 (金)

佐藤弘夫『偽書の精神史―神仏・異界と交流する中世』

 本書によれば、仏教がわが国に入ってきてほどなく本地垂迹説が生まれ、日本の神様の多くが仏陀やそれに近い存在の生まれ変わりになるのですが、そのあたりから人びとは異界の存在と直接に交信できると信じられるようになっていき、天台本覚論に初めてその旨が記されることになるようです。
そこから浄土真宗や日蓮宗が登場し、寺社を経由せずして直接悟りの世界への道が開けることになると、当時絶大な勢力を誇っていた仏教勢力は心中穏やかではありません。そうした鎌倉新仏教が迫害を受けた理由もよくわかります。迫害は信長の時代まで続きます。
 本書はこの時代の宗教意識の特徴を見事に説き明かしています。中世では人びとは異界と直接交信できると信じられており、いわばスピリチュアルだったわけです。美輪・江原のテレビ番組「オーラの泉」の世界は中世ではふつうのことだったようです。
 こうした異界との交信はしばしば夢の中で行なわれ、それが予言的な夢として語られたり、また、高貴な存在との交信がたとえば聖徳太子の著した「未来記」という偽書の形をとることになるわけです。現代人の目から見ると剽窃のような響きのある「偽書」とは、こうした精神史的背景の下に量産されたすぐれて中世的な現象なのだそうです。
 ふつう「精神史」というとあまりテーマが絞られない思想・文化史という感じしかしなかったのですが、本書は言葉が本来意味するとおりの精神史として成功しています。みんなが当たり前と思って疑わない信念もまた時代とともに変化し、廃れたりもしているわけですが、これを描き出すことができるのは並大抵の力量ではありません。お見事です。
 ところで、日本人は個人的にそれぞれが真理に到達できると信じているところがあるとは以前から感じていましたが、その大本の感覚はこの時代に形成されたのでしょうね。その意味でも天台本覚論にはいずれ取り組まなければならないと思います。

(講談社2002年1600円税別)

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2009年2月25日 (水)

小田垣雅也『キリスト教の歴史』

 見事な通史です。思想史中心ですが、歴史的なポイントももれなく書いてあり、コンパクトな本ながら事典としても使えます。だからといって、単なる網羅的な歴史年表ではなく、著者のキリスト教間がしっかり反映された個性的な本でもあります。
 特に、啓蒙主義以降の神学的思考はすべて無神論的だという指摘は大胆ですが、うまく的を射ていると思います。神と人という二元論的思考は、どうしても人間本意的となり無神論的とならざるをえない(183頁)という考え方はシェーファーなどとも共通していて、個人的にはしっくりくるところがあります。
 また、ギリシャ正教がこうした「ヨーロッパ的構図とは別の枠組みでヨーロッパ近代主義を批判し、それによってキリスト教に対して一つの示唆を与え、さらに東洋思想との対話の可能性すら暗示している」(237頁)という指摘にも共感させられました。東方教会の「一にしてすべて」すなわち「神は唯一であるからこそ多なのである」という神秘主義的理解には惹かれるものを感じます。こちらの方が神との直接的交信が可能になるのかもしれません。東洋的というのもわかる気がします。
 それから、カトリック教会が地動説の見直しをしたのが1980年のことで、それにともなうガリレオの名誉回復は1992年だったとは驚きでした。
 凝縮された記述のため、必ずしも読みやすくはありませんが、折に触れて読み返したくなる本です。

(講談社学術文庫1995年780円)

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2009年2月17日 (火)

佐藤弘夫『神国日本』

 日本の宗教史を考える上での必読書です。天皇制は本来決してナショナリズム的な自民族中心イデオロギーではなかったのですが、日本人の伝統的宗教意識の中心に位置してきたのも事実です。どうやら専門家ほどこの問題に取り組むのは難しいようで、このことを安易に語ってしまうと、森元首相の「日本は神の国」発言のようなものとして物議を醸すことにもなってしまいます。
 従来の通説では鎌倉時代の元寇をきっかけとして伊勢神道などの天皇中心的支配イデオロギーが生まれてきたとされてきたようですが、著者はそれ以前の平安時代に生まれた本地垂迹説思想のもつ普遍性に光を当て、実に興味深い議論を展開しています。
 私自身は本地垂迹説というのはいかにもとってつけたような理屈なので、単なるご都合主義の一種なのかと思っていましたが、著者によれば「現実社会の背後には時代や国境を越えて共通の真理が実在するという認識」(198頁)とみることができるということで、なるほど言われてみればそうでしょうね。普遍的な真理が意識されているからこそ、その「生まれ変わり」というものも存在するわけです。
 この思想が面白いのは、それによって、日本の伝統的思想をナショナリズムの中に閉じ込めずに、開かれたものとして検討しなおすことが可能になってくるところにあります。今日の「無宗教」的なわが国の宗教意識にも新たな光が射してくるような気がします。
 というわけで、著者によれば「神国思想は、一種の選民思想でありながら一見正反対な普遍主義への指向をも内包しつつ、さまざまに形を変えながら古代から現代までの歴史を生き延びてきた、世界的にもきわめて貴重な事例である」(217頁)ということになるわけです。そして、何よりその普遍主義的なところをうまく摘出してくれたのが本書なのでした。
 本書は文章の調子がちょっと重たくて、かなり苦心して書き上げられた様子がうかがわれます。「あとがき」によれば本書の内容が論文として発表された当初はまったく黙殺されていたそうですから、やはり学会というところはきっとかなりヘビーな空気が支配的なのでしょう。しかし、時代は少しずつ動いているようです。学会の重鎮のような人たちも徐々に鬼籍に入りますしね。いずれにしても、こうした本が新書として刊行されるのは、一般読者にとってはありがたい限りです。

(ちくま新書2006年720円+税)

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2009年2月14日 (土)

若林亜紀『サラダボウル化した日本』

 わが国がいかに外国人労働者に依存しているかがよーくわかる本です。
 著者はお役所世界の内部告発でデビューした人ですが、この手のルポルタージュにも見事な腕前を披露してます。いろんな人びとに突撃取材をしているところはかなりの行動力だと思います。東京の外国人セレブの奥様方の読書会なんて世界もあるんですね。
 不法滞在の労働者の生活がどんなものかも少しはうかがい知ることができるので、中国などから来て失踪した留学生たちはこんな生活をしているのかと偲ばれます。山形県の某短期大学なんか、えらい目にあっていましたね。失踪者を出すほうも責任を問われるので、大変です。
 本書で紹介されているように、全国でフィリピン人看護婦や介護士が重宝されているというのもわかる気がします。本当に明るい人たちですからね。何年か前に、まだ奉職先の大学にバスケットボール部があったとき(今は同好会です)、近くにある在日フィリピン人バスケットボールチームとよく練習試合をしましたが、チームが家族連れでやってきて、みんな本当に明るいお祭りのような雰囲気でゲームに興じていたのが印象的でした。愛知県で二位になったというだけあって、巧いし強かったです。ただ、約束の時間をいつも平気で2時間近く遅れてくるのには閉口しましたが。フィリピン時間ってあるんでしょうね。大学もまたメンバーが揃ってきたら、交流を再開したいものです。
 それはそうと、本書で何より驚いたのは、結局わが国の厚生労働省の役人または天下り先の機関が、いわゆる就学生や研修生を低賃金労働者として企業に紹介しては、手数料その他を搾取しているということで、この仕組みを恥ずかしげもなく残しているのは先進国ではわが国だけだということです。
 結局、これもお役所告発の本だったのですが、それにしてもえげつないことこの上ないですね。文部科学省と大学と留学生の関係も似たような構図ではありますが、ここまで非道ではありません。社会保険庁も相当でたらめですが、これには負けます。やくざ顔負けのやり口です。正直ぎょっとしました。
 こんなところでエリートコースに乗って「渡り」を繰り返すと「ミスター渡り」のようないやらしさ全開の顔になるんでしょうかね。それとも、もっともっと醜い顔になるんでしょうか。いずれにしても、そんな連中に囲繞されているのでしょうから、それほど悪人には見えない舛添大臣が気の毒になってきます。

(光文社2007年952円+税)

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2009年2月10日 (火)

内田魯庵『新編 思い出す人々』

 以前途中まで読んでいて、長い間そのままにしていたら、どこまで読んだかわからなくなったので、結局最初から読んでしまいました。魯庵の文章はリズムのある名文なので、読むのは苦痛ではありませんが、山田美妙のところまでの200ページ弱は読んでいたことがわかると、ちょっと脱力感も伴ってきました。いったい何やってんだろう。
 魯庵は人間観察に長け、人物の評価や芸術の鑑識眼にも優れていたので、明治の文豪や芸術家たちの生き方が実に手に取るようにわかります。尾崎紅葉の面白さや淡島椿岳の奇才振りなどは魯庵の筆以外ではこれほどうまく描き出されなかったと思います。鷗外や漱石の人となりも、さもありなんという感じです。
 そして何と言っても一番多くのページが割かれているのが二葉亭のことで、その友情の深さには心を打たれます。この思想と才能がちぐはぐな愛すべき文人を著者がいかに暖かい目で見守っていたかということが偲ばれて感動的です。
 
 それにしても、作家というのはやはり面白い人種です。昔、高校時代の国語の教師が、どんなにくだらないものを書いているような作家でも実はとんでもなく頭がいいんだと言っていましたが、そこが言の葉に憑かれた人たちの面白いところです。
 先日もハンガリーの作家のエステルハージの講演を聴いて、その思いを深くしました。学者は分析したり批評したりするほど創作の現場にある言の葉から遠ざかってしまいがちですが、やはり作家はその点で基本をはずしていませんし、作家同士でも共通の完成というものがあるようです。エステルハージの言葉の中に「ハンガリーの作家たちはカフカを高く評価している。ただしルカーチを除いて」というのがあって、笑ってしまいました。ま、ルカーチなら仕方ありません。作家じゃないですしね。
 そのエステルハージは「私が言葉を選ぶのではなく、言葉が私を選ぶのだ」と言います。私が言葉を選び、支配し尽くしていると思っている人は、権力的だったり紋切り型だったりする言葉に支配されているとも言えるでしょう。作家はある意味でシャーマンなので、その意識せざる言葉の力こそが人を動かすのだろうと思います。その言葉の引力圏に文学が(あるいは演劇も劇的なるものとして)存在しているのです。
 そして、ほかならぬこの点でこそ学者という人種は、わかったような口をききながら、実は限りなく感性が鈍かったりするので(しばしば知性も鈍いですが)、くれぐれも用心しなければならないと思います。

(紅野敏郎編岩波文庫1994年720円)

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2009年2月 8日 (日)

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか3』

 著者のこのシリーズの本も3冊目です。前2冊ではIPCCのデータをさし当たり尊重して書かれていましたが、本書はそこも徹底して追求しています。さらに、いい加減な報道を繰り返すNHKも槍玉にあがっています。
 確かに最近のNHKはますます環境問題に熱心ですが、その姿勢は私もちょっとひどいなとは思っていました。ま、いろいろな圧力もあるんでしょうが、カルト的環境保護団体みたいになるのはさすがにいただけません。
 著者の議論はしっかり実証的データに基づいているので説得力があります。科学者として当たり前のことですが、その当たり前のことをしないか、あるいはできない人たちがたくさんいることもわかります。これに世におもねるマスコミが加わって、世間の「空気」を作っていくのは、わが国の悪しき風習です。
 ふつうはこの空気に逆らうことは社会的には死を意味しますが、この思いっきり空気に逆らった本シリーズが、これで3冊目を数えるということは、わが国の良識が死んでいないことを意味しています。慶賀すべきことです。
 本書でとりわけ新たに感心させられたのは、森林利用率についてのデータです。ちゃんと利用しない限り旱魃財などが無駄に捨てられているというのが、この森林利用率ですが、日本は40パーセントです。フィンランドなんかはかつて90パーセントでしたが、今は自然環境保護ということで70パーセントに下がっているそうです。バカな話ですが、わが国はもっと情けないというより、お話にならない状況です。以前から林業をうまく立て直す必要があると思っていましたが、いいデータを教えてくれました。
 また、家電リサイクルのインチキについても開いた口がふさがりません。高い金取っておいて、国と企業がらみの絵に描いたようなインチキです。本書はこのシリーズの決定版ですが、前二著を読んでい人でも、本書をまず読んでみたらいいと思います。

(洋泉社2008年952円+税)

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2009年2月 7日 (土)

保坂弘司『大鏡 全現代語訳』

 今週はこの本にかかりきりでした。付録の家系図を見ながら読み進めるのは時間がかかりましたが、実に面白い本です。権力をめぐるさまざまな人びとの立ち居振る舞いは、当時も今もおそらく何も変わっていないようです。各官庁における事務次官ポストをめぐる争いなんか、これと同じではないでしょうか。ただ、当時は和歌を詠んだりするところが風流で、美意識の点で独特だったことがわかります。美意識が道徳と権力の裏づけになっているところがあるのが面白いと思います。
 今の官僚は醜いばかりで、それが麻生首相の言う「下々の皆様」にもいきわたってしまって、民間の会社であっても権力的になればなるほど官僚的で醜くなってしまいます。ひとたび特権階級に上ったと思うと、人はその傲慢さが顔つきにはっきりと表れるのを、気がついていないのは本人ばかりというありさまです。これって、周囲にはバレてるんですけどね。
 そういえば、私の入学した小学校の同級生で、東大法学部を卒業し某省のエリートコースを邁進中のT君は、実に綺麗な顔立ちの少年でしたが、ひょっとして事務次官になってテレビでお顔を拝見するようなことがあるかもしれません。当時の美少年はどんな感じになっているのでしょう。見たくないような見たいような気分です。
 こうした事務次官レースで敗れた人は、当時の貴族のように悔しさのあまり、指が手のひらを突き破って甲に出てしまうほどの思いをしているのでしょうか。それともその精神的代償を求めるかのように「渡り」を繰り返しているのでしょうか。
 藤原氏では特に道長の兄弟たちは美形揃いだったようで、本人も光源氏のモデルとされるだけのことはあったのでしょう。終始礼賛されています。ただ、美しく賢く人望があって強運の持ち主ということで絶賛すればするほど、作者は本当は褒め殺ししているのではないかとも感じられてきます。兄弟たちがバタバタと亡くなって棚ボタのように道長が権力を手中に収めるというのは、毒殺でもしたのではないかとつい勘繰ってしまいます。そして、読者にそう思わせることが作者の真の狙いだったりすることはないでしょうか。
 源氏物語に出てくる権力闘争も、史実に題材をとったものが少なくなかったことが、この大鏡を読んでよくわかりました。今度は権力闘争という視点から、源氏物語全巻通読にチャレンジしたいものです。

(講談社学術文庫1981年1500円税別)

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2009年1月30日 (金)

髙山正之『変見自在 ジョージ・ブッシュが日本を救った』

 本書にも驚かされっぱなしでした。イギリスがセポイの反乱の収拾に用いたダムダム弾の残酷さや、アメリカでの原爆の評価は欧米人の価値観を象徴的に表しています。世界は悪人だらけなのに、話せばわかる善人ばかりと信じているのが朝日岩波のインテリたちで、あんまり冗談が過ぎるので、最近は長年の読者ですらだんだん眉につばつけるようになってきています。
 本書はそのあたりのマスコミの嘘をえぐるように暴き出しているので、朝日岩波社内の守旧勢力からはおそらく蛇蝎のように嫌われていることでしょう。しかし、金正日がアメリカの辣腕弁護士バリー・フィッシャーを平壌に呼んだということを最も恐れているのが朝日新聞だというのは確かなことで、そのあたりの落とし前をつける気はやはりないでしょうね。でも、いくら苦しい弁解で取り繕っても、9万人の帰国者たちはまだ相当数が生き残っています。賠償請求が来たときには逃れられないでしょう。
 インチキなインテリ連中も後藤とか古田とか実名で登場するので便利です。学者生命を犠牲にして数字をでっち上げてまでして新聞社に忠誠を尽くさなくてもと思いますが、彼らはすでに狂信の域に達しているようです。動機は結構世俗的なだったりもしますが。
 ところで、韓国が食わせ者の金大中政権当時、核兵器開発を目的としたウラン濃縮およびぷるとにうむ抽出実験をやっていたというニュースを朝日がうろたえながら伝えていたのも笑えますが、社内はきっと大真面目だったはずです。
 本署の凝縮された記述の中で、個人的にはゾロアスター教の聖典アベスタの紹介に興味を覚えました。善悪二神論といえばマニ教もそうでしたが、ゾロアスター教はもっと古いのでしたね。処女か痛いからメシアが誕生し、1000年王国が栄え、最後の審判があるというのは確かに原型として要素をすべて備えているようです。そして、その善悪二神論の枠組みを無理やり一神教にしたとき起きてくる矛盾は確かに聖書の中にも見出せます。ヨブ記や悪魔の記述はそうですね。山本七平が晩年に書いた小林秀雄論で、このことについてほのめかしていて気にはなっていたのですが、いずれ改めて自分で調べてみます。

(新潮社2008年1400円税別)

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2009年1月29日 (木)

髙山正之『変見自在 スーチー女史は善人か』

 なるほどそうだったのか、と腑に落ちることが沢山書かれています。山本夏彦が亡くなり、池田晶子も亡くなったため、コンビニで週刊新潮を立ち読みする習慣もなくなって久しかったのですが、こんな連載があったとはねー。根強いファンがいるのもうなずけます。
 著者は国際情勢のややこしい話も連載枠の限られた枚数の中で手際よくまとめてくれていますので、ミャンマーやベトナム、カンボジア、中国、中東の紛争地域などの歴史のポイントがすんなり呑み込めます。このあたりの手際のよさはさすがジャーナリストです。沢山本を読んでも学者みたいにひけらかさずに、短い表現に凝縮してまとめてしまう姿勢が爽やかです。
 それにしても、アメリカの議会での公聴会報告書なども読みこなす語学力は半端ではありません。その広い情報源に、実際に著者が取材で拾い集めた驚くべき話も加わって、説得力が倍増します。以下に数字だけでも驚かされた例を少し挙げてみます。

・第二次大戦時にアメリカ軍はフランスで1万2千人の命を失っている。
・マッカーサーは戦後の脱脂粉乳代として5億ドルを取り立てた。
・朝鮮戦争でのアメリカ軍の支社は5万4千人。
・文科省の元役人をトップに据えた公益法人「日本学会事務センター」は設立後ただちに自社ビル建設をはじめ10億円をつぎ込み、負債16億円で破産してしまった。責任は不問。
天下り理事長の退職金もそのまま支給。
・中国のHIV患者は84万人。日本は1万2千人。
・オランダはインドネシアの独立運動の際に80万人を殺し、インフラの引渡し代償として60億ドルを請求した。スカルノはそれを呑んだ。
・作家のアンドレ・マルローはカンボジアから観音像とレリーフを持ち出し、ニューヨークに送って5万ドルで売り飛ばすつもりだった(が、捕まった)。
・アメリカでは妻を暴力沙汰で病院送りにしたケースが年間400万件あり、殺された妻が年間3千600人にのぼる。また、殺される手前で反撃して逆に夫を殺すケースが年間500件ある。
・黒死病がヨーロッパで流行ったとき、ドイツでは「ユダヤ人が毒をまいた」という噂が立って、マインツで1万2千人が焼き殺されたほか、各地で虐殺が行なわれた。
・オーストラリアにいた600万人のアボリジニは虐殺された結果、現在30万人が生き残っている。
・ホメイニ時代のイランでは、女性は化粧が濃いというだけで10回から20回の鞭打ちの刑を受けていた。
・ペルーのセンデロ・ルミノソはフジモリ氏に滅ぼされるまで3万人を殺し、600人の子供を誘拐していた。
・インドではこの20年間続けて女児の出生率が男児より10%以上も下回っている。(少なくとも毎年50万人の女児が堕胎されている。)

 とまあ、ちょっと挙げ過ぎたかもしれませんが、へぇーって感じでしょう。こうした数字だけでも踏まえて国際ニュースを見ると、理解の仕方も変わってくると思います。
 朝日岩波とその提灯持ち知識人は昔から外国を理想化し、わが国を侮蔑することしばしですが、このコラムの読者のほうが、この世に天国はないということを承知していることでしょう。そして、提灯持ち知識人の胡散臭さもしっかりわかっていると思います。
 ジャーナリスト畏るべしです。

(新潮社2008年1400円+税別)

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2009年1月27日 (火)

小田垣雅也『友あり 二重性の神学をめぐって』

 知り合いのとある編集者からいただいた本です。ありがたいことです。だからというわけではありませんが、著者の人柄のよさががにじみ出てくるような本です。読んでいくと著者がもう50年も難聴と鬱に苦しみ、癌の手術も受けたりと、かなり不自由な老年を暮らしていることがわかります。本書は日曜ごとの自宅での集会における説教を基に書かれたものですが、著者の日々の思索と気づきがきっちりと積み重なって、静かな落ち着きをたたえた味わいとなっています。
 著者の言う二重性とは人間が生と死をはじめとする数々の矛盾の中に生きる存在だということと、それを迷いながらもそのまま受け入れて生きていく心構えのことのようです。弁証法的な思索ですが、ヘーゲルではなくパウロのそれに近いと思います。パウロの「私は弱いときにこそ強い」という言葉は「弱さの強さ」につながる思想のおおもとでもあったことを本書によって教えられました。
 この二重性は次の様にも説明されます。
「人間は個であって全体ではないし、生きているのは永遠にくらべれば一瞬であろう。個には全体は見えないし、瞬間も永遠を測ることはできない。だから私たちは個や瞬間を大事に生きるほかはない。しかしこのことは、逆に言えば、人間が全体や永遠という、自分にとってもっとも基盤となるものを垣間見るのは、個や一瞬のなか以外にはないということだ。個や瞬間があるから全体や永遠もある。逆も真である。個や一瞬と二重性的に全体や永遠を理解するのである」(251-252頁)
 こういう考え方は日本人的には自然に理解できるところがあると思います。外国人のほうがこれを学んでくれると、ストレートに戦闘的な今日の世界は多少なりとも平和になる気がします。それにしても、比較文化論の授業でキリスト教のことを解説していても感じるのですが、キリスト教が文明史的に引き起こしてきた問題は、その解決のヒントもまたキリスト教の中にあるので、キリスト者こそキリストを常に虚心坦懐に学ぶべきなんでしょうね。
 著者も自分を徹底的に見つめて、その矛盾を克服するというよりは、それと共存しようとしているようです。これはいい考えです。重荷をたくさんしょっていたとしても、生きていくのが楽になる思想です。

(日本出版政策センター2007年1429円+税)

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2009年1月24日 (土)

立川談春『赤めだか』

 いい本です。立川談志の家で買ってきた金魚がなかなか大きくならないので、「こいつは金魚じゃねえや、赤いめだかだ」というところから書名がとられています。もちろん金魚ではなくて、なかなか一人前にならない弟子たちと師匠の、可笑しいようなぞっとするような、そしてジーンとくる話が見事な文章で綴られています。いい話が満載です。そして、文章めちゃウマです。噺家だけにツボを心得ているのかもしれませんが、この描写力は作家顔負けです。
 談春といっても実は落語は聴いたことがないのですが、立川ボーイズの片割れと言われてみると、少し記憶に残っています。CDが出ているようなので、いずれ落語も聴いてみます。
 それにしても、芸能の世界の師弟関係はすごいですね。談志の場合はほとんど内弟子をとらないので、みんな何らかの形で糊口をしのぎながら師匠の世話をし、前座をつとめるというハードワークをこなしています。談春は高校中退で新聞配達をしながら入門し、魚河岸でも修行だということで1年働いたりしていました。
 談志が天才でかなりの変人だということもわかりますが、その師匠に惹かれて入門する弟子たちも相当なものです。兄弟子も弟弟子たちの変人ぶりも活写されています。そして、そこにはしっかり愛が存在しています。こうした師弟関係は今後の日本からはどんどんなくなっていくことでしょうから、そう遠くない将来に本書は民俗学的資料としての価値も持つことになるかもしれません。
 それはともかく、本書がよく売れているのも当然という気がします。帯に高田文夫が「直木賞でももらっとけ」という彼らしい言葉を寄せていますが、本当にそう思います。

(扶桑社2008年1333円+税)

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2009年1月22日 (木)

里見弴『文章の話』

 「文は人なり」ということを実にたくみにわかりやすく述べた名著です。子ども向けに書かれた本ですが、内容は年齢を問いません。高度です。子どもを見くびっていません。
 「文章は誰にでも書けるが、えらくならないかぎり、いい文章は書けない」(217頁)と言って、その主眼は善い生き方をする点に置いています。「えらい」というのはもちろん立身出世ではありません。文章読本は人生読本でもあるというところが、そのとおりですが、その間にある事情はと思想が見事に表現されています。
 面白いのは「自分で自分につくうそ」(77頁)によって始末の悪い馬鹿になるというところで、そうした馬鹿はずいぶん立身出世をしている者も多いのですが、「ただ。情けないことには、永もちがしません。その身一代、死ぬまで、どうやら持ちこたえさせた者はあるでしょうけれど、棺に蓋をしたあと、年々歳々、だんだん箔がはげ、生地を現して来る、―そんな例は、歴史の時間に、少し注意して聞いていれば、いくらでもみつかるでしょう」(同頁)。
 軍人が威張っていた当時も、官僚がひそかに大衆を見下している今も同じですね。棺に入る前にばれ始める人も少なくありません。見る人が見れば、わかっているんですが、大学の先生になったりすると、笑えるくらい威張る人も出てきます。ま、そもそも威張る人はその時点ですでにダメです。こうなると周囲の人に自分の馬鹿さを堂々とお披露目していることになりますが、気がつかないのは本人だけのようです。そういえば、この種の人は、ときには夫婦そろって馬鹿と言うこともありますね。
 この点で著者の文章は威張る感じも厭味な感じもなくて、しかし、言いたいことを言いえて妙です。文は人なりを地で行っているところがあります。このような文章こそ実は哲学に向いているのではないかと思います。

 ところで、その昔、里見弴は友人の志賀直哉と二人で島根県の松江にしばらく逗留し自炊生活をしていたことがあります。そのときの様子を書いた随筆が国語の教科書に載っていたのが思い出されます。金盥を鍋代わりにしてすき焼きを作ったが、翌朝顔を洗おうとしたとき初めて汚いなあと思ったとか、印象に残る描写がありました。あれはどちらの作家の文章だったんでしょうか。
 当時私は松江の高校に通っていたのですが、担任の国語の先生から、当時宍道湖に浮かぶ小島で相撲を取って遊んだりしていたこの二人の作家が、怪しい二人組につき用心するようにと地方紙に紹介されたという地元ならではの話を聞かされました。
 懐かしい思い出です。先生もお元気のようです。いずれ同窓会にも顔を出すつもりです。

(岩波文庫1993年520円)

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2009年1月21日 (水)

中川久定編『林達夫評論集』

 いろんな本をたくさん読んで、その中の微妙な通奏低音を聞き分けては、ユニークな解釈を打ち出すのが著者の手法で、その鮮やかな手並みはなかなか真似のできるものではありません。書物の鑑識眼が鋭く、ケネス・バークやホッケ、バフチンといった才能あふれる書き手を「知識人なら当然読みこなす本でしょ」という感じでわが国に紹介したおそらく最初の人です。一種の読書指南役として重宝された側面もあったと思います。
 著者のこの鮮やかな語り口が多くの人々を魅了したことは事実で、私の先生もその一人でしたが、実は私は肌に合いません。不肖の弟子たるゆえんです。なぜなのかといろいろと考えてみるに、著者のお勉強ぶりは見事で学ぶべきだと思うのですが、書き方にストレートさがないのが気になるのです。これはどこか本人の性格の弱さをあらわしているのではないでしょうか。西洋思想の深いところにまで降りていけないような気がします。知性の演劇的構造についてもセンスのいいことが述べられていますが、ただ、本当の舞台に足繁く通って考察したというわけではないという気がします。
 驚いたのは「規模こそ小さいけれど我々思想家もまた・・・」(174頁)という表現で、これでも本人は思想家のつもりだったんですね。優秀な文芸批評家ならともかく、思想家を自認するなら、もっと自身の文体で考えるところがないとまずいんじゃないかというのが正直な感想です。「戦略」ということにもこだわってのこの語り口でしょうが、そんなにすべてを見通せると思っているような人は、思想家ではなくて戦略家でしょう。それでいて自分の仕掛けた罠にはまっています。
 このあいだ読んだ新渡戸稲造やあるいは内村鑑三なんかは、本人としてはほとんど何の戦略も弄せずして、驚くべき思想を述べます。その語り口はこちらも身を正さなければという気になるくらいストレートです。
 林達夫が言っていることには教えられることも多く、勉強になsうりまし、今の60歳以上の知識人の多くが影響を受けたこともよくわかりますが、個人的にはこの語り口の違和感だけはいかんともしがたいものがあります。

(岩波文庫1982年570円税込)

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2009年1月14日 (水)

鈴木範久編『新渡戸稲造論集』

 この連休で、ようやく本の原稿を脱稿しました。普段研修日にも授業や事務仕事で出勤するので、連休はありがたいです。昔専門学校に勤めていたときのほうが、はっきり言って時間がありました。ほんとに名ばかり短大教員です。まだ翻訳の仕事が残っていますが、いずれにしてもこれで電車の中の仕事が一段落しましたので、多少本が読めると思います。

 さて本書は飾り気のないざっくばらんな書き方ですが、ヨーロッパの根本的な思想と歴史がしっかり把握されていて啓発されます。親しみやすい語り口ですが、内容は決して軽薄ではありません。ときにはっとさせられます。
 特に面白かったのは、イギリス人は自由を人生や生活と経理はなせないものと捉えているのに対して、これを輸入したフランス人は自由の活用法をほとんど知らないと述べているところです。
 「英吉利ではこれはライフであるから、人生の木は常に緑なり、自由というものも緑の木の如く栄えて生き生きしている。仏蘭西は説だけ持って来て、ライフそのものを忘れて来た。仏蘭西革命において、かのマダム・ローランドがギロチンの上から叫んだように、ああ自由よ自由よ、汝の名において、幾何の血が流れたであろうか、といって嘆かしめた。そのはずである。ライフとセオリーとをまだ消化し切れなかったのである」(231頁)。
 なんとなく自由といえばフランス革命以来フランスの専売特許みたいに思われがちですが、これがイギリスからの輸入思想だったということは、言われてみればそのとおりです。フランス革命の100年以上前から自由をめぐって争ってきたのがイギリス人ですもんね。そして、輸入思想が簡単には身につかないことは、わが国だけの話ではないようです。確かに昔行ったときに感じたのですが、パリよりロンドンのほうが自由な雰囲気を感じたのも、そのあたりに淵源があったのかもしれません。
 他にも鋭い指摘がたくさんあります。実感としてこんなにいろいろなことが分かっていて、さらりと語ることができる人は当時もそうだったでしょうが、今の知識人でもほとんどいないのではないかと思います。

(岩波文庫2007年800円+税)

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2009年1月 8日 (木)

渡部昇一『生きがい』

 年末年始と仕事に追われてなかなか更新できませんでしたが、何とか一段落といったところです。しばしば電車の中でこの原稿を書いているのですが、他の締め切りに追われると、どうしても滞りがちになります。
 本を読むのも原稿を書くのも往復4時間の通勤電車の中なので、休みが続くとこれまた更新が滞るという具合です。本当は個室の研究室にこもってこういう作業ができるような環境だといいのですが、まあ、教務事務に日々明け暮れる「名ばかり教員」なので、これについてはあきらめています。
 しかし、何はともあれ無事年も明け、冬休みも終わりましたので、これからぼちぼち更新していきます。
 さて、本書ですが、1972年の本で、講談社の学術文庫版でも出されていた『「人間らしさ」の構造』の改題版でした。私は18歳のときにこれを読んだ記憶がありますから、ずいぶん久しぶりです。その後ずいぶん著者の本を読みましたが、今にして思えば本書は著者が後の著書で展開したさまざまなメッセージがいろいろと凝縮されて入っています。ちょっと間違うと優生学的な議論になりそうな危なっかしい議論がところどころ登場します。危なっかしいではすまなかった大西巨人との議論が思い起こされます。フェミニズムからの突っ込みどころも満載でしょうけれど、その筋の人はほとんどあきれて相手にしていないのかもしれません。
 この点で、ドイツ文化の影響を受けた人がばしば人種や優生学を理由にしたとんでもないことを口走るような気がするのは、私の思い込みかもしれませんが、どうでしょうか。
 本書では自分の内面の声に耳を傾けて、周りの世界に左右されない創造的な人生を送る方法と助言、そしてさまざまな先人のエピソードが満載です。何せ古今東西の本を読み漁っている人ですから、それはそれとしてなかなか興味深い話がありました。
 その中でも、自分の内面の価値基準に従って人生を送る人にとっては、性格の構造がデモクラティックになるというのは、面白い指摘だと思いました。著者は近代的デモクラシーがイギリスのジェントルマンを中心に発達してきたという史実を指摘していますが、なるほどそういう見方にも一理ありそうです。

(ワック株式会社2004年905円+税)

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2008年12月26日 (金)

長谷川慶太郎『2009年 長谷川慶太郎の大局を読む』

 年末はいつもこのシリーズの最新刊を読むことにしています。世界経済の大局を読めば、アメリカのサブプライム問題もすでに終わっていて、金融機関は回復しつつあり、何のかんのと言ってもドルは強く、世界経済を牽引し続けるだろうとのことです。何という明るい見通しでしょう。
 また、中国はインフレとそれに伴う政治危機が迫っているが、わが国は鉄鋼業や土木建設業などの「重厚長大産業」が、国内のみならず、国外でのインフラ整備の必要から好調を維持するだろうとのことです。
 なお、トヨタの不調はすでにお見通しで、さすがです。自動車は常にモデルチェンジを強いられる「軽薄短小」を代表する商品だからだそうです。消費者の購買意欲を満たす製品を常に提供し続けなければならず、為替や原材料高などの経営環境の変化をもろにかぶってしまう宿命にあるからです。
 本書では世界経済を支える銀行引受手形(BA)の仕組みがわかりやすく解説されていて(57-58頁)勉強になりました。BA市場でドル建てで決済できない国は、リビアや北朝鮮のように、国際貿易の市場から閉め出されるというのもうなずけます。
 また、2006年にアメリカの公定歩合が引き上げられてもドル高になるという妙な出来事の要因が、日本がドルを積極的に買い続けたことにあるという指摘も納得できます。日本のドル買いの理由については触れられていませんが、著者は書いていないだけその事情はわかっていることでしょう。トヨタ車がアメリカで売れたはずです。
 今は逆の目が出てしまったわけでしょうけど、結構えげつなく政治と経済が結びついていることもわかります。でもまあ、いずれにしても車は不安定な産業だということがよくわかりました。

(フォレスト出版2008年1500円+税)

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2008年12月24日 (水)

養老孟司『超バカの壁』

 どこまでも論理的になれるのも人間の脳の働きの特徴ですが、著者は実際にはこれまでの著書で一貫して、割り切れないものこそが重要だということを繰り返し述べています。著者の他の本の題名に『唯脳論』というのがあるため、世間は彼を論理主義者だととらえる向きがあるようですが、誤解です。読めばわかるのですが、読まないのが世間ですから仕方ないのかもしれません。
 脳が暴走すると論理主義や原理主義になってしまうわけで、その危険をこれでもかというほど論じているのが著者です。ただそのことを言うためには論理で行けるところまでは行かなくてはなりません。論理で攻めても割り切れずに残っているところは、実は大変厄介でかつ面白いことなのですが、そのことが浮かび上がるように書くのは、半端にものを考えていてはできない技です。
 しかし、それにもかかわらず著者のメッセージが伝わりにくいのは、世間のいたるところに論理主義や原理主義の種が蒔かれてはちょくちょく発芽しているからでしょう。幸いなことに戦後60年の間は、そうして発芽したものもあまり大きく成長することはありませんでした。今後はわかりませんけどね。
 それで、著者の本を作っているスタッフの人たちは、そのことも含めて著者の本と世間との関係がよーくわかっているので、ちょっと共犯者っぽく、楽しそうに編集しているのではないかと想像します。今回は意外に売れたねとか、もうちょっといけるはずだけど、なんて言いながら、競馬の予想でもするような感じで仕事ができるとしたら、楽しいでしょう。もちろん、それもこれも基本的に売れる本でなければ始まりませんが。
 というのはまあ単なる妄想ですが、本書は著者が本音で語っている分だけ、『バカの壁』ほどには売れなかったかもしれません。古本屋にもあまり出ていませんから。でも、読んで損はありません。面白かったです。

(新潮新書2006年680円+税)

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2008年12月23日 (火)

井筒俊彦『イスラーム生誕』

 著者が若いころに出版した『マホメット』と、そのほぼ30年後に出された『イスラームとは何か』が、それぞれ第一部、二部として合本になったものが本書です。ネット書店で注文した講談社学術文庫の『マホメット』は本書に含まれていました。一瞬損したかと思いましたが、解説の詳細さという点からすると学術文庫版も決して無駄ではありませんでした。
 それはそれとして、本書の第一部の情熱的な語り口は人を動かすところがあります。若さがこのように出てくるのだったら歓迎です。第二部も確かに若くはないにしても、情熱的な点では変わらないものを感じさせてくれます。著者はおそらくこういう芸術家的な「熱さ」を持っている人だからこそ、あれだけの仕事ができたのでしょうね。
 本書ではイスラム教成立以前のかの地の文化(ジャーヒリーヤ)との闘いの中からイスラム教が形成されてきたことが特によく分かるように書かれています。その後のユダヤ教、次いでキリスト教との闘いと同じかそれ以上の比重を、このジャージリーヤとの闘いに置いているのが印象的でした。
 特に第二部では原典の文献をきっちりと読み込むことを通じてこのことが論証されているので、説得力があります。こういう風に文献に当たって歴史を再構築する手法は見事です。脱構築とかいう前に具体的研究としてあっさりやってしまえるところが、デリダなんかが著者を深く尊敬していた理由でしょう。
 宗教の比較文献学的アプローチは、良くも悪くも「無宗教的な」日本人の得意技でもあります。宗教的空間の中にいると簡単にはできません。下手なことを言うと殺されかねないからです。しかし、わが国ではこれを江戸時代の富永仲基がすでにやってくれています。彼の感覚はすでに現代日本人と変わらないように見えます。ある意味でこれは日本文化の伝統と言えるのかもしれません。

(中公文庫1990年762円+税)

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2008年12月20日 (土)

吉本隆明『僕ならこう考える―こころを癒す5つのヒント』

 吉本隆明流人生相談みたいな本です。全編良い感じの空気が流れています。副題に「こころを癒す」とあるのもうなずけます。こういう普通のおじさん的なところは親しみがわきます。読んでいくうちに本書を読むのが二度目だったことに気がつきましたが、えい、ままよと読んでしまいました。
 本書では著者が編集者から投げかけられる質問に、かなり苦心して答えていることが分かりますが、そこがなかなか面白いところです。しばしばほとんど根拠の無いようなアイデアが開陳されていて、それが新鮮です。ファンにとってはこたえられない魅力的な本に仕上がっています。
 人間の性格は1才までの親子関係によって決まってくるなんてのは、著者本人には確信があっても、一般的な説得力はないかもしれません。でも、それでいいような気がしてくるのが吉本流です。もともと直感の人ですから、論理を素っ飛ばすところがありますが、ここまで飛ばすといっそ快感です。
 下部構造が上部構造を規定するというマルクスの考え方は、マルクスが晩年になって体がいうことをきかなくなったことから思いついたことなのではないかという推測(182頁)などは、面白いと思います。
 いずれにしても、こういう人生相談的なことに答えることで、著者の思想がマルクスとフロイトをもとに組み立てられていることがよく分かります。なお、フロイトについては三浦つとむによる唯物論的なフロイト読みの影響が感じられます。その三浦つとむについても言及されていますが、昔結構読んだ記憶がよみがえってきて懐かしかったです。今読み返す気はしませんが、ユニークな唯物論者でした。
 本書で紹介されている太宰の『津軽』は読んでみたくなりました。きょうび文庫で手に入りますかね。

(青春出版社1997年1400円+税)

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2008年12月19日 (金)

倉橋透・小林正宏『サブプライム問題の正しい考え方』

 信用のない債権を証券化して販売することで、世界中にインチキをばらまいた手法が正確に描き出されています。昨年からの一連の事態を事実に即してしっかり理解したい人にとっては必読書だろうと思います。
 ただ、書き方があっさりしているので、ちょっと記憶に残りにくい部分もあります。真面目な良い本の宿命かもしれません。
 わが国の住宅ローンのことについても述べてあり、やはり、この種の長期ローンは固定金利でなくては危険だという指摘がなされていて、なるほどと思わされます。あのアメリカですら固定金利が一般的だとのことですから、心配になってきます。自分のうちのローンは何だったかなあ。ちょっと気になるところですが、怖くて家内にはまだ事実を確認していません。固定金利のはずなんですが、違ったらいろいろと対策を考えた方が良さそうです。
 わが国民はまだまだ人が良すぎて政府を信じすぎるきらいがありそうです。お上が好きですもんね、結局。舶来品も昔から好きですから、明治時代に国家主導で西洋文明が入ってきたときにはさぞかしウケたことでしょう。この傾向は表面的な文物に限られたものだと思っているうちに、日本的なものというのも見えにくくなってしまいましたが、外圧に右往左往するところだけは一貫しているようです。

(中公新書2008年740円+税)

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2008年12月18日 (木)

木村剛『投資戦略の発想法2008』

 投資なんて自分には縁がないと思っていましたが、今日のわが国の政治・経済状況を見ていると、だんだんとそんなことは言っていられない世の中になってきているような気がしてきます。かつて邱永漢氏が言っていたように、自分が働くばかりではなく、お金に働いてもらう=投資するというのも考えるべきことかもしれません。
 この点で、本書は実にまっとうな投資の指南書です。なにせ、本書の初めの半分近くが節約と生活防衛費としての貯蓄のすすめだからです。これができないと投資はできないと言われるてみと、なるほどその通りです。
 投資はギャンブルではいけないというのも著者の一貫した主張で、資本主義経済の本質をつかんでいれば確かにそう言えると思います。著者によると、資本主義とは社会全体が拡大再生産を予定し、それに向けて努力を続けるというあり方をしていて、その動因となっているのが飽くなき人間の欲望というわけです。そのため、資本主義経済においては、供給と需要が拡大しながら均衡していくことになるとのことです(157頁)。
 したがって、資本主義社会は資本を最も効率的に使う人を賞賛し、賞賛の裏打ちとして、対価として資本の価値を上げることを社会全体が要請していると言います。「資本家が常にハッピーな状態であり続け、経済全体がつねにプラスになり続けていかないと、資本主義経済はうまく回っていきません」(同頁)。
 資本家がニコニコしているなんて許し難いと嫉妬する向きもあるかもしれませんが、社会全体が豊かになると言うことは投資がトータルにみて必ず儲かるということでもあります。だったらみんな資本家になってニコニコしましょうというのが本書の主張です。
 著者は株式投資についても、推奨銘柄なんかを一切述べたりせずに、これはと思う20銘柄くらいの株を分散して30年保有すると、年平均株価収益率は12%近い高利回りになると言います。なるほど。
 私もさしあたり投資はしなくても、節約と貯金くらいはして生活防衛費を2年分くらいは作っておこうかという気になりました。このご時世ですから、社会保険が破綻し、職場がなくなる前にやはりこうした財テクを真剣に考えておくべきなのでしょうね。
 大変だなあ。家内と相談しなきゃ。

(ナレッジフォア2007年1,800円+税)

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2008年12月13日 (土)

リチャード・フロリダ『クリエイティブ資本論』

 クリエイティブな都市は多種多様な人びとと文化を受け入れる場所であり、最近ではオタクが集まるようなところがやっぱり元気がいい街になっています。著者は、人間の創造性を支え、これを育むような環境をいろいろと分析していますが、センセーショナルに受け取られたのは、都市のイノベーション指数やハイテク指数とゲイ指数が密接に関係しており「ゲイ指数からハイテク産業の集中度だけでなく、その成長も予測できる」と述べている点です。
 もちろんこれは、「ゲイのコミュニティを歓迎する場所は他のどんな種類の人間も受け入れる」という意味の指標なのですが、アメリカでは一部で相当反感を買ったようです。しかし、これは日本だったら、クリエイティブでゲイの多い職場なんて珍しくないので、「あ、そう。うん確かに」って感じで当然のように受け入れてもらえる議論だと思います。
 面白いのは、親ゲイ的な街には安心だからという理由でクリエイティブな女性労働者も集まって来やすいという点で、いろんな効果があるんだなと感心させられました。 本書では大学もクリエイティブな人材を集める拠点となりうると書いてありましたが、うちの大学なんかも造形学部があるし、その可能性はありそうな気もします。ただ、クリエイティブな人材に優しい環境かどうかという点ではどうなのか。。。今度造形学部の先生に聞いてみましょう。
 なお、アメリカの都市のことは私はよく知りませんが、シアトルがクリエイティブ指数が高いというのを見て、イチローがあの弱小チームを離れない理由の一つがここにあるのかなという気がしました。もちろん勝手な推測ですが。
 それにしても最近のアメリカの不況を受けて、これらのクリエイティブな人たちはどうしているのかなという疑問がわきます。以前と変わらずクリエイティブで居続けられるようでしたら本物でしょうね。
 本書でも著者はこう言っています。
 「私は自分が育ったワーキング・クラスの地域で、これまでに出会った人々の中で最も賢く、最も熱心に働いている普通の労働者が、驚くべき才能とクリエイティビティの持ち主であるのを間近に見てきた。しかしまた、彼らの才能が既存の経済組織や社会構造によっていかに阻まれてきたかをも見てきた」(405頁)
 結局のところ、この手の才能をどう育てることができるかということが、鍵なのだと思います。大学も少しはがんばってくれませんかね。
 なお、翻訳は日本語として実に読みやすいものでしたが、一点、ファンとしてはアンドリュー・ロイド・ウェーバーではなくウェッバーと書いてほしかったと思います。
 それはともかく、最近のアメリカの経済学はいろいろと面白い本が出てきています。本書のような都市経済学をはじめ、行動経済学やヤバイ経済学などを踏まえた社会学のテキストを作ってみたいですね。

(井口典夫訳、ダイヤモンド社2008年2800円+税)  

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2008年12月10日 (水)

鈴木大拙『禅学入門』

 元々外国人のために英語で書かれた禅の入門書です。禅の公案の紹介など興味深いものがありますし、本来のインド産の禅那と禅との違いについても触れられていて、禅は幻想に浸っているのではなく、もっと日常に即した、ある意味で冷めた普通の境地だということが説かれていて、なるほどと思わされます。これは学者にとってはどうやら納得のいかないことのようですが、この辺のところがいかにも大拙らしいところです。
 ただ、いくら禅が説明できない境地だからといっても、後年の著者の『日本的霊性』のようにもう少し具体的に説明してくれたらありがたいのにとも感じました。おそらくこれを英語で読んだ外国人は、結局分からずじまいではなかったかと思われます。だからといって気軽に日本に来て修行するわけにもいかないでしょうから、ある意味で罪作りな本だったかもしれません。
 でもまあ、異文化に対する憧れというものは、多少なりともそんなものでしょう。そういえば、昔読んだ小田実の『何でも見てやろう』の中に、アメリカに渡った若き日の小田実が、ダンスをしないのかとか、執筆しないのかと聞かれていちいち答えるのが面倒くさい状況を切り抜けるのに「これは禅だ」と言って周囲を納得させてしまうくだりあって面白かったのを覚えています。そんなことができたのも、思えば鈴木大拙が書いたこの英語の入門書おかげだったかもしれません。
 最近は日本文化で海外に発信しているものといえば漫画やアニメですが、永平寺に参禅に来るよりは秋葉原に来てコスプレに興じる外国人のほうが圧倒的多数です。はたしてこれが世界を席巻すると、禅以上の思想的影響を与えることになるかもしれません。それは決してみんなでアホになるようなものではないと思います。

(講談社学術文庫2004年840円+税)

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2008年12月 9日 (火)

クルスナホルカイ・ラースロー『北は山、南は湖、西は道、東は川』

 ハンガリー人の書いた不思議な小説。著者は京都に滞在経験があり、その時よほど京都を歩き回り、伝統文化の細かいところまで勉強したようです。京都の町が主人公のような書き方ですが、時々「光源氏の孫」というのも出てきます。でも、彼(または彼女かも)をめぐって何か事件が起きるというわけでもありません。源氏の孫もまた読者とともに京都の時間と空間の中を迷子になるという具合です。
 著者の文章は一文が半ページから1ページくらいにもなる長いものが多く、独特の世界を作っているようで、訳者もその雰囲気を伝えるのに苦心されているようです。ま、長いということだけは伝わりますが、ちょっと原文もどんなものか見てみたい気がします(読む気はしませんが)。
 また、登場人物でもなければ語り手でもないような、主体がはっきりしない文章を書くというのも著者が意図していることのようです。現代的な文学としては先鋭的な手法に属するのかもしれません。
 こうしたことを著者が計算の上で小説を書いているとしたら、手法のところから腐り始めると思いますが、おそらくそれほど考えているわけではなく、半ば体質的な要請から書いているのだろうと思います。不思議な味わいの小説になっていて、わざとらしい気はしません。外国人が書いたとか考えずに読むと(実際そのように読めるのですが)、独特の文学的観光案内のようでもあります。実際、私の娘が早速読んでは、京都に行ってみたいと言っていました。
 ただ、折口信夫の『死者の書』のような畏るべき小説なんかが頭にあると、日本人作家なら怖くて書けないでしょうね。また、長い文章といえば蓮實重彦が変わった小説を書いていたと記憶していますし、人間が主体ではない丸山健二の小説なんかも、良し悪しは別にしてしっかり存在していますので、その点ではやはり外国人ならではの小説なのかもしれません。

(早稲田みか訳、松籟社2006年1800円+税)

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2008年12月 7日 (日)

フランク・ティボル『ハンガリー西洋幻想の罠―戦間期の親英米派と領土問題』

 外国人というものをわれわれは妙な思い込みからしばしば誤解し、同国人の評価とはかなり異なって、異様なほどに高く評価してみたり、反対に低く評価してみたりすることがあります。
 日本の業界では誰が見ても目立ちたがり屋で大きな態度が鼻につく嫌われ者が、異国ではいっぱしの人格者のように思われたりするなんて、外人に対しては突然品のいい英語を話し出すO橋G泉みたいですが、いろいろな劣等または優等複合意識なんかがあるのでしょう。結構そんな人はいるものです。
 そういえば、外国人ではなくて体育会系部活動なんかでも、やたらと先輩に気に入られるだけで、同輩からは冷ややかに見られている奴とか、いたでしょ? 将来体育の教員になった指導者になることを目指していたので、ある意味大人だったのかもしれませんが、自分の出世だけしか頭にないサラリーマンみたいではありました。やだね。今思い出しても虫酸が走ります。
 それはともかく、一般に外国人を理想的な人物だと買いかぶることで、自分も何だかえらくなった気がするのでしょうし、買いかぶられたほうも気を悪くはしないでしょう。そうした相互作用がまた新たな喜劇的状況を生み出すことが、人間くさい外交の場で起こってくることは当然予想がつきます。また、逆に相手国に対していかに自国の良いイメージを植え付けるかということが外交戦略の重要テーマにもなってくるわけです。

 本書はハンガリー史の個別研究ですが、そうした異文化に対するイメージが形成され、変容していく歴史が(それもかなりグロテスクに)描かれています。
 第1次世界大戦後ルーマニアのイメージ戦略に後れをとったハンガリーは領土がそれまでの3分の1になってしまいますが、失地回復のためにハンガリー史についての英語版雑誌を作って英米に対して働きかけようとします。Hungarian Quatery がそんな雑誌だったとははじめて知りました。勉強になります。
 本書の扱う時代と対象は専門的ですが、テーマは普遍的です。著者は在ハンガリーアメリカ公使モンゴメリーの「対話集」や書簡、日記などの資料をうまく使って、同時代の人びとの姿を見事に描き出しています。ちなみに、本書の翻訳文は読みやすいので、ハンガリー史に詳しくない読者でも取っつきやすいと思います。

(寺尾信昭編訳、彩流社2008年2500円+税)

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2008年12月 5日 (金)

エステルハージ『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って―』

 私が1987年から3年間ハンガリーに留学していたときのことですが、毎週水曜日の晩にブダペストのとある映画館で一回だけ上映されるハンガリーの前衛映画シリーズを観ることにしていました。
 映画のほとんどは、バラージュ・ベーラ・フィルムスタジオで制作された前衛的な実験映画で、難解な作品がほとんどだったため、観客も毎回10人前後でしたが、中には結構面白く、印象に残るものもありました。
 ハンガリー映画の難解さは、深い哲学・思想があるために、難解になったというようなものではなく、また、映画評論家による哲学的・思想的説明を期待しているようなインテリ臭さもありません。ただ、何となくこれしか言い様がなかったという体質的な表現のようで、ポイントを外してしまうことも多いので、あまり論理的に詰めないほうが、観ている人の精神の健康には良いというようなしろものです。しかし、それでも面白いものはありました。
 そういえば、昔知り合ったフランス人が、「ゴダールの映画は精神分析的で、時代を先取りしていて思想的に深い」と言っていましたが、当時の私は「バッカじゃなかろか」と思ったものです(今は、まあ、そうバカでもないかと思っていますが)。ただ、フランス人のこの種の映画好き、思想好きのような感覚は、ハンガリー人にはないようです。
 それで実情は、ハンガリーから出てくるものの中に、難解でも面白い映画があり、フランス映画にも「お、やっぱやるじゃん」というものがあるわけですから、世界中のどこかで難解な映画は健在なのでしょう。ただ、おそらく映画の制作者たちは評論する人種とはまったく違う論理で、楽しみながら作っているはずです。

 難解な芸術はもちろん映画だけではありません。近代に入るとそれまでの人間が分裂分解し始めたため、頭がおかしくなる少し手前のところの表現が一部の人の支持を受けるようになってきます。
 それが個人の問題であり、その背景にある宗教的信念の問題である限りは、神を失った個人の精神の問題として、純粋な西洋知識人の自我をめぐる物語が展開されることになります。この語り口は近代以降の思想、芸術におなじみのもので、用いられる符牒は違いますが、自我の問題を語るためか、結局自画自賛で自我を神の位置に置くことでしか解決できないような方向に進みがちです。
 この落とし穴から逃れるのは容易ではなく、かつてのサルトルのようなスターになったりすると、「でも傲慢はまずいでしょ」とは誰も言ってくれなくなります。そのサルトルを翻訳し、評論し学問の対象にするわが国の知的物品輸入業者の中には、本家よりもさらにえらくなったようなことを言い出す人も出てきます。これは猿回しのサルが威張りだすような滑稽さがありますが、これもまた、「あんた変だよ」とは誰も言ってくれなくなるのです。
 もちろん、別にここではサルトルは記号にすぎず、そこはフーコーでもデリダでも代入できますので、念のため。

 さて、前ぶりがえらく長くなりましたが、新刊のエステルハージの小説です。ポストモダンの作家と呼ばれたりもしていますが、翻訳者の早稲田先生の話では、本人はそれを否定しているとのことです。実際、ポストモダンという言葉は主人公に対するある種非難の言葉として本小説中にも登場しますもんね。
 確かに著者がそう言いたくなる気持ちは分かります。ポストモダンと呼ぶには内容が豊穣すぎるからです。映画で言うならフェリーニの『アマルコルド』や『そして船は行く』などの語り口が近いかもしれません。ハンガリー映画なら伝説的名優ラティノヴィチ・ゾルターンの演じたクルーディ・ジュラ原作の『シンドバッド』が(監督は誰でしたっけ?)近い感じです。
 ものすごく饒舌ながらあまり意味のないおしゃべり、唐突な場面転換、美しい風景、残虐な歴史的場面の数々、冗談や諧謔が続くかと思えば、突然気の利いた言い回しが現れたりと、言葉の深い森をかき分けながら、この小説のドナウ川はゆっくりと西から東へと流れていくのでした。
 主人公は旅人です。実在する都市と膨大な先人の文学・思想の森を読者と一緒に旅してくれます。旅の時間に独特の何か酔っぱらったようなふわっとした感覚とともに、どこまでが引用でどこからが作者の言葉か分からないような言葉が、不意の出来事のように読者を襲ってきます。
 こう言うとものすごく前衛的で筋書きのない感覚の羅列のように思われるかもしれませんが、決してそうではなく、この小説にはしっかり物語も組み込まれています。現代人のやるせない日常を描いて終わるといったわけではありません。そう言えばフェリーニに「甘い生活」という映画がありました。あれはあれで甘美な退屈さが印象的でしたが、そのタイプではありません。中欧的な苦い物語もしっかり存在しています。
 この感覚は確かに現代人のものです。この小説も現代芸術であることは間違いありません。それもかなり上質のものです。ただ、世の中にあるあまたの現代芸術とはひと味違います。
 現代の文学なら当然「壊れた」分裂症的人間が出てきます。そして、この小説の登場人物もまたどこか壊れているのですが、生まれがいいためか実に趣味がよくて、ヒロイズムとは無縁です。
 また、これだけ現代思想と文学に通じ、考え抜かれた作品を作る著者であるにもかかわらず、インテリ臭とも無縁です。これは著者が先に述べた意味でハンガリー人であり、同時に真の知識人だからではないかと思われます。
 著者は小説という自由な芸術形式の利点をフルに活かして、いろんな人の生霊、精霊、死霊、悪霊と共鳴しあってもいます。何たって大貴族エステルハージ家の末裔ですから、そんな霊をいっぱい抱えているわけです。日本だったら藤原氏のような感じでしょうか。
 かなり訳しにくい作品のはずですし、一歩間違うと東大の教養の偉い先生の難解な翻訳みたいになるところですが、翻訳文は見事に読みやすく美しい日本語に仕上がっています。私にはできません。さすがです。
 いずれにしても、やせ細った現代芸術的小説の対極にある不思議な魅力をたたえた現代小説です。ご一読を。

(早稲田みか訳、松籟社2008年2,200円+税)

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2008年12月 4日 (木)

日下公人『教育の正体―国家戦略としての教育改革とは?』

 本書も傑作でした。著者独特の、柄のないところに柄を付けながらも正論としか言いようのない議論が繰り広げられています。以前から教育権はまず親にあって、国にはなかったとは主張されていましたが、ここでもその路線で歴史的な事実を押さえつつ、根本的な考察がなされています。
 印象的だったのは、著者の年代の男性は「美人を追いかけるな」と言われて育ってきたというくだりで、「美人を追いかけるような男は三流だと、子供のときから言われてきた」(65頁)とあります。きょうび世の中は美人礼賛ですので、こんなことがあったのかと新鮮に感じました。著者によれば、
 「美人不美人や賢愚より、女は愛嬌、男は度胸という価値観を、日本列島の上につくり上げたのは成功だった。万民が幸福に暮らせる。ところがそういうものはみな封建的だと否定してしまったあとに来たのは何か。学校差別や容姿差別である」(同頁)
 とあります。なるほどそうかも。「男は度胸」のほうは意識しないでもなかったですが、「女は愛嬌」については、私が男だからか、あまり考えたことがありませんでした。しかし、これにも深い意味があったわけですね。
 本書所収の米長邦雄との対談も読みごたえがありました。その中で米長さんは、いわゆる振り込め詐欺の総額が200億円くらいになるなら、その背後に、裏で親などがこっそりもみ消した「もみ消し詐欺」の額はもっと途方もない額になるだろうと述べています(98頁)。
 「息子や娘が何を言っても『自分で責任をとれ』と言い切る度胸を持とうではないか。それから、金を借りるならとにかく顔を見せなさい、ときちんと言おうではないか。この運動さえ行き渡れば、詐欺はなくなりますよ」と言います(同頁)。鋭い指摘だと思います。

(KKベストセラーズ2008年1560円+税)

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2008年12月 3日 (水)

細野真宏『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身につく本!』

 著者の言う数学的思考には、論理的思考に加えて論理の罠に落ち込まない自己反省能力が含まれています。物事を様々な方向から多角的に理解することができるというのは、確かにこうしたことなのでしょう。その点で、学校時代に数学が得意だったという思い出だけにすがりつつひたすら独善的な理屈をこねくりまわして譲らないというタイプがときどきいますが、著者はその対極にいる人です。
 本書で特に印象的だったのは、「分かる」とは「伝えられる」ことと同じだという指摘です。相手が「分かる」ためには、相手がそれを「伝えられる」という状態にする必要があるという指摘(66頁)は多くのことを示唆してくれます。別の言い方では、「情報を正確に伝える」というのは、究極的には「同じ絵」が描けるようにすること(172頁)ともあります。
 教壇に立つ身としては実に参考になります。複雑なことをかろうじて分かってもらってもその場限りである一方で、「今日先生がこんなこと言ってたよ」と子どもが親に話すことがあれば、授業は成功でしょう。
 畑中洋太郎さんの本もそうですが、著者のように、こうして頭の中の出来事をきれいに整理してくれると、理解や意思伝達という問題については、ウィトゲンシュタインなんかを読まなくても十分哲学的だという気がします。
 ところで著者の本でいつもおなじみのかわいらしいイラストは著者自身が描いたものだったんですね。本書で初めて気がつきました。器用な人ですね。

(小学館2008年1200円+税)

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2008年12月 2日 (火)

日下公人『独走する日本 精神から見た現在と未来』

 日下氏のオリジナリティ全開の本です。日本文化と日本精神がユニークだとはしばしば言われることですが、日本の思想こそが世界の先端を行っているという風に言うのは著者だけかもしれません。
 著者によれば、日本は外国よりも百年進んでいて、世界最高の住み心地の信頼社会を築き上げてきたということになります。こういう見方は極論かもしれませんが、欧米崇拝型知識人には完全に欠けている重要な論点を含んでいます。
 根本的な事実の指摘を積み重ねて、なおかつ実にわかりやすい議論を組み立てる著者の手腕にはいつもながら感心させられます。
 金を貸す国は孤立し、軍事大国化するという指摘も印象的でした。金の貸し手がつぶれてくれると債務国は喜びますからね。
 それにしても国際金融論の背景となっている事実をこれだけはっきりと指摘してくれる人も少ないと思います。
 本当にいろいろと教えられると同時に、勇気を与えてくれる本です。

(PHP研究所2007年1,500円+税)

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2008年12月 1日 (月)

西田幾多郎『続思索と体験「続思索と体験」以後』

 西田幾多郎のエッセー集です。最晩年のものまで含まれているため、彼の思索の歩みがよくわかる構成になっています。短い文章の中ですが、結構言いたいことを言っています。アウグスチヌスとデカルトの関係や、伊藤仁斎に対する評価などはたまたま私が感じていたことと同じだったこともあり、親近感がわきました。
 ただ、述語的世界観への問題提起は、気持ちはわかりますが、絶対無の弁証法的展開にまで行くと、著者は論理的には理解できない境地に入っているように思います。思うに論理はあまり好きなタイプではなかったのかも知れません。
 しかし、理屈はわからなくても気持ちがわかるというのもまた事実ではあり、それは次の言葉にうまく表現されています。
 「私は現実に我々がその中に生きて働いていると考えられる日常性の世界というものが、最も直截な具体的な世界であると思うのです」(288頁)
 この点に注目するところはさすがです。仁斎ともここでつながってくるのでしょう。思うに、この視点からこそわが国の独自の哲学・思想が出てくるのだろうと思います。
 今度は全集を繙いてみるつもりです。

(岩波文庫1980年450円)

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2008年11月25日 (火)

美輪明宏『霊ナァンテコワクナイヨー』

 美輪さんというのは霊視ができるんですね。それも、こんなにはっきりと見える人だとは知りませんでした。霊が背後に群れるようについている人というのは確かにいて、私も空気というか気配でわかることがあります。先週もそんな人を見たばかりですが、ふだんから多くの女性に好かれているだけではなく、霊にも好かれているという感じの人なので、それほど悪いものばかりがついている感じではありませんでした。いずれにしても、悪人の黒々としたオーラが立ち上っている感じではではなかったので安心したところです。
 しかし、著者のように霊がこんなにはっきり見えて、声まで聞こえる人は大変だと思います。聞こえるのだから相手に言わずにはいられないでしょうし、霊のほうから言ってくれるように頼まれもするでしょうしね。
 本書の前半は総論的な部分で、なるほどねーって感じです。後半の第二部は実際の体験がたくさん書かれていて、説得力というか何というか、リアリティーがあります。芸能人・著名人が実名で出てきたりもするので、あの人がそうだったんだ、と週刊誌的興味を満足させてくれるところもあります。
 で、結局この世で精一杯努力し、奢ることなく自身を高める生き方をすることが大切だというわけですが、ご本人がそもそも謙虚な人だということが本書からよく伝わってきます。
 昔テレビで著者が「宗教なんか自分で作っちゃえばいいのよ」と言っているのを聞いて引っかかるところがありましたが、傲慢な意味で言っていたのではないことが本書でよくわかりました。読後感のいい本でした。

(PARCO出版2004年1600円税別)

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2008年11月24日 (月)

川又一英『ビザンティン・ロシア 思索の旅』

 通信教育部の学生さんからいただいた本です。通信教育部は社会人が多く、通学部とは違ってユニークで面白くチャーミングな学生さんが多いので、スクーリング授業はいつも楽しみです。一般市民向けの講座や講演もそうですが、いろいろな経験を積まれた学生さんが来られるので、むしろこちらが教わることが多いくらいです。
 本書の著者はその学生さんのお友達だった方で、もうお亡くなりになっていますが、ああ、この学生さんのお友達ならちゃんとしているだろうと思った通り、浮ついたところのないしっかりした内容の本でした。
 まあ、私が不勉強だったのですが、著者は他にも何冊もビザンチン文化についての本を出されていました。これからおいおい読んでいこうと思います。
 今まで私自身、東方正教会については高橋保行さんの本を通じてくらいの知識しかなく、ドーソンなんかのカトリックの立場から見た正教観にいつの間にか影響を受けていたようです。
 本書を読んで、印象的だったのは、「常に原罪と裁きを想起し、神に近づこうとする西方カトリック教会の志向に対して、ひたすら祈り、憐れみを乞うことによって神の愛を得ようとする、東方正教会の姿」(44頁)です。
 こういう真摯な姿勢は妙好人のようで好きです。少し身近に感じることができました。
 本書は紀行文ですが、歴史の解説もきっちりと折り込んであり、大変勉強になります。最近仕事で関わっているロシア史についても参考になりました。どこも面白そうで行ってみたくなります。

 ところで、本書を読みながら、学生時代のフランスご購読の授業で、飯島耕一先生からリラダンの『残酷物語』の中の「ヴェラ」を教わったことを思い出しました。さすがに天才的な作家だけあって、単に異国趣味に終わるのではなく、正教の雰囲気をうまく捉えていたように思います。しかし、記憶の中で印象も変質しているかも知れません。今読み返してみるとどうでしょう。
 その飯島先生ですが、年末のコンパのとき、「ヴェラ」を読んだことを、その年一番のよい出来事と言っていいくらいだとおっしゃっていました。ほとんどご自身が一人でフランス語を訳されていたような授業でしたが、そういう感想を述べられるとはさすがに詩人だなと、当時の私はそちらのほうに感心させられていた記憶があります。もっとも、それほど魅力のある短編だったのでしょうね。

(山川出版社2002年2800円税別)

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2008年11月23日 (日)

カール・マルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』

 出かける前に丁度読む本がなかったので、たまたま目にとまった本書を鞄に入れてしまいました。『ドイツ・イデオロギー』以来30年くらいになりますが、懐かしい語り口です。この異様なまでに自信に満ちあふれた断言の根拠は、世界の秘密を自分だけがつかんでいるという確信から来ているようです。それはたとえば次のような表現に示されています。
 「宗教は、その国家の成員たちの観念的な非現世的な意識として存続する。というのは、宗教は、その国家において実現される人間的発展段階の観念的な形態だからである」(35頁)
 現状はあくまで現在生成しつつあるもので、その生成の最終的な形を知っているのは自分だけという態度は、実は神秘主義的なそれであり、人を扇動し教祖となるたには必要不可欠のものです。1980年代に流行った「現代思想」の一連の思想家たちも、その意味ではほとんど皆マルクスの子どもたちです。
 ただ、マルクスの思想の重要な核となっているヘーゲルの論理学には、この種の神秘主義的自己陶酔の要素が感じられないのが面白いところです。ヘーゲルはもっとあっけらかんと楽天的です。恵まれた幸せな人生を送っているうえ、熱烈なクリスチャンだったこともあるのでしょう。恨み節や劣等複合意識から無縁です。マルクスからしたらさぞかしいまいましかったことでしょう。
 いずれにしてもヘーゲルの弁証法的論理は、現実を常に潜在的可能性を秘めつつ生成するものとしてとらえるため、現代思想にとっては最初の神の一撃となっています。ここには重要な真理が含まれてもいるだけに、問題は厄介なのですが、マルクスによって恨み節が加味されると独特の宗教のようになってくるのが興味深いところです。
 もっとも、マルクスはプロレタリアートは大好きでしたが、インテリは大嫌いでした。そのインテリにこそこの情念が受け継がれていったのは、何とも皮肉な話です。

(岩波文庫1974年300円)

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2008年11月19日 (水)

伊藤仁斎「童子問 巻の上」

 伊藤仁斎のものは初めて読みました。儒教をこれほど自在に解釈したのはすごいことだと思います。その端々に炯眼が光っています。日本のふつうの人の視点というのがどんなものかがわかります。たとえば、
 「おおむね言葉が素直で、その筋道がはっきりしていて、理解しやすく、記憶しやすいものは、必ず正しい心理である。言葉が難解で、筋道が迂遠で、理解しがたく、記憶しにくいものは、必ず邪説である」(452頁)
とあります。
 また、道は卑近なところにあって、遠大なところにあるのではないというくだりでも、「人に教えても、理解されにくいのは、よい教えではない。人を指導しても、従うのがむつかしいときは、よい指導とはいえない」(472頁)と言います。
 学問を通じて人間の善なる性質がはじめて社会にも行き渡り、よい世の中が実現すると考えているのですから、やはりわかりやすく受け入れられやすいものでなければいけない道理です。
 それで、仁が徳のうちで最も偉大で、最も認識しがたいと言うのですが、それは「そもそも仁は愛を基本としており、そのうえ、人を愛することより大きな徳はない」(482頁)。学問は仁から離れてしまうと実体から離れてしまうと述べています。「程子や朱熹が天道について論じたとき、ひたすら理によって説明しようとしたのは天道を殺してしまったものといえよう」(483頁)。そして、仁とは「究極のところは愛につきる。愛は、実体のある徳である。愛がなければ、仁という徳を見ることができない」(496頁)とまで言います。
 ここまで来るのには、実は朱子学に入れ込みながら、後これを否定するという曲折もあったようです。しかしその結果、かなり独特の読みに到達したのだと思います。
 先哲の学問を解釈する行為を、師匠が弟子に語るというスタイルで論じるというのは一見制約が多いようでいて、実はかなり自由な発想が可能になるようです。
 いずれにしても、まったくインテリ臭くないこの哲学はすごいものだと感じました。

(中央公論社日本の名著13)

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2008年11月17日 (月)

谷沢永一『聖徳太子はいなかった』

 専門家の間では本書の題名通りのことが以前から通説となっているようです。根拠は太子が実在した証拠がまったく揃わないことにあります。その動機は次の通りです。
「天武天皇は、第二の天武天皇出てくることをひたすらおそれた。それゆえ、皇太子を必要としたのであるさらには、そのうえもっと欲をだして、偉大なる皇太子が、歴史上の過去に出現したという、神話の設定を熱望した。かくして、聖徳神話は、天武天皇が枕を高うして熟睡できるための精神安定剤として、膝下の有能な学者たちが工夫をこらしつつ作りあげていったのである」(48頁)
 さらに藤原不比等とも思惑が一致して、この神話が作り上げられていったというわけです。
 ふーん、そうだったのか。そうかもねー。
 戦前から知る人ぞ知る話だったようですが、皇国史観の支配的な世の中では言いにくかったのでしょう。また、戦後は太子ファンが多いためこれもまた空気に支配されたのでしょう。ひっそりと専門家の間だけで常識化していたようです。
 言われてみて気づかされたのは十七条憲法の「和をもって貴しとなす」の後にある「サカフルコトナキヲムネトセヨ」(逆らうなよ)を「表面に押しだして賞揚した人を見たことも聴いたこともない」(91頁)という事実です。

 なるほど不比等なら言いそうなことです。最初の文句が印象的で見落としがちですが、これって嫌な言葉であることは確かです。十七条憲法に写本が少ないということからも、その人気のなさがうかがわれます。
 太子が理想の日本人像であることは確かですが、これを必要とした裏の事情にもまたそれなりにドラマがあったことがわかります。

(新潮新書2004年700円税別)

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2008年11月16日 (日)

斎藤美奈子『たまには時事ネタ』

 著者は相変わらず口の悪さでは天下一品、ツッコミなんてもんじゃありません。相手の心臓に釘を打ち込むようなところがあります。私もふだんかなり口の悪い方ですが、著者のこの表現力の鋭さには脱帽です。批判された人はご愁傷様です。ぐさりとやられて立ち直れないのではないかと、他人事ながら心配になるくらいです。
 政治的には正統派リベラル、ややピンクといった感じで、土井たか子なんかを高く評価していたりするところにはちょっと違和感もありますが、何せこの文章による芸の見事さに圧倒されます。
 本書は2001年から2007年までのコラムを集めたものですが、視点がぶれず立派です。その間世間は大いにぶれまくって本当に慌ただしい7年間でした。これからもこんな風に書きためていってくれれば、立派な現代史になると思います。

(中央公論社2007年1300円+税)

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2008年11月15日 (土)

秋元松代『常陸坊海尊/かさぶた式部考』

 著者の「七人みさき」の不気味な魅力が頭の中に残っていたので、本書にも引き寄せられたのでしょうか。日本文化の深いところまで降りていって、それに見事な言語的表現を与えた作品です。
 戯曲の形をとっていますが、上演していて良い芝居になるかどうかはわかりません。じっくり考え抜かれて丁寧に構成された戯曲ですが、カタルシスまで至らないような気もするからです。なにせ読みながら「こうなってほしくないなあ」と直感した方向に追い立てられていくような芝居で、日本の伝統的な美しさと隣り合わせにある「一歩間違ってしまったおどろおどろしい情念」が怪しい負のオーラを放っているのです。性の問題の描き方も不気味です。たくましいとも言えますが、この点残念ながら私の趣味ではありません。
 著者の作品は中上健次には明らかに影響を与えています。「岬」や「枯木灘」以降の作品はスタイルの違いでしかないくらい、抱えている問題が同質のものです。対談を読んだときから「あれ」とは感じていましたが、ここまで深い影響があったとは思いませんでした。中上の晩年の作品は読んでいませんが、この世界からさらに抜け出ることはできたのでしょうか。
 でも、ここからさらに抜け出るというのは、作品の中で世阿弥のように成仏させてカタルシスを得たりするしかないのかもしれません。
 いずれにしても『七人みさき』同様、しばらくは夢に出てきそうな戯曲です。演劇関係の人の感想を聞いてみたいですね。この美しい悪夢のような作品もやはり演じてみたいと思うでしょうか。

(講談社文芸文庫1996年913円)

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2008年11月14日 (金)

野口悠紀雄『金融工学、こんなに面白い』

 この分野はわが国ではどうやらかなり立ち後れているらしいですが、本書は格好の入門書です。
 まず金融工学は株価の推移を予測して金儲けをする分野ではないことが強調されています。確かにノーベル経済学賞を受賞した人が関わるヘッジファンドのLTCMが破綻したりするくらいですから、錬金術のようなものではないことがわかります。
 そのヘッジファンドは確率過程論や確率微分方程式などの高度な数学を駆使してお金儲けをしているというのも誤解だそうで、1990年代にはこの種の問題は初等数学だけで扱えるようになったとのことです。本書ではその実例が示されています。(でも、それでも数式を追うのは面倒くさくはあります。)
 では、金融工学とは何をやっているのかというと、リスクをいかに捉え、いかに対処するかというリスク管理の手法を研究しているのだそうです。リスク管理ということなら、これはもうめちゃくちゃ大事なことですが、確かにわが国ではむしろこのことに対する無理解が社会の隅々に行き渡っているように思います。
 専門的に勉強するのはなかなか骨の折れそうな分野ですが、わが国でも今後優秀な頭脳がこの分野に集まってくることを期待したいです。実際、私も多少かじってみようかという気もしているのですが、標準偏差でどうして数値を二乗するのかという点でつまずいているくらいですから、数学から勉強しなければなりません。

(文春新書平成12年690円+税)

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2008年11月13日 (木)

邱永漢『これであなたも中国通』

 久々にQさんの本です。ふだん中国の学生を相手にしているので、中国関連の本には自然に目が行きます。著者は台湾出身ということもあり、中国人の思想や生活文化からの視点が公平に書かれていて参考になりました。
 それにしても世界のお金が流れるところに目を付ける著者はさすがに「お金儲けの神様」と呼ばれるだけのことはあります。ただ、これだけ肩入れしていると、台湾独立の立場の人からは裏切り者と呼ばれるかもしれません。
 それはともかく、やはり勉強になるのは中国人のものの見方です。とりわけなるほどそういうことかと思ったのは、支那という言葉についての考え方です。
 著者はこれを「中国が帝国主義諸国の蚕食にあい、さんざ劣等感を味わわされた時代に使われた言葉なので、いまの中国人がそれをきくと差別用語にきこえてしまう。だから、学のあることを根拠にしてわざわざ中国人の嫌がる呼び方をするのは礼儀に反するから、やめるにこしたことはない」(111頁)と言います。この「学のあることを根拠にして」というのが新鮮な指摘でした。これもまたインテリの嫌な習性なのは確かですから。
 また、何清漣『中国現代化の落とし穴』を「マルクス的な杓子定規の理論」として批判しているところも、そういわれてみればそうかもしれないと思わされます。なかなかの意趣返しです。Qさん畏るべし。

(光文社2004年1,200円+税)

 

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2008年11月 8日 (土)

片倉もとこ著『イスラームの日常世界』

 以前から著者の名前は知っていましたし、新聞に掲載されたコラムなども読んでいましたが、専門が文化人類学とは知りませんでした。そして実際本書はフィールドワークをしなくては書けない貴重な情報に満ちています。
 イスラム文化はコーランだけ読んでいてもよくわからないことが多々あるのですが、こうして日常生活をスケッチしてもらうと、本当に理解の助けになります。
 それにしても、この文化は日本文化からはあまりにも遠いため、日本人の異文化理解度の試金石になるところがあります。今後、大学の講義でも折に触れて内容を紹介していきたいと思います。
 最も印象深かったのは、イスラム教徒にとって「断食月は楽しい」時期で、盆と正月が一度に来たような華やいだ期間になるということです。日中はあまり活動できなくなりますが、瞑想にはむしろ適しているという指摘にも、なるほどと思わされます。イスラム神秘主義というのもこうした瞑想から生まれてきたのでしょう。
 また、イスラム圏では一般的に女性の権利が認められず、抑圧されているという印象が強かったのですが、本書では実は女性の社会進出が早くから進んでいたことも教えてくれます。ベールで顔を覆うとむしろ男性は女性を尊重してくれて、女性の方も容姿を気にせずに実力で勝負できるとのことです。男性の視線から自由になるという利点があったのですね。
 この点で元々女性が強かった文化だから、コーランでそれを制限しているという見方もできるという指摘にも一理あると思います。本来男性よりも女性の方が強いというのは万国共通なのかもしれません。
 また、メッカ巡礼のイスラム教徒独特の平等な連帯意識についても言及されていますが、信徒の口を通して語られる言葉を読むと、なるほど身近に感じられます。やはり半端な宗教ではありませんでした。
 本書は井筒俊彦『イスラーム文化』とともにイスラム理解のための必読文献に挙げられるべき本だと思います。

(岩波新書1991年550円)

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2008年11月 3日 (月)

若林亜紀『独身手当―給与明細で分かるトンデモ「公務員」の実態』

 若林アキさんから本名の亜紀に戻しての本です。著者が特殊法人を辞めたときの退職金をめぐるトラブルは、結局本人訴訟で勝利していたことがわかりました。訴訟をためらうような記述があったので気になっていましたが、よかったですね。正しい振る舞いだと思います。
 それにしても本書は綿密に公務員の特権的身分待遇を調べています。官公労もグルになってひどいことをしていることがわかります。いずれにしても民間企業とは雲泥の差です。ま、民間にいても天下ってきた連中の働きぶりをみると、元の職場がどういうところだったかわかっちゃうものですが、これほどまでとは思いませんでした。 人間というのは愚かにも、特権を持てるようになるととたんに増長し不正を働くようになります。このこと自体官民に違いはありませんが、公務員の場合は自分で稼いだ金じゃないところが問題です。
 いくらわが国が世界第2位のGDPを誇っていても、そのうちの4割が役人に流れ、700兆円以上の財政赤字を増やし続けているという状況は、やっぱり何とかしなくてはならないでしょう。
 しかし、世界各国の状況をみてみると、逆に役人の腐敗がこの程度ですんでいるのはすごいという見方もできるかもしれません。感謝するわけではありませんが、わが国の公務員の無駄遣いの規模もまた人間のスケールにあわせて小さいのかも。

(東洋経済新報社2007年1500円+税)

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2008年11月 1日 (土)

土屋賢二『簡単に断れない。』

 古書店で100円で見つけたので、早速買ってきました。
 相変わらず好調なギャグ満載です。
 それにしても週刊誌の連載とはいえ、よくもまあこれだけ次から次にギャグを繰り出せるものです。どうでもいいような脱力系の笑いですが、そうそう考えつくものではないのも確かです。書こうと思って書けるものではないので、これは確かに才能と努力のなせる技なのでしょう。しかし、これを書くために努力している著者の姿というのも何だか可笑しくなります。
 その点で、前書きに「内容のないことを書き連ねて一冊にする苦労を評価していただければ幸いである」と書かれているのは半分本気かもしれません。
 とりわけ、妻や助手との会話が出てくると破格に面白く、その絶妙のやりとりが笑わせてくれます。論理とイメージが暴走するのにとりわけ対話形式は向いているように思います。
 ただ電車の中で読むのは吹き出すのを押さえなければならないので、なかなか大変です。使用上の注意でも付けておくといいかも。
 思うに、こういうギャグを頭に置きながら論理哲学をやるというのは、本当は大事なことなのかもしれません。著者のこのエッセーと専門はやっぱり無関係ではないと思いますので、専門の本もいずれ読んでみるつもりです。
 もっとも、本書には論理哲学のような難し話は一切出てきませんので、念のため。

(文藝春秋2004年1300円+税)

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2008年10月31日 (金)

若林アキ『ホージンノススメ 特殊法人職員の優雅で怠惰な生活日誌』

 いやー、すごい本です。特殊法人の実態がよーくわかります。公務員より縛りが少ないだけに想像以上の税金の無駄遣いが常態となっているようです。この手の法人に勤めたものの、あまりにもやることがないために辞めた人を二人知っていますが、どちらも実にまともな人です。しかし、やることがないだけでなく、内部で湯水のように公金を使いまくっていたとは知りませんでした。しかも、独立行政法人になって、看板を掛け替えただけでなく、かえってこれまで以上にひどくなっているようです。想像はしていましたが、これほど常軌を逸していたとは言葉を失います。
 ただ、常日頃民間企業に天下ってきた元役人の仕事ぶり(サボりぶり)を見ていると、彼らは突然会社に来てサボり始めたのでないことがよく分かります。彼らにとってみれば、もう長年身体に染みついた立ち居振る舞いなのです。この連中はどことなく薄汚くゆるんだ顔になっているのを、本人だけが気がつかずに年をとっていくわけです。いい人生ではありませんね。
 著者は文章力に恵まれている人なので、この実態を実に読みやすく、ユーモアを交えて(怒りも忘れずに)書いてくれています。この平安の宮廷文学に出てくる貴族たちのような生活は、何とこんなところに受け継がれていたのです。ただ、ここから高尚な文学が生まれるほどの優雅さや高貴さはおそらくないでしょう。
 しかし、ひょっとして、この階級が世襲的に固定されて、もっともっと堕落し醜悪を窮めると、その中から蓮の花のように美しい文学が生まれてくるのかもしれません。平安時代ってそんなだったのかも。
 とまあ、そんなことを考えてみても、やっぱり腹立たしいことに変わりはありません。平安時代のあとに武士の世の中がやってきたのも道理です。ま、武士もすぐ堕落するんですけどね。

(朝日新聞社2003年1300円+税)

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2008年10月30日 (木)

堀口博行『週二日だけ働いて 農業で1000万円稼ぐ法』

 これからは個人の仕事としては農業、法人の仕事としては林業をうまく再生させる必要があるとかねがね思っていましたが、本書は農業についての具体的な指南書です。
 実際今日全国各地で高齢化により離農する人が増えていますので、新規参入の余地はかなりたくさんあります。農地も農具も余っていて融通してくれます。タイトルの「週二日だけ働いて」というのも決して誇張ではなく、農業にまったく不案内だった著者の実体験に基づいた話です。
 要は起業家の精神でうまく経営すれば、この分野には十分可能性があるということを著者は実証してくれているわけです。印象深かったのは、あたりまえのことですが、著者があらためて「農業とは頭を使う仕事なのです。農業をやり始めてから何事もまず頭の中でシミュレーションと試行錯誤ができるようになりました」(173頁)と述べていることです。農作業の体力以上に経営者としての能力が必要なのです。
 もっとも、実際こういう頭の使い方ができれば、何をしても成功できそうです。裏を返せば、こういうことができない人が世の中には実に多いということにもなりそうです。
 ちなみに、1000万円のおよその内訳は、7ヘクタールの畑で長ネギで800万円、ピーマンで200万円とのことです。農具やトラクターなどの具体的な話は、本気で就農を考える人にはすぐに役立ちます。
 ここからさらに頭を使って、地域のネットワークの再生と里山の復興につなげてくれる人びとが全国各地に出てくると、何だか明るい未来が開けてきそうな気がします。

(ダイヤモンド社2008年1500円+税)

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2008年10月29日 (水)

鈴木大拙『無心ということ』

 本書では、無心という場所で禅と真宗が出合うことが丁寧に追求されています。著者は「木や石などを木たらしめ石たらしめるところの、何か無意識的なものに突き当たるのです。そこに絶対的受動性というようなところがある。それを体得しなければならない」(20頁)と言います。
 こういう言い方で分かる人はすっと分かるのでしょうが、今どきの銭ゲバの世の中ではひょっとしたら西田哲学よりも難解と受け取られるかもしれません。この点、インテリもまったくだめですし。しかし、絶対的受動性という言葉にはなるほどと思わされるところがあります。
 これは「自分のはからいをもたずに神の前に自分を絶対的に没入させること」(49頁)で、このとき「心の底の心というか、あるいはその底からぬけて出た心の外の心」(153頁)を見届けることができるとあります。
 こうなってくると、無分別の分別の境地であろうと、西方浄土であろうと、いわゆる禅浄一致の世界がたちまちにして今ここに出現することになるのでしょう。
 平易な言葉で語られていますが、あちらの世界とこちらの世界との境にうまく言葉があてられていて、内容は極めて高度な本です。人びとの霊性的自覚を促してくれます。こうして霊性に目覚める人が増えると、少しは良い世の中になると期待されますが、最近何かにつけて阿弥陀仏のお陰様と手を合わせるような老婆の姿を見ることもなくなってきました。私の祖母なんかはそういう人でしたけどね。
 残念ながら、今日もはや妙好人と呼べるような人はいなくなってしまったのかもしれません。

(角川ソフィア文庫平成19年705円税別)

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2008年10月28日 (火)

林成之『〈勝負脳〉の鍛え方』

 スポーツのコーチの書いた本かと思っていたら、脳神経外科のお医者さんの書かれた本でした。それもかなり優秀で独自の治療法を開発されている名医です。そのうちノーベル賞をもらってもおかしくないんじゃないかと思います。
 著者によると、人間が行動を起こして目的を達成するためには、著者によると次の三つの作業が必要だとされます。
 1.目的と目標を明確にする。(目的と目標はしっかり区別し、達成をイメージする)
 2.目標達成の具体的な方法を明らかにして実行する。
 3.目的を達成するまで、その実行を中止しない。
 それで、この三つを本当に実行していると、非常に困難と思われたことでも、時間はかかるかもしれませんが、必ず達成できると言います。これが著者の言うサイコサイバネティクスですが、あまり実証的でなくても、このように「必ず達成できます」(83頁)と断言されるだけでも力になります。たぶん脳は身体を造りかえる働きを持っているからでしょうね。
 実際、スポーツでは粘り強くあきらめずに練習していると、あるとき突然壁を破って身体がスムースな動きになります。これは著者の言う「イメージ記憶」が成功体験とともに定着したということなのでしょう。中高生にバスケットボールを教えていてもしばしば同じ現象を目にすることがあります。
 スポーツが題材になっていて、親しみやすいのですが、時折困難な手術を乗り越えた話も入ってきます。これはさすがに本職だけあって、実はかなりスリリングで感動的です。もっとこういう話も別に読んでみたい気がします。

(講談社現代新書2006年700円税別)

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2008年10月27日 (月)

小幡績『すべての経済はバブルに通じる』

 題名通りの本です。しかし、実にタイムリーな本でもあります。最近の株価の乱高下も本書の言うとおりに動いています。
 バブルこそは資本主義経済の本質だと言われてみると、腑に落ちる点がたくさんあります。さらにそのバブルを見つけ出しては高値で売り抜けようとする金融資本が今日の世界経済の中心にいるわけですが、これを著者は「ネズミ講」と見ています。これはさらに元も子もない話ですが、「なーんだ、そうだったのか」と、私のような素人にはさらに腑に落ちるところがあります。
 相当危険で回収不能な債権でも、証券化して金融商品として売り出せば、一見危険が薄められたように見えます。そこで大手のヘッジファンドなんかがどーんと買い占めたりすると、他の投資家も値上がりするに違いないと見込んで買うという流れができ、本当に値上がりし始めます。
 元からバブルだということは誰もが意識しているのですが(この辺の説明もユニークです)、この流れは値下がりするまで止めようがありませんし、値下がりするのがいつかもわかりません。このときヘッジファンドも市場を支配することはできなくて、結局ババをつかまされたりすることが少なくないのは、バブルがはじけるのを予想できないのと、危険な証券だと思っても巨額の利益が出るので、お客から資金運用を任されている会社としては、載らないわけにはいかないからです。LTCMの破綻もなるほどそういうことだったのかと分かりました。これは確かにネズミ講です。
 このあたりのメカニズムを著者は「リスクテイクバブル」と名付け、これを癌細胞のように自己増殖する「キャンサーキャピタリズム」の発現としてとらえています。また投資家の心理の動きについては著者自身も投資家でもあるため、実に説得力があります。
 このキャンサーキャピタリズムが決定的に崩壊し、実体経済と禁輸資本との力関係が逆転すると、本来の姿に戻るはずです。それまでにどれくらいの混乱がもたらされるかはちょっと想像できませんが、結局モノづくりにこだわって、この波に乗り切れなかった日本経済は、今後も意外に痛手は少なくてすむのではないかという気にもさせられます。
 もっとも著者はそんなことは言っていません。単なる私の希望的観測です。

(光文社新書2008年760円+税)

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2008年10月24日 (金)

堀内都喜子『フィンランド 豊かさのメソッド』

 新刊です。最近フィンランドが注目されているので読んでみました。
 とりわけ「子どもの学力調査」で世界一というのには興味津々です。一体どういうことをやっているのかと思っていたら、そんなに特別のことをやっているわけではありませんでした。どちらかというと、いわゆる落ちこぼれをなくす教育の成果のようです。非常にきめ細かく少人数で面倒を見ています。(私の職場も同じ方針ではありますが、残念ながら教員には浸透していません。ま、なんてったって大学の先生様ですからね。能力は低くてもプライドは高いですもの。)
 著者はフィンランドでの留学経験も長く、現在もフィンランド本社の企業に勤めているため、生活の隅々までよーく観察していて、本当に貴重なリポートになっています。のんびりとみんなが無理せず幸せに生活している様子が伝わってくる本です。私も行ってみたくなりました。ちなみにフィンランド語はハンガリー語の親戚なので、ちょっと勉強してみようかなという気になりました。
 フィンランド人の旅行者とは一度ブダペストで知り合って、家内と三人で話をしたことがあります。陽気でおっちょこちょいのところのある面白い女性でしたが、えらく無理な旅程で電車を待っていたので、なんだか3時間くらい時間つぶしのために話し相手になっていました。ジャンプのニッカネンは女癖が悪いとかいろいろ教えてくれました。今頃どうしているでしょう。

(集英社新書2008年700円+税)

 

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2008年10月23日 (木)

日下公人『グローバルスタンダードと日本の「ものさし」―責任の取り方に見る文化の異相』

 これは少し古い本ですが、内容は古くなっていません。相変わらず感心させられます。わが国に不足しているのは「独立自尊と自己責任の精神である」(231頁)というのはもっともな指摘で、そういえば明治時代の指導者たちはさすがに元武士だっただけあって、しっかりしていたようですが、今や一億総木っ端役人化社会なので、このていたらくなのでしょう。
 著者のすごいところは、その原因の一つを1945年の敗戦の責任をとって当時の天皇が退位しなかったことに求めているところです。このことによって日本人の判断の「ものさし」が狂ってしまったと著者はみています。確かに私の両親から聞いたところでは、当時の人びとの間には「なぜ退位されないのか」という声も少なからず聞かれたそうです。
 命令を下す地位にある人が責任をとらずに、下に責任だけを押しつけるようなら、官僚制度から社会全体にまで、そのモラル崩壊の影響は波及することになります。相対的に下の人たちに権限が移行するという点では民主的になったところもあるのですが「日本社会のあらゆる分野の中枢管理機能がモラルを失い、善悪を判断する『ものさし』も失ってしまったことは大きなマイナスである」(36頁)と著者は言います。 最近の官僚や会社組織の不始末に見られる「ばれなきゃいい」という考えの根っこはこのあたりにあるわけですね。
 この点では阪神の岡田監督はいい辞め方をしました。頭のいい人なのでしょう。

(光文社2001年848円+税)

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2008年10月21日 (火)

日下公人『あと3年で、世界は江戸になる!』

 日下さんの本はいつ読んでも面白いです。何しろ見方がユニークで、あっさりとすごいことを言ってくれるので、驚かされ通しです。
 江戸時代というのは「内戦に無駄なコストを払う必要がなかったので、文化・風俗・経済が栄え、国民は豊かだった。政治も良かった。政治が悪かったように言うのは明治政府の宣伝である」(25頁)。といきなり言ってくれます。
 一般に日本史の人は日本国内のことしか頭にないので、内戦がなかったことには注目しませんし、「明治政府の宣伝」だということも、こんなにあっさりと指摘してくれる人はそうはいません。これにまんまと乗せられた上に、マルクス主義的史観で凝り固まった人が学者をやっていたのも、それほど遠い昔のことではありません。
 本書はそうした固定観念をやすやすと打ち払ってくれる爽快さに満ちています。
 たとえば、著者がマンガに惹かれる理由はマンガに次のような精神性があるからだと言います。

 「勤勉と創意工夫で何でも最高品質をつくる」
 「自分が努力する」
 「他人と協力する」
 「異文化を認めて共存する」
 「はかないものを愛する」
 「自由奔放に表現する」
 「宗教的規制はない」
 「イデオロギーには縛られない」

という具合で、もうこれだけで日本文化の粋だということがわかりますが、ここでも最後の二つの特徴を挙げるところが著者らしいところです。
 シャーロック・ホームズやブラウン神父ではありませんが、このように「ない」ところに気がつくのが大切で、日本も世界もよーく観察していないと、これはわからないところです。比較文化論の教材にもうってつけです。

(ビジネス社2007年1400円+税)

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2008年10月20日 (月)

アラン『小さな哲学史』

 アランは大変鋭い人ですが、書き方がおしゃれというか乱暴というか、鋭い指摘だなと思っていると、話題がぽーんと飛んでしまい、ついて行くのが大変です。断章を続けて書いているようなところがあり、論理を一つずつ詰めていく体質ではないようです。あんまり顧客サービスというか、読者サービスを考えないところは、いかにもフランス人らしい気がします。
 フランスの哲学者は詩人並みの市民権があるらしく、このスタイルでも十分やっていけます。訳のわからないことを言う詩人や変わり者の詩人がいるのと同じように、哲学者も存在することができるようです。この文化的風土の中で難解で微妙な真理を追究できるのは、哲学的には恵まれていると言えるかもしれません。
 例えば次のような表現が可能になります。
 「神の思惟はけっして真理に従属してはならず、むしろ神の自由な判断によってこそいっさいの真理は真理となるのだと考えねばならない。ここで、デカルトは心の探求へと向かう広大な道を切り拓き、『哲学』を『神学』からときはなった。デカルトの神は対象としての神ではなく、主体なのである」(65-66頁)
 このエッセーの語り口による見事な断定はパスカル以来の伝統かもしれませんが、読者は結構大変です。いろいろと考えさせられるのは確かですが、著者の信奉者にならないと本当には理解できないのではないかというプレッシャーを与えられるスタイルだからです。いちいちこれはどうなっていると聞くと怒られそうな気がします。
 思うに、フランスのインテリは精神的には貴族なんでしょうね。ちょっと憂鬱で本当は自身がないタイプなのではないでしょうか。スタイルで自分を守ろうとしているように見えます。ポストモダンの思想家たちもこの伝統は受け継いでいるのかもしれません。
 この点では英米の著作家のスタイルの方が民主的で図太くて、楽天家が多いような気がします。もっとも、知的な支配関係というか、師弟関係の中にいる方が、より深い哲学的認識に到達しうるという事実も否定できないので、ま、結局は好みの問題でしょうね。
 なお、この哲学史は古代ギリシャから始まりながら、最後にA・コントを取り上げています。意外な気がしますが、マルクス批判を潜ませていると思って読むと腑に落ちる部分もあります。
 コントの箇所ではさらに、複雑系やカオスに連なる問題意識も窺われて、やっぱりアランはただ者ではなかったと気づかされる次第です。読み込み過ぎかもしれませんが、著者は深読みされることを期待して書いているので、素直に付き合うと、そうなってしまいます。
 というわけで、私も結局アランの術中にはめられてしまったようです。
 それにしても、みすず書房の本はいつも割高ですね。もっとも、部数を考えると仕方ないのかもしれません。

(橋本由美子訳、みすず書房、2008年2800円+税)

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2008年10月19日 (日)

柳宗悦『南無阿弥陀仏』

 一遍上人を浄土思想の到達点に位置づける本です。法然~親鸞の流れが強調されることが多い中、著者が一遍というほとんど何も残さなかったすごい人に至る道を見出すことができたのは、大変なことではないでしょうか。実際、鈴木大拙の『日本的霊性』の中にも一遍は出てきませんでした。
 これは、名だたる名工ではなく無名の凡夫の手になる民芸の中に固有の美と宗教的救いを発見してきた著者ならではの視点だと思われます。
 著者は言います。
「一般の人びとの不断の暮らしの中に、美しさが浸み込んでゆかねばならぬ。特殊な品だけが優れていても、美の王国は現れぬ。それ故、数ある平凡な民器にこそ救いがゆき渡らねばならぬ。いわば品物における衆生済度が果たされねばならぬ」(41頁)。 法然上人は、人が仏を念ずれば、仏もまた人を念じ給うとしました。
 親鸞上人は、人が仏を念じなくても仏が人を念じ給うとしました。
 一遍上人は、仏が仏を念じているのだとします。
 だから、念仏も、人が唱えるのではなく、「念仏が念仏する」という境地になるのだと言います(172頁)。
 なるほどここまで来れば、自力も他力も関係なくなるわけです。
 それで、人にまったくこだわらなくなるからこそ、妙好人や名もなき凡夫のつくる品へと通じていくのでしょう。
 こういう人びとこそ偉いのだということは、インテリは頭でしかわかりませんが、ふつうの人びとは日々の生活の中で本気で尊敬してきたのだと思います。それが日本文化の底流にある美意識なのでしょう。この点でわが国はつくづくすごい国だと思います。

 「教育の普及は軽薄の普及なり」とは、かの斎藤緑雨の有名な言葉ですが、明治以来残念なことに、この種の軽薄な手合いが増えるとともに、この美意識は廃れる一方です。しかしこの美意識は、まだ決して滅びきってもいないので、いずれ再生する希望はあると思います。
 付録の「心偈」も味わい深いものです。「打テヤ モロ手ヲ」って、いいですね。

(岩波文庫1986年760円+税)

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2008年10月14日 (火)

ひろさちや『やまと教 日本人の民族宗教』

 日本人には縄文時代以来の民衆宗教としての神道があり、これを著者は「やまと教」と名付けています。この「やまと教」を著者は為政者のための国家神道とは明確に区別しています。そうすることで日本人古来の民族宗教の姿が浮かび上がってきます。
 私は以前このことについては「無宗教」という一種の宗教だろうと考えていましたが、なるほどもっとはっきりと民族宗教としてとらえることができるのですね。村の鎮守様の意味が本書ではじめて明確にわかりました。人は死んですぐはホトケ(荒御霊)になり、2年くらいしたらカミになって産土神(うぶすながみ)として鎮守の社に祭られます。村の鎮守の神様というのはその村で生まれて死んだ人の集合霊なのだそうです(130頁)。なるほど。
 それにしても今まで著者は仏教の専門家だと思っていましたが、「仏教そのものはやまと教化されてしまった」とみています。著者自身も「このように結論するのはとても残念なことです。残念ではありますが、やはりそう言わざるを得ません。あきらめることにします」(138頁)とあります。著者がここまで言うだけのことはあり、議論はかえって深い説得力を持っています。
 やまと教の教義は「やさしさ」と「まこと」と「ともに生きる」ことで、その頭文字の語呂はうまく合っています。ここには昔ながらの人びとの知性と生き方がうまく表現されていて、かといって反権力的にクサくもならず、なかなか素敵です。本書がきっかけとなって多くの人びとが古来の宗教意識に目覚めてくれたら、ずいぶん呼吸のしやすい世の中になるように思います。自殺率なんかずっと減るんじゃないでしょうか。

(新潮選書2008年1100円+税)

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2008年10月10日 (金)

西田幾多郎『思索と体験』

 最近もう一冊出す予定の『法と道徳のあいだ』の最終章にかかりきりで、電車の中では立っているときしか本を読んでいません。おまけに読んでいるのがこの西田幾多郎の本なのでゆっくりゆっくり考えながらということになり、一週間に一冊のペースになっています。これではブログのタイトルを「1週1冊」に変えなければいけなくなってきました。
 さて、本書は西田幾多郎が同時代の哲学者たちを縦横無尽に論じている原稿が多数収録されています。随所に著者の鋭い洞察力が示されています。また、今ではほとんど読まれていないロッツェなどが高く評価されているので、邦訳があるかどうか探してみようと思います。
 西田幾多郎は1870年生まれなので、私が研究しているハンガリーの法学者ショムロー(1873-1920)と同時代人です。両者が読んでいる哲学者も新カント派のものが多く、かなり重なっているので参考になります。マッハやアヴェナリウスなどはショムローの弟子のK・ポランニーも感銘を受けていた哲学者ですが、本書にも名前は登場してきます。アヴェナリウスも今や忘れられた思想家ですので、いずれ調べてみます。
 もともと本書は論文やエッセーを集めたものなので、全体は体系的ではありませんが、逆にどこを読んでも西田幾多郎その人が穏やかにかつ熱く語っています。例えば純粋経験の直接性についてこう述べています。
 「いわゆる経験論者の直接も、ヘーゲルの直接も余のいう直接ではない。此の如き直接は思惟に因って作為せられた抽象的状態であって、かえって間接であるといわねばならぬ。余の直接というものは独立自動なる具体的全体である、ヘーゲルの概念の如きものである。何となれば真に純粋にして直接なる経験は此の如く生きた経験である故である」(115頁)
 さまざまな誤解を恐れずに思い切ってこういうことを言えるのは、初出が枚数に制約のある短い文章だったからではないかと思います。それで、言い切ってしまったことをまた反芻しながら、著者自身が思想を鍛え上げるという過程を繰り返しているのではないかと想像されます。やっぱり沈思黙考するだけではなく、発表しないとこういう機会はないわけですから、とにかく書かなきゃいけません。
 とにかくどんな媒体でもチャンスがあれば逃さず書くようにとは、中村雄二郎先生の日頃の教えでしたが、先生も身をもってそうした経験をされていたのでしょう。

(岩波文庫1980年400円)

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2008年10月 5日 (日)

鐸木能光『パソコンは買ったまま使うな! フリーソフトで作る快適環境』

 いまだにメインのパソコンのOSがWindows2000なので、古本屋で見つけた本書ですが、丁度いいあんばいでした。Xpまでは本書でOKです。内容はタイトル通りの本ですが、有益なオンラインソフトが多数紹介されていて、良さそうなものは早速インストールしてみました。確かに厳選されたいいソフトばかりです。
 著者の朝日新聞土曜版のかつての連載も有益だったので、切り抜いてはスクラップブックに貼り付けていましたが、本書は単なるオンラインソフトの紹介本ではありません。拡張子とファイルの整理についてのエクスプローラーの設定から話が始まり、マイクロソフト出来合いのものではないソフト文化の構築を願う著者の気持ちがよく伝わってきます。要するに思想がしっかりした本です。一家に一冊あるといい本です。

(岩波アクティブ新書2003年740円+税)
 
 

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2008年10月 3日 (金)

西田幾多郎『善の研究』

 西田哲学は難解だといわれますが、本書はそうやって脅されているほどではありません。哲学としてとことん考えようとしている姿勢は好感が持てます。いろいろと参考になるアイデアがたくさん詰まっています。
 この哲学者は結局直感でスパッとわかってしまって、論理はあとからということが出発点のようです。禅宗と似ているという指摘があるのも道理です。本人は実は論理が嫌いで面倒くさがりだったのかもしれません。
 しかし、「純粋経験」を核にしたさまざまな考察は、私が言うのも何ですが、真の才能を感じさせるセンスのいい思想家だと思います。哲学は「お勉強」だけではどうにもならない分野なので、こうしたセンスがある人が取り組んでくれなければ始まらない気がします。
 それにしても著者の感受性と論理展開の特徴ないしは癖が、西洋の哲学者と違って、そこはかとなく身近な感じがするのが不思議です。日本人が哲学をするのなら、必ず西田を通らなければならないというようなことが言われるのもわかります。私の師匠の本にもそう書いてあったので、いつも頭の片隅にはありましたが、やはりこうして読んでみるとまったくその通りだと実感しました。
 特に、宗教の重要性が後半で強調されるところは面白いと思います。具体的には次のようなくだりです。
 「実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻(ただ)に人類一般の善と号するばかりでなく、宇宙の本体と融合し心霊と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである」(206頁)
 ところが、後の西田哲学の信奉者たちは宗教のことには触れたがらない人が多いような気がします。そのくせそういう人たちこそが中心となって西田哲学を宗教的にまつりあげて来たのですから、これはまた実に日本的な現象だと思います。ひょっとしたら今でもどこかに西田神社が建っているのかもしれません。
 そのあたりの神道的なもやもやをはらうためにも、これから徐々に著者の全集を読んでみるつもりです。

(岩波文庫1979年改版450円)

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2008年9月24日 (水)

内田樹『街場のアメリカ論』

 久々の更新です。自分が20年前に書いたハンガリー語の論文の翻訳がようやく終わったので、これからまたぼちぼち更新します。自分の論文の感想もそのうちアップします。一応ハンガリーでは著書扱いで大学図書館に入っていますので。
 さて、本書ですが、著者の本の中でもベスト5に入ると思います。アメリカ論としても実に新鮮でした。ハリウッド映画やアメリカンコミックの精神分析は相変わらず見事です。確かにアメリカの大衆の欲望が読み取れるようですね。それにしても、映画は特によくフォローされていて感心させられます。
 また、本書は精神分析的ですので、アメリカという鏡に映った日本の姿も浮き立つ仕組みになっています。それと、さまざまなエピソードが印象的で、フランスのヴィシー政権がインドシナ支配に関する情報を隠匿していたことや、イタリアのピエモンテ発のスローフード運動とファシズムの相似性、あるいは『創世記』にアブラハムが一人息子のイサクを生け贄にする際に「悩んだ形跡がないこと」などの指摘には教えられるところが多かったです。

(NTT出版2005年1600円+税)

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2008年9月10日 (水)

笹山尚人『人が壊れてゆく職場―自分を守るために何が必要か』

 労働事件専門の弁護士さんの本です。非正規労働者の悲惨な状況と法的解決の方法が事例に則してわかりやすく述べられています。裁判だけでなく労働審判などを通じた紛争処理の概要もわかります。その点では労働法の格好の入門書にもなっています。

 それにしても、世の中には酷い企業が多いですね。本書に出てくるのは会社ぐるみで派遣労働者やアルバイトを人と思わずに切って捨てるというやり口ですから、かなりえげつない部類に属します。

 それはそうと、著者が労働組合を高く評価してくれているのには、少なからず関わりのある私にとっても勇気づけられるところがあります。以下長いですが引用します。


 ロウドウクミアイってなんだろう。なんか、ダークなイメージがあるんだけどな―。

労働組合についての多くの人のイメージはそんなものではないだろうか。

しかし、労働法について学び、現実の労働事件で多くの労働者が、使用者の勝手で違法な行為に苦しめられているところを毎日見ている私の立場からすると、「まともな労働組合」というのは切望する存在である。また、そういう労働組合との付き合いは実に清清しく、楽しい。そして、そういう組合は実は結構多い。しかし、それは世の中の一般的潮流とはなっておらず、多くの人が労働組合の良さを知らないことは、日本にとって大きな不幸の一つだと私は思っている。(170頁)


本書はすべてのサラリーマンや非正規労働者に読んでほしい本です。団結すればもちろん一人でも闘えるということを教えてくれます。

 

(光文社新書2008年760円+税)

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2008年9月 9日 (火)

岡本吏郎『あなたの会社にお金が残る 裏帳簿のススメ』

 簿記・会計の知識がほとんどない私でも、よくわかりました。脱法行為を勧める本ではなくて、ちゃんとした経営指南の本です。大学の経営学部の学生に読ませたい本です。
 本書から教わったのは、決算書は税務署のためにあるということで、決算書は経営の役に立たないという点でした。決算上では利益が出ていても破綻してしまうなんてことが起こるのも決算書が経営状況を正確に反映していないことの現れだそうです。
 そこで経営状況を正確に反映するのが著者の言う「裏帳簿」というわけです。ネーミングがちょっと偽悪的な感じですが、具体的なシミュレーションに即して経営の正攻法がわかりやすく書かれています。また、日本の税制の歪みや社会保険庁のインチキも指摘されていて、いろいろと勉強になりました。
 驚いたのは、移動年計による分析手法で、前年の移動年計と今年の移動年計の差額を見ていくと、今年の移動年計の先行指標になるというところでした。一種の数値的感性が存在するということです。最後はこういった感性がわからないといけないのが経営の世界なのだそうです(236頁)。著者はなぜ働いているのかと言うことについて、「私は『美』のために働いているような気がする」(259頁)と書いていますが、そうなのかもしれません。
 本書は中小企業を対象に書かれた本ですが、私立大学の経営にも参考になるところが少なくないと思います。といっていろいろ比較しながら読んでいくと、今の職場がかなり危ないところにいることがわかって、ブルーな気分になってきました。
 仮に大学の経営者を公募したら、優秀な人が来てくれるでしょうかね。「もう手遅れです」なんて言われそうな気もします。

(アスコム2004年1500円+税)

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2008年9月 5日 (金)

内田樹『知に働けば蔵が建つ』

 例によって著者の鋭い観察と考察が光っています。1995年の中国の反日キャンペーンをなぜ日本ではほとんど報じなかったのかという問題は、江沢民の心理を実によく読んだ評論で、言われてみて初めて気付かされました。ないことを見るというのは、ホームズ流ですね。さすがです。
 また、パリ在住の日本人で鬱病になる人というのが毎年百人程度いて、その7割以上が女性という話は意外でした。何となく男性の方が多いような気がしていましたが、そうではなかったのですね。私がパリをぶらぶらしていた頃は、明らかにヘンな日本人留学生をときどき見かけましたが、そのとき以来おかしいのは男性が主流なんだろうと思いこんでいました。そのときのおかしい連中も帰国して大学の先生になっているかと思うと不気味ですが、女性が多いというのは最近の傾向なのでしょうか。
 いずれにしろ、これもいろいろと教えられる本でした。

(文藝春秋2005年1524円+税)

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2008年9月 3日 (水)

内田樹『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』

 ラカンとレヴィナスの共通点なんて考えたこともありませんでしたが、その「わからなさ」が共通しているというのは、著者の卓見です。で、どちらの思想家も、第二次大戦を潜り抜けて「おめおめと生き残ってしまった」感覚を持っているという点でも共通しているようです。いろいろな死者を背負ってあの難解な文章を書いていると思うと、なるほど著者のような読解が可能になるのですね。著者の思想の核もまた本書に凝縮されています。エッセーで読んだあの話のもとはこんな形だったんだというところがたくさんあります。
 で、ラカンとレヴィナスですが、私にとってはレヴィナスの方が魅力的です。ラカンは意匠としては感心させられますが、内容はフロイトでいいんじゃないかと思ってしまいます。レヴィナスは旧約聖書の中に棲んで、その理不尽さを粘り強く思索している感じです。次のレヴィナスの引用はまさにそんな感じのところです。

 「〈善〉はそれ自体として〈善〉なのであり、〈善〉が欠如しているという欲求とのかかわりによって〈善〉なのではない。それは欲求に対する過剰なのである。まさにそれゆえに〈善〉は存在の彼方にあるのだ」(248頁)

 この「善性の過剰」というのは現代思想的である以上に聖書的だと思います。で、考えるとよくわからなくなりますが、わからないこそ魅力的なフレーズです。いったいどんな死者たちの声を聞きながらながらこんなことを考えているのでしょうね。

(海鳥社2004年2500円+税)

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2008年9月 2日 (火)

内田樹『こんな日本でよかったね―構造主義的日本論』

 新刊です。面白かったです。著者は相変わらず絶好調です。
 女子大で教えているという状況が、著者にとってはかなり重要な思考の材料を提供しているように思います。この世を生き延びるためには、危機に際して「他者からの支援」を取り付ける能力が必要で、そういう「強い個体」というのは「礼儀正しい個体」だという著者主張には全面的に同意します。それにつけても、こうした戦略を無意識のうちにとっているのはお嬢さま大学の、ラブリーな女子大生ですから。
 また、ナチスの宣伝相ゲーリンクはベルリン陥落直前に「ヒトラー自身がドイツ人を滅ぼすために送り込まれたユダヤ人の手先だった」と述べていたというのは、へぇーって感じです。これを、愛国心がグロテスクな自己破壊と背中合わせだということの例として、著者は紹介していますが、いろいろと考えさせられます。
 最後の章の「フェミニンな共産主義社会」が、今の日本社会の「ある種の楽園」かもしれないという話は、実感として確かに説得力があります。
 もうしばらく著者の本をいろいろと読んでみます。

(バジリコ出版社2008年1600円+税)

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2008年9月 1日 (月)

内田樹『死と身体』

 夏休み中は地方巡業スクーリング授業で、てんてこ舞いでした。先週ようやく1週間休みを取ることができましたが、これが新年以来初めての研修休暇でした(3月なんかゼロ日だったし)。それで、その間は論文をまとめていたので、机には向かっていたのですが、そこでわかったことは、結局、通勤時間がないと一般書が読めないということでした。
 今日から通勤なので、早速読んだのが本書です。著者の講演がもとになっていますが、講演の独特のライブ感がうまく伝わってきます。書き加えたところもあるのでしょうが、書かれた文章とは違ったリズムが感じられて、いい味わいです。また、著者が普段から相当いろんなことを考えている人だということもよくわかります。あらためて著者は思想家なのだということを確認しました。機会があったら著者の講演も聴いてみたいものです。
 本書の最後の章の死者とのコミュニケーションを論じたところは今まで他の本で読んだことがなくて、とりわけ新鮮でした。思想家たちはみんな死者たちと対話していると考えると、確かに腑に落ちるところがあります。レヴィナスやラカンやハイデッガーを読むときのコツみたいなものかもしれません。
 そういえば、先週、昔書いた論文に手を入れていたとき、戦後のハンガリーでマルクス主義法哲学の重鎮だったサボー・イムレが、「俺のことを批判しないでくれ」と言っているような気がして仕方がありませんでした。生前いろんな人をいじめては恨みを買っていた人ですが、きっと本人の予想と思想に反して、今も亡霊としてさまよっているのでしょう。何も日本にまで現れなくてもいいと思うのですが、彼の本を真剣に読んだ人はよっぽど少なかったのでしょう。
 サボー・イムレの役回りも大変だったと思います。裁判官を務めていたところ、いきなり党の命令によって業績も何もないのに法哲学者にさせられ、戦前の自由主義的法思想家たちの著作を「ブルジョア的だ」といって徹底的に罵倒し尽くすことが仕事だったのですから。
 しかし、いずれにしても、こんなのが身近にうようよいるような大思想家たちの文章が、わかりにくいものになっても仕方ないのかもしれませんね。

(医学書院2004年2000円+税)

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2008年8月 8日 (金)

池田清彦『新しい生物学の教科書』

 現行の生物学の教科書をダシにしながら、著者の生物学が語られます。それにしても現行の教科書の木で鼻をくくったような文章というのは、どうにかならないですかね。ま、だからこそこうしたユニークな本が登場する余地もあるのですが、高校生以下の生徒たちはいい迷惑です。生物が好きになるきっかけは少なくとも教科書からは得られません。
 本書ではまず、遺伝現象と遺伝子の伝達現象とはまったくレベルが違う話だということが強調されます。つまり、「真に遺伝されるものは細胞、真に遺伝されることは生きている形式(生命システム)である。このシステムはDNAの情報を解釈して個体をつくり形質を発現させる。DNAは遺伝されるものの一部でしかなく、DNAが担う情報は遺伝されることの一部にすぎない」(40頁)ということなのです。
 だから、遺伝現象がすべて遺伝子に還元できるかのような記述は明らかに間違いだと著者は言います。また、その点で、最も大きな遺伝的変異はシステム事態の変化ということになるのですが、そのメカニズムはまだ解明されていないし(47頁)、DNAと形質(生物、生命)とを結ぶ論理はいまだにヤブの中である(295頁)と言います。
 今日、専門家までがテキトーなことを言っていることも少なくないように思いますが、そうしたことが正確に指摘されているのは重要です。実は専門家こそは、狭い世界での思い込み(パラダイム)によって、自分の職域を守ろうとしている珍生物かもしれません。
 実際、生物学を履修しないまま医学部に進学できた時期もあるのですから、専門家といって安心していると学園祭で変なクレープを食べさせられたりするかもしれません。
 本書では、教科書でまったく触れられていない寿命や老化、癌といった問題もしっかり扱われていて、こんな教科書だったら生物学にも興味が出てくるなあ、という気にさせられます。

(新潮文庫平成16年514円+税)

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2008年8月 6日 (水)

日垣隆『定説だってウソだらけ』

 サイエンス・トークというラジオ番組から生まれた本の第5弾です。いつものように多彩なゲストがそれぞれ興味深い話をしてくれます。本書では定説に異を唱える研究者たちが気負わずにリラックスして鋭いことを言っています。
 オーロラというのは北極圏を中心とした輪になっているなんて知りませんでしたが、これを主張する赤祖父俊一氏が10年近く変人扱いされていたというのも、ま、そんなものかもしれません。氏はNASAのジェット機に乗って300時間も観測したというのですから、本当に感心させられます。
 印象深かったのは寄生虫の研究をしている藤田紘一郎氏の話で、自身のおなかの中でサナダムシを飼っているとのこと。ナオミちゃんなんて名前まで付いています。栄養価が高い食べ物はサナダムシが食べてくれるので太らないそうです。また、氏の説ではおなかの中に寄生虫を飼っているとアトピーが治るそうです。花粉症もナオミちゃんのおかげで治ったそうです。ただ、正式の治療として厚生労働省が認めることは当分なさそうですね。

(ワック株式会社2008年857円+税)

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2008年8月 5日 (火)

渡部昇一『学ぶためのヒント』

 著者お得意の人生指南書です。特に高校生に向けて書かれていますが、別に50歳になろうとする私が読んでも励まされ、勇気付けられます。考えてみれば、まだまだやりたいことはたくさんありますから、気分は高校生のころとあまり変わりません。英語の本を一冊書けるように英語の表現力をつけたいと思っていますが、これも時間ができたらやろうというのではなくて(夏休みも毎日出勤でいろいろと時間が足りないのですが)、一日に2時間とか決めて作文したりといった努力を明日からと言わず、今日からでもするべきですね。
 著者は勉強だけでなく、真向法などのさまざまな日々の努力を積み重ねて、70過ぎても股割りができるし老眼にならないし、たいしたものです。そういえば、目の訓練ってどうするのか具体的には書かれていないのが残念です。著者のストイックな姿勢はあの膨大な量の著作の裏づけになっているのでしょう。私もがんばらなくては。

(新学社2004年1648円+税)

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2008年8月 4日 (月)

白取春彦『哲学しようよ!』

 人生上のさまざまな問題にQ&A方式で哲学的に答えた本です。いろいろな工夫や仕掛けがしてあって実に読みやすいつくりになっていますが、だからといって内容のレベルは低くなっていません。問題によって答えてくれる哲学者が次から次へとちょっと凝った形で登場するのも面白いところです。新宿二丁目のカントとかオネエ言葉で笑えます。
 なかでもとりわけカントとヘーゲルの思想はわかりやすくまとめられています。ニーチェやサルトルに対する評価が低いのもこの著者らしいと思いました。本書の登場するエピキュロスの思想にはあらためて興味をもちました。エピキュロスの、苦痛や不快を避けて快楽だけを追求するという思想は、本書によると、どうやら思いっきり誤解されているらしいです。
 それにしても、あらためていろんな哲学者の思想のエッセンスを具体的な問題にあてはめてみると、やはり哲学者というのは変なやつらだなあとつくづく思います。ヘーゲルなんてホラー哲学だとは著者の理解ですが、世界精神という亡霊のような思想が自己展開しながら世界を支配しているなんて、かなりあっちの世界の発想かもしれません。

(すばる舎2004年1400円+税)

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2008年8月 3日 (日)

日垣隆・岡本吏郎『世界一利益に直結する「ウラ」経営学』

 経営に関する様々なヒントがたくさん得られる本です。特に第5章の「《経営者の資質》この社長なら会社は安心か?」にはどきっとさせられました。うちの会社、はっきり言って不安です。
 経営コンサルタントの岡本氏によると、「現実を直視できる人は、全体の2割しかいません」(146頁)ということですが、これからして、もういけません。明らかに8割の方に入ってしまっています。さらに経営者というものは「もう間に合わないというところに来たときには、残念ながらもっと変化しない方に行くんですね。人間というのは、うまくいかなくなると、さらに同じことを繰り返す動物なんです」(153頁)とあります。
 今の社長になって、何もしてこなかったと公言しているくらいですから、何もしないというパターンをこの10年近く繰り返しているわけです。そして、こうして困れば困るほど現状維持の罠にはまっていくのがどうやら典型的なダメ企業のパターンのようです。あまりにもハマりすぎていて怖いくらいです。これでは岡本氏のようなカリスマ・コンサルタントでも匙を投げられるのではないでしょうか。
 それはさておき、本書では会計常識や価格設定といった経営戦略について具体的な助言がなされていますので、独立を目指す人にとっても役立つと思います。著者たちは「マクロの話が好きな人は問題解決能力が低い」と言っていますが、実際に本書の内容は具体的な提案や気づきに満ちています。いい本です。

(アスコム2008年1400円+税)

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2008年8月 2日 (土)

新藤宗幸『財政投融資』

 財政投融資は戦後のわが国で、官僚の打ち出の小槌として機能してきました。簡保や郵貯を財源として好き放題に使っては、結果として天下り先の特殊法人と負債だけが残る仕組みになっています。本書はそうした財政投融資の沿革と2001年の改革以降の状況が正確に描き出されています。
 それで、結局2001年改革はどうだったかというと、「組織の『衣替え』にすぎなかった」(75頁)と見事に言い切っています。入り口としての郵政民営化は、郵便貯金銀行も郵便保険会社も実態として「国債消化機関」になったにすぎないわけですから、やはり衣替えでしょうね。
 したがって、著者によれば、「郵政民営化をめぐる一大騒動は、『衣替え』によって既得権益を護ろうとする集団と、既存制度の『温存』によって既得利益の維持をはかろうとする集団との争いにほかならなかった」(224頁)ということになります。これはその通りでしょう。昨日の組閣を見ていても、政治家は誰も本気で改革なんて考えてこなかったんだということだけはわかります。官僚連中は大喜びでしょう。(ついでに言えば、経済産業相や防衛相の名を見て、中国共産党も喜んでいます。)
 しかし、いつまでもこうやって官僚たちを喜ばせているようでは、本当に国が沈んでしまいそうです。

(東京大学出版会2006年2600円+税)


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2008年8月 1日 (金)

岡野雅行『世界一の職人が教える 仕事が面白くなる発想法』

 本書の特徴は話題がより具体的で詳細なことです。例えば、著者が玉の井のお姐さんたちにいろいろ教えてもらったというのは、具体的には太鼓持ちのようにしてくっついて歩いたということが、本書ではよくわかるように書かれています。おそらく編集者兼インタビュアーが著者に対してかなり具体的にどうしたのかということを聞いたのでしょう。ただ録音を起こしておしまいにはしていません。さすが、この手の本をたくさん出している出版社だけに、かなりいいセンスで編集されているように思います。
 また、著者が子どもの頃、防空壕に入って遊んでいていたら、その防空壕が崩れてきて、中に取り残されてしまったというエピソードは本書が初めてです。そのとき著者のお母さんが、ヤクザのお兄さんたちにタバコを配って穴を掘って助けてもらったということですが、著者の母上の機転のききかたも普通ではなかったように思います。
 この二つ以外の話はほとんど他の本にも出てくるのですが、やっぱり何度読んでも新鮮で面白く、損した気にはなりません。同じ話でも何度も聞きたくなります。

(青春出版社「青春文庫」2008年524円+税)

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2008年7月31日 (木)

岡野雅行『人生は勉強より「世渡り力」だ!』

 著者の言う「世渡り力」というのは「人間の機微を知り、義理人情をわきまえ、人さまにかわいがられて、引き上げてもらいながら、自分を最大限に活かしていく“総合力”なんだよ」(18頁)とあります。このかわいがられ、引き上げてもらうというのがポイントです。
 これと同じことですが、本書では「人が寄ってきやすい“スキ”をつくれ」という章があって、新鮮でした。著者の言葉では「スキは愛嬌なんだよ。『あのヤロウ、バカだねぇ』と思うから、何か言ってやりたくなるんだし、『あいつ、しょうがねぇな』と感じるから、なにかしてやりたくなるんじゃないか、そうだろう?」(35頁)ということになります。
 そのとおりです。この戦略は人類学的にも社会学的にも哲学的にも理にかなっています。勝ち組みとやらになろうとして他人を蹴落とそうとばかりする人にはわからないところです。
 本書は取材が上手なのか、他書と少し違う話を引き出しています。読みやすいつくりになってもいて、編集者の腕のよさが光っています。新刊ですし入手しやすくお勧めです。

(青春出版社2008年750円+税)

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2008年7月30日 (水)

岡野雅行『俺が、つくる!』

 本書も岡野雅行氏のインタビューからできた本です。これも今まで読んだものと大体同じ内容ですが、面白さは変わりません。語り口の魅力でしょうか。
 それでも、本書で初めて知ったことも少なからずあります、その一つは、仕事を紹介してくれる人との間で利益をいつでも折半する、ということです。五割もらえるなら仲介者も張り切ることでしょう。それでいったん仕事が成立した後、仲介者を飛ばして直接仕事が入ってきた場合には、著者は仲介者に義理立てして絶対に引き受けないとのことです。
 こうした信用の積み重ねが今の岡野工業をつくってもいることがよくわかりました。著者が義理と人情を大切にするというのはこういうことなんですね。
 義理と人情といえば、著者は子どものころ、ヤクザのおにいさんの刺青の入った背中を流しながら、
 「おじさん、この虎、目が一つないね」
 「ばか、よく見るんじゃねえ」
 「なんでやめたの?」
 「痛えからだよ・・・」
なんてやりとりしながら育った人です(212頁)。そんな著者だからこそ、そのお兄さんからお小遣いをもらったり、いっしょに海水浴に行ってボディーガードしてもらったりと、人情の機微を早くからつかんでいる人だから、おっそろしく機転がきくし、何より人を見る目があるのでしょう。
 だから、そんな人の話を聞くだけでも、世界が広がり、本当に勉強になります。

(中経出版2006年495円+税)

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2008年7月29日 (火)

奥野俊一監修『バスケットボール 試合に強くなる戦術セミナー』

 バスケットボールの戦術についての本格的な解説書は本書が初めてだろうと思います。トップレベルの戦術が丁寧に解説されていて、指導者必携の好著です。私の好みの1-3-1のオフェンス隊形からの展開が詳細に書かれていて重宝します。また、そのアイデアの豊富さに驚かされました。本当によく研究されています。

 本書は豊富な写真と図解で理解を助けてくれますが、できればDVDも作成してもらえるとありがたいところです。これだけの内容なら、別売りで高価でも買いますけどね。

 それはそうと、最近母校の松江北高校がインターハイやウィンターカップに出てこなくなったので、ちょっとさびしい気分です。以前はよく応援に行ったものですが、このところ中部圏の大学や高校の試合をときたま見るくらいです。こんなとこでもセネガルやリトアニアなんかの留学生が活躍しているくらいですから、ひところとはかなり様変わりしちゃいました。

(実業之日本社2008年1300円+税)

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岡野雅行『あしたの発想学』

 これもいい本でした。著者の本は基本的にインタビューから構成されているつくりなので、お得意の話が本書でも繰り返し出てきますが、少しずつ微妙に新しいことも含まれていて、そのたびに感心させられます。

 本書では帝国ホテル4階のダックスのバスタオルの使い心地がいいとか、吉原ではおでん屋の親父でポン引きやっている手合いがいて、その人が結構鋭いことを言ったりするなんて話が面白かったです。

 また、大企業相手の喧嘩では、FAXを使うと理不尽な話が相手の会社の他の部署にまで広がって有効だ、といった知恵に感心させられました。相当の喧嘩上手です。大会社のずるがしこさもしばしば指摘されていますが、その大会社の上のほうに必ずいる「インチキ野郎」(196頁:どこでもいますね)も著者には相当手を焼いたはずです。

 とにかくユニークな人ですが、自分ではは何一つ特別なことはしてこなかったと言います。「ただ、時流に流されず、変わらずに日本人気質を続けながら手を動かして額に汗かいて働いてきただけ」(232頁)とのことです。いや、それこそがなかなか出来ない立派なことだと思いますが、かつてたくさんいたこういう職人が今日のわが国では希少価値になりつつあるのが、実に残念です。

(リヨン社2006年850円+税)

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2008年7月28日 (月)

松浦元男・岡野雅行『技術で生きる! 1人1億円売り上げる経営』

 岡野氏は言うまでもありませんが、樹研工業の松浦氏もすごい人です。高い見識の持ち主でもあり、そこらへんの大学の経営学の先生なんか足元にも及びません。大企業が官僚化してダメになっていく中で、こうした並外れた技術力とアイデアを持つ中小企業が日本企業をリードしていけば、21世紀の日本は安泰です。二人とも歯に衣着せず言いたいことを言っています。思えば誰にも気を遣わなくていいですもんね。
 真面目にこつこつと、しかも楽しんで努力を積み重ねることで、こういう人たちの今日があるわけです。ズルして儲けようなんて全くないところが実に爽やかです。ここのところ不正でマスコミを賑わすズル社長たちのどことなく黒っぽい表情とは違って、お二人とも本当にさっぱりと明るい表情をしています。近くでお目にかかるともっとよくわかると思います。
 そういえば、最近は黒いオーラというか気配を持った人がますますよくわかって、面白いといえば面白いのですが、目の当たりにすると気持ち悪いものです。そういう人にはできるだけ近づかないようにしていますが、見ず知らずの人が電車の列に割り込んできたりとか、携帯電話をかけながら運転している車とかも黒々としていたりするので、街中でも油断できません。
 それはそうと自分も修行を重ねて、年とともに「いい顔」になるようにしたいものです。

(ビジネス社2004年1500円+税)

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2008年7月27日 (日)

岡野雅行『人のやらないことをやれ!』

 これもまた痛快な本でした。先日読んだ本と内容が重なるところが少なくありませんでしたが、噺家の持ちネタみたいで、何度読んでも飽きないという感じです。
 この間の本にもありましたが、玉の井のお姐さんたちから「何か人にしてもらったら、4回はお礼をいいなさい」と教わったとあります。食事をごちそうになったら、食べ終わったあとはもちろん、翌日、翌週、翌月と顔を合わせるとお礼をいうのだそうです。この心がけがあれば、確かにしっかり世渡りができるでしょう。人情の機微に通じた奥深いアドバイスだと思います。
 これに限らず著者はいろんなところでいろんな人から教わったことを本当に大切にしています。おそらく当時も聞く耳を持たなかった人は少なからずいたはずです。しかし、著者が本当のところは隠し持っている素直さとまじめさが、無数の人々の知恵を活用するのに役立ったのでしょう。著者は野暮なことが嫌いな江戸っ子なので、その辺でちょっと偽悪的にふるまってしまうようですが、実は相当に真面目な努力家です。
 著者がしきりに薦めている古典落語の「付き馬」と「蔵前駕籠」は、そのうち聞いてみようと思います。古典落語入門のCDに収録されているようですので、早速入手したいと思います。

(ぱる出版2006年1500円+税)

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2008年7月26日 (土)

古田博司『新しい神の国』

 日本は東アジアの宗族文化圏には属さない、独自の文化圏にあるということが何度も強調されます。多分正しいのでしょう。独特の日本文化圏はそもそも脱亜入欧する前から「別亜」だったという主張にも説得力があります。中国や韓国の現実をよく見ている人なら、著者の言うことに分があることがわかると思います。私も日々留学生のわがままとつきあいながら、実感としてわかることが少なくありません。
 著者の文章には独特の粘りがあって、なかなか深い味わいがあります。いろんな感情が交錯していることが感じられます。この文体は、ときには絶望の深さを現してもいますが、決して希望は捨てられていません。日本人を励ましてくれる本です。

(ちくま新書2007年700円+税)

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2008年7月25日 (金)

岡野雅行『学校の勉強だけではメシは食えない!』

 世間という書物から多くを学び、頭を鍛え、自分の腕を信じてたゆまず鍛錬することで、こんなすごい職人ができるんですね。確かに学校の勉強だけではこんなスーパーマンは育ちません。子どもの頃から遊郭で人を見る目を養い、ベーゴマを削っていつまでも開店するように改造しては友だちに売りつけて儲けたりと、なんだか常にすべてを楽しみながら自分の血肉にしていったという感じの人です。
 語り口が下町の江戸っ子のそれなので、日ハムの大沢元監督や本書の帯に言葉を寄せているビートたけしの雰囲気があります。そして何より発想が豊かで、語彙も表現力も実に豊富な人です。若い人には落語を聞くことを勧めていますが、本人もそうやって学んできたのでしょう。こんな人だからこそ「痛くない注射針」が開発できたりするのでしょうね。
 とにかく元気と勇気の出る本です。うち大学の学生たちにも強く推薦しておきます。

(こう書房2007年1,400円+税)

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2008年7月24日 (木)

古田博司『東アジア「反日」トライアングル』

 中国韓国北朝鮮が反日にこだわる理由を著者はこう述べます。
 「歴史上、中国や朝鮮では新たに王朝が生まれると、前の王朝の正史を編纂した。前王朝の記録をもとに、自王朝の正当性強化に役立つ部分を選びだし、都合の悪い部分は排除していった。そのようにして正史が完成すると、史料は往々燃やされてしまった。(中略)ゆえに新王朝は、天命を受けた正当性ある政権であることを示すために、自らが礼にかなっているという、自己中心の中華の歴史を常に作りだしていったのである」(81−82頁)
 当然彼らにとって、わが国は常に野蛮で道徳的に劣っていなければならないというわけです。
 このような歴史的で精神分析的な説明は岸田秀の著作以外にあまりお目にかかりませんでしたが、本書はなかなかの説得力がありました。著者は韓国で日本語教師をして殴られたりしながら、こうした問題を考え続けてこられたのでしょう。机上の空論ではありません。文章に血が通っています。
 ただ、抗日運動をした金日成と、その後の金日成は別人だというのが定説になっていると思っていましたが、本書ではその説はとられていないようです。ちょっと気になりました。

(文春新書2005年710円+税)

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今村都南雄『官庁セクショナリズム』

 後期授業で行政学を持つので、読んでおかなければいけません。で、まあ、学者の書いた本としては妥当ですが、やはりあまり一般読者にとって面白い本ではありませんでした。
 往々にして、こういう本は先達を批判するにしても気を遣うわけで、一般読者はその分蚊帳の外に置かれます。それで、新機軸を出すかと思うと、それは外国人タレントの新理論の輸入だったりするので、がっかりさせられることが少なくありません。本書もそのわが国の学問のスタイルにかなり忠実で、ま、行政学に関心のある人以外にはおすすめできません。
 セクショナリズムは官庁に特有の現象でもないし、官僚制の諸悪の根源でもないという学者らしい結論はある意味で妥当なものです。その点での個別の考察や批判は鋭いですが、ではその根本の原因は何かということになると、論点がぼやけてしまいます。また、事実上セクショナリズムを調整することになるいわゆる事務次官会議について、どこにも触れられていないのは物足りない気がします。内閣法の改正とそれが骨抜きになる近年の状況も本書では無理にしても、このシリーズの中で誰か触れてくれるとありがたいのですが、そうした生々しい現実を扱うのはそもそも学者には無理なのかもしれません。

(東京大学出版会2006年2600円+税)

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2008年7月18日 (金)

小川三夫『木のいのち木のこころ(地)』

 理屈ではなく体と心を使って仕事をしている宮大工のお話です。お師匠さんの西岡常一も偉い人でしたが、お弟子さんも小川さんもしっかりこころと技術を受け継がれています。すごいですね。途中に幸田文が出てきて作業を手伝ったなんて話があったりして、そうだろうなと目に浮かぶような気がしました。
 哲学や思想、あるいは学問なんかもこうしてあまり語らずに修行させるというのが、いい方法なのかもしれません。そんな時代が来るような気がすると、かつての私の師匠の中村雄二郎は言っていました。確かに手取り足取り教えるというタイプではありませんでしたが、そういえばその師匠も本来なら職人が似合うような風貌でしたね。こういう本を読むとむしろそんな時代が来ないとダメなのかもしれないという気がしてきます。頭だけで哲学や思想は本当はやっちゃいけないと思います。
 ともかく、いろいろと教訓に満ちた本でした。版元の草思社はいろいろといい本を出しているのですから、何とか立ち直ってほしいものです。

(草思社1993年1500円)

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2008年7月17日 (木)

田中・倉持・和田編『世界歴史大系 ロシア史3 ―20世紀―』

 ようやく全3巻を読み終えました。特に20世紀は失敗と苦しみだらけの歴史で、国民にとっては本当に気の毒な歴史です。戦時体制のまま国家社会主義が形成されていくわけですが、緊急避難的な政策が常態化し、官僚制によって固定化されていく歴史でもあります。真相が明らかになっていない政治的事件がかなりあり、統計もあやふやなので、歴史家にとっては何とも悩ましい時代です。
 戦時体制の中で成長していった官僚制という点では、わが国のそれと共通する部分も少なくありません。かつてゴルバチョフが「日本はもっとも成功した社会主義体制だ」ってなことを言っていましたが、座布団一枚あげたいくらいです。その日本の改革は日暮れて道遠しです。時代遅れなのですけどね。官僚も既得権益がかかっているだけにしぶといものです。
 この苦難の歴史に対する評価が書かれていないなと思っていたら、最後に補章「社会主義の七五年をふりかえって」として、取り分けて触れられていました。和田春樹がご自身の説を「ソ連社会主義七五年の意味を文明史的に問う新しい試論」の一つにちゃっかり位置づけているのに妙に感心させられました。この心意気だからこそ大御所なのか、大御所だからこそ許されるのか、大胆な振る舞いです。
 それとは別に、ソ連崩壊後のヨーロッパでは広く読まれていた『共産主義黒書』などについて一切触れられていないのが気になりました。 20世紀ロシア史は、あと10年くらいたってから、新たに書かれたほうがいいかもしれません。

(山川出版社1997年5343円+税)

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2008年7月14日 (月)

谷沢永一『日本人が日本人らしさを失ったら生き残れない』

 日本人は「未然形の劣等感」、つまり、まだまだ自分は遅れているとつねに考えて努力を続けるところに、その国民的特徴があるとの仮説をもとに日本思想史をおさらいしてくれます。説得力があります。職人的凝り性の気質もこれに基づくのかもしれません。
 本書も著者の他の著書と同様に、いろいろなエピソードと一流の着想で読者を楽しませてくれます。
 とりわけ感心させられたのは、源氏物語や大鏡の批判精神を指摘することだけでもすごいのに、さらにそれが古典として残されてきた日本文化の懐の深さにまで言及するところです。さすがマルクス主義の正当異端論争で鍛えられた人だけのことはあります。
 また、岩波古典文学大系の校注が当初すべて東大の学閥で固められていた経緯なども書かれていて、道理で木で鼻をくくったような語注に終始しているものがあるわけだと合点がいきました。要するに無能な学者にお鉢が回ってきたというわけだったのですね。
 そういえば、そのボスの一人、久松潜一は源氏物語の教科書註に、何かとんでもない間違いを書いていると、かつての高校の古文の先生がおっしゃっていましたが、もちろんそういうことはあったんでしょう。有象無象の弟子たちなら、もっととんでもないことになっているのかもしれません。とはいえ爾来古典文学大系のほうはそのまんま実は学会的には権威になっているようですね。ま、どの学会も似たり寄ったりですが。
 本書の最後は日本人の特性としての事実を重んじる精神が、明治時代以降今日に至る官僚制支配のために、ずいぶん損なわれてしまったという話で終わっています。著者は伊藤仁斎のリアリズムに多くを学んでいるようです。今まで仁斎を読んだことはありませんでしたが、私も主著『童子問』を読んでみようと思います。

(ワック株式会社2006年1500円+税)

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2008年7月 9日 (水)

橋本努『自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論』

 戦後日本社会の精神史をサブカルチャーを題材に、一種の理念型として論じた秀作です。確かに社会に影響を与えた作品は分析する価値があると思います。学生運動に「あしたのジョー」が影響を与えていたとは知りませんでした。戦後のカストリ雑誌から尾崎豊、そして「エヴァンゲリオン」に至るまで、ほんとうに丹念によく調べられています。
 著者とは昔一度お会いしたことがありますが、そういえばアニメの主人公にしても良いくらいの美青年だったのを覚えています。議論も誠実で正統派です。マニアックで裏街道に出入りしている自分とはえらく違う気がします。
 それで結局「自由」は今「創造の自由」の問題に収斂しようとしているようなのですが、それが本当なら、造形学部を抱える勤め先の大学の未来は明るいかもしれないという気がしてきました。入学者数は減ってきていても、今後希望がもてるかも、と淡い期待を抱かせてくれます。ま、勝手な思い込みですが。

(ちくま新書2007年780円+税)

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2008年7月 8日 (火)

田村裕『ホームレス中学生』

 同僚が貸してくれました。いい本でした。読みやすいし売れているのもうなずけます。
 淡々と大変な経験が、飾り気なく書かれていますが、早く亡くなったお母さんを初め、いろんな人への愛情と感謝の気持ちがストレートに伝わってきます。温かい気持ちにさせられます。困窮した一家に周囲の人が救いの手をさしのべてくれるところがいいですね。まさに「弱さ」がネットワークを作るというという好例かもしれませんが、ま、そんなことはどうでもいいことです。
 それにしても、中学生にもかかわらず公園でホームレス生活を送る著者もそうですが、その家族を「解散」してしまった著者のお父さんもこれまた大変だったことでしょう。今ごろどうされているのでしょうね。ちょっと気になります。
 借りた本ですが、新たに買って家に置いておくおくつもりです。

(株式会社ワニブックス2007年1300円+税)

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2008年7月 7日 (月)

橋爪大三郎『仏教の言説戦略』

 これが著者の最初の論文集だそうですが、その後の構造主義論や宗教社会学へと展開していくテーマの種子が、本書の中で播かれ、発芽しつつあったことがよくわかります。元気がよくて、いい感じです。
 著者の本はどれも明快ですが、これも複雑な議論をうまく図式化して、わかりやすく料理してくれています。レヴィ=ストロースからフーコーへの方法論的な流れは勉強になりましたし、仏教やイスラム教をウィトゲンシュタイン言うところの「言語ゲーム」の総体としてとらえるという試みは、その着想だけでもコロンブスの卵ですし、議論も説得力があります。こういうのはウィトゲンシュタインの研究者にはできない芸当です。また、法の言語空間についての考察もいろいろと示唆的でした。
 今後とも何かにつけて読み返したくなるような本です。

(勁草書房1986年2900円+税)

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2008年7月 5日 (土)

『ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探究』

 その昔二十代のころ、『論理哲学論考』の英独対照版を丹念に読んだことがあります。最後に用済みになった論理の梯子を捨て去るようなことが書かれていたのが印象的でした。うーん、何のために苦労してここまで読んだのかという気にもなりましたが、むしろ笑ってしまった記憶があります。
 それがいわゆる前期ウィトゲンシュタインですが、本書は「言語ゲーム」という言葉=思想の森に迷い込んでしまった著者の七転八倒がつづられています。今まで避けて通ってきましたが、言語が主人公になる現代哲学の問題を自分なりに解こうとすると、やっぱり読まずにいることはできないと観念して、3日がかりで熟読しました。
 それで、後期ウィトゲンシュタインもやはり、前期と別人ではありませんでした。相違点以上に共通する発想と議論の進め方が多いと思います。結論の違いはたいしたことではないように感じます。
 さて、真理の光が体系的論理的言語を通じて、現実の世界を照らし出すというイデア論を、徹底的に疑うというのは、西洋社会ではおそらく狂気の一歩手前のところまで行くことになるのでしょう。自明性が信じられなくなるということと同じですから。ウィトゲンシュタインはそんな大変なことをしています。
 結局、ウィトゲンシュタインの目には、言語はそれ自体よくできたゲームとして映るのですが、これが無数に重なり合って共存しているのは、考えようによってはかなり奇妙な世界です。実際奇妙な例をたくさん思いついては自問自答を繰り返すので、冗談なのかなと思われるところも少なくないのですが(「自分の頭に手を当てて、「私はこんなに背が高い」と言ったりする人なんかが出てきます)、本人はいたって真剣なのです。
 イデアについては、実は本人はその存在をおそらく信仰として堅持していたような気がしますが、それだけに何か痛々しい感じがします。言語の問題を乗り越える鍵は、ウィトゲンシュタインにとっては「像=Bild」(訳語は「映像」。ちょっと違和感がありますが、訳語に困るのは確かです)の扱いにあると思いますが、これは『論理哲学論考』のときから登場しながら、本書でも結局はっきりとした形にはなっていませんでした。
 ウィトゲンシュタインにないのは「なぜ人はそれでも言語ゲームに惹かれるのか」という問題意識で、それを権力的に解いたりすることも可能でしょうし、ラカンのようにフロイト的に解いたり(なんのこっちゃ)できるでしょうが、ここは読者に道を空けておいてくれていると考えてもいいかもしれません。
 唐突ですが、私はこれは劇的なイメージが鍵になると考えています。人間存在の本質は劇的な構造の中に示されるからです。演劇については誰もちゃんとわかっていません。かつて福田恆存が一番ちゃんとしたことを言っていましたが、その衣鉢を受け継いだ人は寡聞にして知りません。この議論はいずれ自分で展開するつもりです。

(藤本隆志訳大修館書店1976年4,500円+税)

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2008年7月 2日 (水)

武田邦彦『偽善エコロジー 「環境生活」が地球を破壊する』

 題名通りの本です。わが国は環境保全の名の下に、リサイクル全体に自治体だけで5000億円の税金を使っているそうで、この税金をもらう人は一万人くらいですから、一人あたり5000万円の利権となっています。
 これでは著者への攻撃が激しくなるのも道理です。その筋からはまともな反撃はできないので、個人攻撃に終始するわけですが、それでも著者の本がちゃんと出版されて読まれているわけですから、いずれは正義が勝つことになるでしょう。それにしても利権談合国家の不条理は相変わらず幅をきかせていますね。
 本書はそれぞれのリサイクルが個別に評価されていて、拾い読みにも適しています。とにかく、データがしっかりしているので、説得力があります。エコの常識を覆すことがたくさん書かれていますが、トンデモ本ではありません。中でも狂牛病が言われているほど危なくないという議論は新鮮でした。ただ、牛肉はあまり好きではありませんので、吉野家には今後も行かないと思います。

(幻冬舎新書2008年740円+税)

 

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2008年7月 1日 (火)

田中・倉持・和田編『世界歴史体系 ロシア史2 ―18~19世紀―』

 三巻本の2巻目です。基本的な感想は第一巻と同じですが、 執筆担当者の文体に多少ばらつきが感じられるところがありました。というか、何を言ってんだかわからない表現が三~四章の一部に見受けられました。素人が読んで誤解のないように書いてもらえればありがたいのですが。ま、全体には面白かったと思います。
 とりわけ、レーニンの『何をなすべきか』(1902年)の意義が確認できたのは個人的には助かりました。いわゆる「指導する前衛としての党」という考えで、マルクスが嫌ったインテリがこれをきっかけに革命に参加していくことになるわけです。革命エリートです。当時もさぞかしえげつない人間だったことでしょう。

(山川出版社1994年5343円+税)

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2008年6月30日 (月)

青木新門『納棺夫日記 増補改訂版』

 人を棺に納める葬儀屋さんの自伝的省察。その省察は深く、かつ暖かいものです。多くの人の亡きがらと向かい合ってきた人だけに、死について考えざるをえなかったのでしょう。この職業にもなかば偶然にたどりついた感じですが、こういう本を書くために死者に導かれたのかもしれません。親鸞聖人を実感として理解している希有な人です。
 死と隣り合わせにいたことのある人には、あらゆるものが光り輝いてみえるようで、さらにそこに、感謝の気持ちがわき上がってくるようです。これが南無阿弥陀仏と理解できるというか、実感できるものなのですね。
 ちなみに私は最近、腹黒いことをしている人から黒い影が立ち上っているのが見え(るような気がし)ます。「わ、黒っ!」という感じです。ただし、自分が善人だと信じている困ったちゃんは黒くは見えないので、大したものではありませんが(顔の前のあたりが劣等複合意識でくすんでいるようには見えます)、もっと美しいものを見たいものです。しかし、美しい光が見えたときは、お迎えが近いのかもしれません。

(文春文庫1996年438円+税)

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2008年6月27日 (金)

勢古浩爾『いやな世の中 —〈自分様の時代〉』

 いつものように夜郎自大で傍若無人な「自分様」の実例がふんだんに登場します。こんな人が目立つようになると、確かにいやな世の中でしょう。しかし、いつも感じるのですが、これは著者が東京に住んでいるだけに、余計目につくのではないでしょうか。隙あらば人のあらを探して優位に立とうとするような差別的視線を東京ではよく感じます。そして、そんな視線との相乗作用によってバカはますます手がつけられなくなってくるのではないでしょうか。
 私の住む中部圏にもバカはたくさんいますが、その種の視線がほとんどないため、わりと単純なバカ止まりで、比較的対処しやすい気がします。名古屋なんか一応都会のふりしていますが、妙にのーんびりしていて、「大いなる田舎」と呼ばれるのも道理です。東京から越して来た人からはしばしば「楽だね」と聞くことがありますので、同じことを感じる人は少なくないように思います。
 さて、本書の前半はバカの博覧会さながらで、どうなるかと思いましたが、後半からの著者のメッセージは結局、まっすぐ生きよ、というシンプルで力強いものになります。「せめて凡俗の妙好人」にとあって、著者が妙好人に惹かれるところもよくわかります。妙好人を批判する河上肇や家永三郎のバカさ加減も際立っています。「人間を政治的にしか見ることのできない人間のほうが、よっぽど『愚鈍』である」(200頁)とあるのは同感です。紹介されていた柳宗悦の本も探してみます。

(KKベストセラーズ2008年724円+税)


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2008年6月26日 (木)

日垣隆『学校がアホらしいキミへ』

 この本もいいですね。中学・高校生に読んでほしい本ですが、それより自分が何度も読み返したくなります。本の帯に糸井重里が「この本には『ほんとうのこと』と『うまいこと』が両方書いてあります。だから、おもしろくて、得をします」と、いかにもうまいコピーが書かれています。その通りです。こうやって書いていて帯が目に入ると、書きにくくなってしまいます。
 それはともかく、本書を読んだ若者が、メッセージ通り、知恵と勇気を備えた立派な大人になってくれるといいですね。私もこれから立派な老人になるようがんばります。ストレートにそう思わせてくれる本です。でもそれはいわゆる勝ち組になることではありません。印象的を紹介しておきます。
 「老後に詐欺のような年金と僅かな貯金と猫の額のような土地を持っていても誰も訪ねてこない『自立した人』と、短期間ならいつでも泊まりにいける知人や友人たちをもって『依存している人』と、どちらが楽しそうか。どれだけたくさんの人に気持ちよく依存して生きていけるようになるか。それが教育の目的とさえ言っていいのではないか、と俺は思う」(20頁)
 いいでしょ?

(大和書房2008年1200円+税)

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2008年6月25日 (水)

日垣隆『部下の仕事はなぜ遅いのか』

 部下が部下である限り仕事は永遠に遅いのではないかとツッコミを入れたくなるタイトルですが、内容は部下を育てるということについてのいわゆるコーチング指南書です。前半は理論、後半はセミナーの記録という体裁ですが、いろいろと有益な話が詰まっています。
 ちなみに私は教務主任という肩書きですが、かつて1年だけ部下がいたことがあります。その後はヒラの仕事もやれということで、一人で土俵をこしらえて相撲を取って、行事までやっています。
 それはそれとして、私自身バスケットボールのコーチもしているので、やはり育て方という点で本書には啓発されることがたくさんありました。アメリカのスポーツはとりわけマニュアル化が進んでいるので、バスケットボールについても指導法が確立されているように思います。そのうち調べてみるつもりです。
 よいアイデアは何でもすぐに取り入れて能率アップをはかる、というのは共感できます。マニュアルもあればできるだけ参照したいと思います。そうなると質のいい情報がどれだけ収集できるかという問題にもなってくるわけです。
 しかし、お膳立てが終わったら、結局のところは愛情と信頼の問題なのかなという気がします。特に信頼して任せるというのがなかなかできないところですね。
 レファ本として座右に置きたい本です。

(三笠書房2008年1400円+税)


 

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畑村洋太郎『みる わかる 伝える』

 観察と理解と伝達について、これ以上ないくらいわかりやすく説明されています。図も効果的に活用されています。
 観察ではとにかく現場を知ること、理解は行動して結果を出し、行動と結果をつなぐ理論を確認すること、伝達は具体的なことがらを抽象化し、知識化することがそれぞれポイントとなります。
 言われてみればあたりまえのことですが、これがちゃんとできないときに事故が発生したり、倒産したりするわけで、さすがにこれまで数々の事故現場の調査に立ち会い、人間の失敗を見つめてきた「失敗学」の提唱者だけのことはあります。
 とりわけ、伝達とは伝える側と受け取る側のテンプレートが一致することだという指摘は構造主義的で面白いと思いました。「結果として伝える側と伝えられる側とがほぼ同じ状態になっているかどうかで決まる」(101頁)とあります。
 この考え方は、イデア論をあっさりと乗り越えた感じで、後期ウィトゲンシュタインを理解するときにも助けになる気がします。
 最後の2章は知識の共有化について書かれていますが、こうして個で考え集団で共有し、その共有知をさらに発展させていくことができれば、鬼に金棒です。このあたり、暗黙知という言葉がでてくるからというわけではないのですが、マイクル・ポランニーの思想をもっとクリアで説得的にした感じです。
 著者ご本人は哲学的志向はないようですが、シンプルで刺激的な本でした。

(講談社2008年1200円税別)

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2008年6月24日 (火)

日垣隆『ラクをしないと成果は出ない』

 いつもながら、いいタイトルです。仕事のコツの話です。仕事はただただ缶詰になってがんばればいいってもんではないですからね。一読した後、目次の標題を眺め返すのも一興です。
 たとえば「よくわからなかったら、現場に行って考える」とか、「興味がわいたことは、講演やセミナーに出て、全体像と情報源を一気に押さえる」、あるいは「レファ本の常備は時間を節約する」といったところは膨大な量の情報を処理する著者ならではのコツです。
 また、「加齢とともに遊び時間を増やしてゆく」というのも印象的でした。確かに、くたびれ果てて人生に余裕が感じられないというのは避けたいですね。もっとも、著者のように娘とカジノに行ったりというのはまねできそうにありませんが。
 100の見出しの文章の最後にポイントがまとめてあって、これがまた楽しませてくれます。「棒高跳びのポールで、バトンリレーはできない」というのは、面白いことは30秒で伝えるべしというテーマについてのもので、このあたりのつかず離れずの間合いが、何ともいい感じです。

(大和書房2008年1429円+税)

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山本夏彦『男女の仲』

 18歳の時、畏るべき読書家であった(今もですが)叔母に勧められて読み始めたのが著者のエッセーですから、かれこれ30年以上のファンです。著者の主催する会社の女性社員によるインタビュー集ですが、いつもの夏彦節が、インタビュアーの反応とあいまって、絶好調という感じです。この後ほどなく著者が入院して亡くなられたとは思えません。
 書かれたものとは違って、いろんなことをついでに話してしまうのが、インタビューの面白いところで、今まで読んだことのない新鮮なエピソードも含まれていました。たとえば、「野球」というの言葉は正岡子規がベースボールを翻訳したものですが、本名の「升(のぼる)」にかけて、野(の)・球(ボール)としたことに由来する、とか、「ちはやふるかみよも聞かず竜田川」の古典落語のネタとか、座談の名手これにありという感じです。

(文春新書平成15年860円+税)

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2008年6月21日 (土)

『世界歴史大系 ロシア史1 —9〜17世紀—』

 ハンガリー人の恩師が書いた東欧ロシア史学史の中から、ロシア史学史の部分の翻訳を担当している関係で、ロシア史関係はできるだけ読むようにしています。本書は日本語で読めるロシア史の中でもっとも詳しい本です。執筆者も思う存分遠慮せずに分量を書いている感じで、読み応えもありますが、面白いのでどんどん読めます。随所に「補説」として史学史や資料批判、学説の紹介等に多くのページが割かれているのも助かります。
 それにしても、タタールとの攻防の中から思いっきり侵略国家として自己形成を遂げていくロシアの姿が浮かび上がってきますが、その殺し殺され合いの歴史には壮絶なものがあります。こういう歴史を生き抜いてきたロシア人のDNAは今もしっかり受け継がれています。北方領土なんか、まずもってタダで返してくれることはないでしょうね。

(田中陽兒・倉持俊一和田春樹編、山川出版社1995年5,048円)

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サン=テグジュペリ『星の王子様』

 大学生のとき読んで以来です。当時はピンときませんでしたが、今もやはりよくわかったとは言えない本でした。ただ、これは子どものための本ではないですね。
 ふるさとの星に残してきたバラとの愛憎のもつれに疲れた王子さまは、無事帰還を果たしたのでしょうか。多少は人の心がわかるようになったときには、人はしばしば人生の幕を閉じるという寓話なのかな、と思ってみたりもします。
 また、王子さまを悩ませる美しく気まぐれなバラは祖国フランスの象徴かなという気もしてきます。そして何よりも、語り手である「私」の王子さまに対する友情が、友情というよりは、成就することのない片思いの、痛々しい恋愛感情のように読めるのは、こちらが年とったからでしょうか。
 翻訳者が昔の人なので、今では使われないような表現もあり、翻訳が複数出ているのもうなずけますが、これはこれで味わいがあります。

(内藤濯訳岩波書店1962年)

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2008年6月18日 (水)

橋爪大三郎『政治の教室』

 これはいい本でした。著者はいつも込み入った問題を、きっちりとわかりやすく説明してくれますが、それだけにとどまりません。随所に炯眼が光っています。
 個人的には、古代ギリシアやユダヤ教の政治思想がヨーロッパに与えた影響の大きさがはっきりと書かれていて勉強になりました。政治家の職責は神の代理人としてのそれだったんですね。さすが宗教に造詣の深い著者らしい指摘です。
 また、民主主義では絶対の権力を人民が握っているからこそ、独裁制に転化しやすいという指摘も(87頁)納得のいくものでした。民主主義こそは最も強力な正統性を持っているのであって、だからこそ著者は民主主義を支持しています。あとは人びとの知恵によって、これをどう制御していくかということでしょう。
 これまでの政治学の教科書では制度の羅列はありますが、こうした本質的な指摘は多くなかったように思います。「死票」という発想は間違っているという指摘もそうです。51対49の僅差で決まる方が民主主義が健全に機能しているという見方は正しいと思います。著者曰く「たとえ僅差だろうと、多数になった意見が全体の意志決定となって、たった一つの現実をつくり出す。それが多数決の原理」だからです。現実は比例配分では動きません。
 わが国はムラ社会の掟によって全員一致をはかろうとしますが、官僚や軍隊がムラ社会の掟で動いた結果が悲惨なものになることは、歴史が示すとおりです。日本人の行動原理の章では、荘園を豪族がつくった特殊法人にたとえたりして、税金をごまかす手法がうまく説明されています。日本政治史としてもユニークな記述が光っています。
 最後に「草の根民主主義」としての具体的な政治参加の指針も述べられていて、至れり尽くせりです。それにつけても、著者が後書きにも述べているとおり、わが国はメンタリティーとしては民主主義からかなり遠いところにいるなあと、あらためて実感させられる本でした。

(PHP新書2001年660円税別)

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2008年6月17日 (火)

橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』

 経済というのはモノやカネが循環することにつきるという著者一流の発見があります。これが利潤ばかりを気にするような市場原理に至るまでの状況分析は読み応えがありました。
 今や経世済民の経済ではなくて、人に働かせて投資家が儲けるという嘘のような経済であることは間違いないのですが、著者によれば、処方箋はわれわれが我慢するという姿勢を思い起こすことしかなさそうです。
 ただ、かなり遠回りの論理でありながら、結論的なことはあっさりしすぎているので、え、いいのかなと思ってしまいます。日本経済が破綻し、世界経済が破綻する可能性まで示唆しているところは怖くもあるのですが、何気なく語ってしまうので、読み飛ばしかねません。
 結局、この世をどう生きるかということは、読者の側にボールが投げられます。最後にもうちょっと論理で別世界へと連れて行ってくれることを期待していると、肩すかしにあった感じがします。
 実際、『上司は思いつきでものを言う』のような充実した読後感はありませんし、ひょっとしたら著者にしては珍しく、単純に不調だったのかもしれません。ま、そんなことがあってもいいでしょう。

(集英社新書2005年700円+税)

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2008年6月13日 (金)

久米昭元・長谷川典子『ケースで学ぶ異文化コミュニケーション』

 通信教育部では社会学の他に比較文化論や異文化コミュニケーションを担当しているので、こうした本が出る度に目を通します。本書は実例が抱負で授業に使えそうです。こういう科目はケーススタディが効果的なので助かります。
 ただ、この分野は著者が文化相対主義によって中立公平な解説を書こうとすればするほど、ぬるーい感じになってしまいます。読み物として通読するの正直言って苦痛です。解説というものの限界かもしれませんが、もう少し思想的に深いものがほしいところです。もっとも、この分野の研究者にそれを求めるのは酷かもしれません。
 この手の文化論は哲学者研究者ではない哲学者なら書けるかもしれませんが、現実にはそういう人はわが国にはほとんどいませんしねえ。ま、授業に関しては自分で解説するので、いいということにしておきます。いずれにしても、材料を提供してくれただけでもありがたいことです。

(有斐閣選書2007年1,800円+税)

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伊藤桂一『若き世代に語る日中戦争』

 一兵卒の目から見た日中戦争の現場の様子がよくわかります。あの広い国土と膨大な人口を抱える国と戦争するというのはなるほどこんな感じになるのか、と勉強になりました。ふだん中国人留学生の世話をする身としては、多少想像のつくところがありますが、やっぱり敵に回したくない相手ですね。
 元一兵卒というのは一番苦労した人たちですもんね。戦場というものが単なる善玉悪玉の二分論では片付かない複雑なところだということがよくわかります。将校以上の連中とは基本的に見方が違うようです。いずれにしても、家宝にしたい貴重な記録です。広く読まれてほしい本です。

(文春新書2007年710円+税)

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2008年6月11日 (水)

『昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の縁に追いやったのか』

 答えは簡単。単なる試験秀才のお役人に過ぎなかったからです。すでに実戦経験のない軍人もどきの官僚になってしまっていたからです。しかし、組織が硬直すると、実は試験秀才でなくても、莫迦なことを次々とやり始めます。ひたすら情報を自分で囲い込み、利権の確保と組織内政治にうつつを抜かすというのは、官僚化した組織に共通しています。
 エリートだけからなる組織も鼻持ちなりませんが、そうでないところは、今度は妙な学歴コンプレックスが渦を巻いていて、独特の嫌がらせが生じてきます。官僚化した人間はみんな莫迦だという点では共通していますが、どこにいても常識のある人ほどやりきれなくなることでしょう。
 しかし、一私企業や私立学校ではなく、国家の存亡がかかっている帝国陸海軍にしてそうだったのですから、情けないことこの上ありません。そして、今もこの昭和陸海軍の伝統は、財務省や国土交通省あるいは外務省に見事に受け継がれています。行政改革がうまくいくなんてことは夢のまた夢のような気がしてきます。でもうまくいかなければ、同様の破滅の道を一直線ですね。

(半藤一利、秦郁彦、平間洋一、保坂正康、黒野耐、戸高一成、福田和也諸氏による鼎談、文春新書2007年740円+税)

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2008年6月10日 (火)

三浦しをん『むかしのはなし』

 昔話を下敷きにして、現代から近未来のおはなしが語られます。最初は短編集かと思いましたが、途中から連作になります(実は全部つながっているのかもしれません)。そして、いずれこれらが未来の昔話になって、地球が滅んだ後も宇宙空間を漂うことになるというしくみです。SF的味わいがあります。
 もともと昔話にはぞっとするような残酷さや理不尽さが込められているものですが、このおはなしも例外ではありませんでした。昔読んだ手塚治虫の『ザ・クレーター』だったでしょうか。SFの短編漫画集にこんな味わいがあったように記憶しています。
 元の昔話とそれぞれの短編との微妙な距離感も本作品の魅力になっています。著者らしく芸が細かくてよく考え抜かれています。さすがです。

(幻冬舎文庫平成20年533円+税)

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2008年6月 9日 (月)

日垣隆『方向音痴の研究』

 著者が重度の方向音痴だとは知りませんでした。世界中を飛び回っている人なのに意外です。実は世界中で迷子になってきたそうです。本書はサイエンストークというラジオ番組の対談をもとにした本です。対談相手で知っているのは、全盲の社会学者石川准氏だけでしたが、その他の対談者も面白い人ばかりでした。
 動物行動学の青木清氏によると、アリの脳を調べると視覚から入った情報が地図のように存在していることがわかるとのことです(86頁)。そんなことまでわかるんですね。また、カーナビやデジタル地図開発の裏話はそれぞれにスリリングで興味を惹かれました。
 本書のあとがきで、この5人との対談後、著者の方向音痴が治ったと書かれています。どうやら治療効果のある本のようですので、方向音痴で悩んでいる人は是非読んでみてください。

(ワック株式会社2007年857円+税)

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2008年6月 8日 (日)

谷沢永一『執筆論―私はこうして本を書いてきた』

 著者が今まで書いた本が200冊を超えているとは知りませんでした。うつ病と闘いながら、よくそんなに書けたものです。で、やはりそれだけのことはあって、それぞれの本の目の付け所のよさに感心しました。
 ただ、著者が関西大学出身ということで、学会から徹底的に無視された著作も少なくないこともわかりました。ま、これは国文学会に限らず、ギョーカイならどこでもボスがいて、そのボスザルの意向に沿わなければ、日の目を見ないということなんですが、このボスってのはたいてい学問が好きなのではなく、政治が好きなので、学会のレベルがどんどん下がってしまいます。
 それはともかく、著者がマルクスとレーニンの間の差異に注目しているところはなるほどと思わされました。さすが元コミュニストだけのことはあります。
 実は、19世紀末から20世紀の初頭にかけて、中・東欧のインテリたちの間に実証主義的社会学が流行するのですが、これは、マルクスがインテリを革命運動の主体として認めいなかったこともその大きな理由の一つのようです。
 レーニンによってようやくインテリは革命の陣営に加わることが認められ、その中で立身出世の道を見出していったわけです。そう言えばハンガリーでは若きルカーチがレーニン大好きで、突然共産党に入党したりしていました。
 いずれにしても著者の指摘によって、歴史上の問題についての長年のもやもやが、急に霧が晴れるように消え去りました。感謝です。

(東洋経済新報社2006年1600円+税)

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2008年6月 7日 (土)

三浦しをん『秘密の花園』

 この著者らしく、よくできた小説です。カトリックの女子高が舞台の青春小説ですが、性の問題が大きな主題の一つなので、個人的にはちょっと苦手です。この年頃の自分を振り返ると、田舎の共学県立高校でバスケットボールばっかりしていました。横浜あたりのお嬢様たちの世界とはずいぶん違うなあ、と思いながら、この年頃の登場人物たちのひりひりした感じがよく伝わってくるのには感心させられました。著者はこんな語り口ももっている作家なんですね。
 私としては著者の近作のように、もっとフィクションが前面に出ている方が好みですが、おそらく著者にしてみれば、これはこれで書かずにはいられなかった作品なのでしょう。同じカトリックの女子高の話なら、イギリスの『五月の霜』のほうが安心して読めます。ただ、もちろん、これは文化が違いすぎて、比較するのは変かもしれません。

(新潮文庫平成19年438円税別)

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2008年6月 4日 (水)

日垣隆『子どもが大事!』

 子どもと真剣につきあえるのは15年くらいということをしっかりと見据えながら、著者一家のかなり面白い家族生活を題材に、具体的な子育て論が展開されています。参考になります。章が進むごとに子どもも大きくなっていくという、よく考えられた構成になっています。そして何より愛の感じられる本です。
 本書に出てくるあの酒鬼薔薇少年の母親のエピソードは「やっぱりそんな人だったのか」という感じを抱きますが、「他者に対する無反省と開き直りぶりが、子にまっとうな影響を与えるはずがない」(143頁)という指摘はもっともです。
 数多くの少年事件を取材してきた著者ですが「普段は良識ある親としてふるまっていても、いざ少年事件が起きると、それがたとえ殺人であっても、加害者側のたいていの親が居直る」(143ー144頁)そうです。そんな親にだけはなりたくないですね。

(信濃毎日新聞社1998年1400円+税)

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2008年6月 3日 (火)

まついなつき『どうすればほめてもらえるの?』

 労働と仕事と自己実現と自立という4つの概念を組み合わせて職業を独自に分類し、専業主婦、フリーター、会社員、ひきこもりといった、現在の自分自身に満足できない人びとの心の中のもやもやを説明し、勇気づけてくれる本です。
 仕事と労働と自己実現の三つの割合を自分で決められる人が自立しているのだという指摘(84頁)は説得力があります。なお、それぞれの悩みに対する具体的で有益な処方箋が書かれてもいます。
 とりわけ最後の「ひきこもり」についての分析が、ひきこもりさせてしまう側からの視点からもうまくとらえられていると思ったら、彼女の離婚した夫のことだったのかとわかって、ついでにこの本が書かれなければならなかったわけについても、ピンと来るところがありました。そっか、やっぱ大変だったんだ。
 それはともかく、見方を変えて一歩踏み出してみると、世の中そうそう悲観するばかりじゃないよってのは、いいメッセージです。そして、人からほめられ、認められることがないとね・・・。やっぱり愛が大事なのです。 

(現代書林2003年1,200円税別)

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2008年6月 2日 (月)

岩波明『うつ病―まだ語られていない真実』

 先日、学生寮の規則を守らない中国人留学生が、「自分はうつ病だから・・・」と言い訳していましたが、今朝もニコニコ笑いながら大学のバスに乗ってきました。健康そのものにしか見えませんでしたが、この際、うつ病に関する知識を仕入れておこうと思って、以前買っておいた本を読んでみました。
 うつ病についての正確な知識とその対処法がきっちりと書かれています。実は大戦間期のハンガリーの知識人がやたらと自殺しているのが以前から気になっていたのですが、その多くはひょっとしたらうつ病だったのかも、という気がしてきました。
 ヘミングウェイのエピソードから始まり、ビビアン・リーのそれで終わるのですが、悲しすぎますね。著者が言うとおり、うつ病は死を招き寄せる恐ろしい病気ですが、適切な治療を施せば何とかなりそうです。薬も適切な処方に基づけば、マスコミで報じられるような問題はなさそうです。
 ところで、本書の後半に、わが国が失業率が低いのに自殺率が高いのは「失業という事態が単に経済的な問題だけでなく、心理的に大きなダメージをもたらすことを示唆している」(206頁)という指摘は新鮮でした。
 さらに、著者によれば、日本人は「多くの場合、大部分の勤労者にとって、飢えや貧しさへの恐怖というのが、労働に対する一番大きな要因だった。さらにきちんと人並みに働かなければ、社会からつまはじきにされ、社会の落伍者とされてしまうという恐怖感が、人びとを動かしていた」(212頁)とあります。
 こういう指摘は、臨床で多くの患者さんと接してきた著者ならではのものだと思います。著者は、うつ病に関して誤解を招くようないい加減な本があふれていることを憂いていますが、そう言うだけのことはあって、全体に浮ついたところのないきっちりした記述が光っています。

(筑摩新書2007年720円+税)

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2008年5月30日 (金)

櫻井敬子『行政法のエッセンス』

 久しぶりに法学者の書いた本で、掛け値なく面白いものを読ませてもらいました。行政法の入門書としてはもちろん、専門家にとっても刺激的だと思います。法解釈学というものが、立法まで視野に入れた創造的な学問だということが強く意識されていて、思想的にも実にしっかりしています。法学部の1年生には行政法というタイトルにこだわらず、具体的な法学入門として読んでもらってもいいと思います。
 また、行政の現場の細かい情報がよく調べられていて、勉強になります。というか、感心させられました。千代田区の「ポイ捨て条例」が過料よりもその取り立て経費のほうがかさんでいるなんてことは、どうやって調べたんでしょう。
 それはともかく、著者が法律に関する森羅万象すべてに深甚な興味を持っていることがよくわかります。文章も闊達で、言いたいことが歯切れよくいいリズムで書かれています。法律書っぽくないところがいい感じです。
 しかし、内容的には論点の整理も見事で、判例や学説の評価が的確に示されています。本当に優秀な法律家というのはこんな人のことを言うのだろうなと思います。専門家にはこんな本を書いてもらいたかったという典型のような本です。脱帽です。
 というわけで、早速私の受け持つ学生たちにも一読を勧めておきました。ただ、うちの学生には、頭は悪くないのですが「訴訟」という漢字が読めないという、今まで勉強と無縁だった者もいますので、まだちょっと苦しいかもしれません。でも、本書をきっかけに勉強してくれたらいいんですけどねえ。

(学陽書房2007年2200円+税)

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2008年5月29日 (木)

本山博『超感覚的なものとその世界―宗教的経験の世界―』

 本書がユネスコ哲学部門優良推薦図書になっているのももっともです。著者がわが国であまり知られていないのは、わが国の状況が良くないからです。それでも最近はこの種の問題については多少なりとも理解者が増えてきているのではないかと思います。
 それはともかく、具体的に宗教的経験の世界がこれだけ具体的かつ何の奇を衒うでもなく淡々と理論的に述べられているのは、驚くべきことです。私にとっては未知の世界を案内してくれる本でもありますが、同時に、今までまともに考えずに放っておいた自分自身の非合理的超常的な経験を、無理に押さえ込む必要がないことにも気づかされ、ほっとさせられるところがあります。
 将来自分がヨガや座禅に取り組んで、その道を究めるといったことはたぶんないと思いますが、こうしたことを「わかっている」人がいるというだけでも、ありがたいことだと思います。いずれにしても、こうした問題について、今後とも自分の感性を閉じないようにしておくことが必要だろうと思います。

(平成2年宗教心理出版3000円)

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2008年5月28日 (水)

マッテオ・モッテルリーニ『経済は感情で動く―はじめての行動経済学』

 行動経済学の入門書として最適の一冊です。内容自体にはあまり新味はないのですが、これだけたくさんの設例、実験例が収録されている本は少なくとも邦訳書では他にないと思います。著者のこのサービス精神には脱帽です。例が多すぎてかえってそれぞれの印象が薄くなってしまうのが、あえていえば欠点かもしれません。
 ともかく、この実験例はしばしば社会科学系の授業の小ネタに使えるので重宝します。学生たちも喜んで取り組んでくれます。これを通じて、人間の非合理的な行動の不思議さ、面白さを見つめ直してくれればいいと思っています。
 著者は、人間が非合理的で「困ったことになるのは、私たちがものを知らないからではなくて、知らないのに知っているつもりでいるからだ」(314頁)と言っていますが、確かにその通りですね。会社の経営陣の判断の誤りなんかもほとんどこれでしょう。自分の限界を正直に認めることができない人は近くにもたくさんいます。それで、案の定馬鹿げた判断を懲りずに繰り返しています。やっぱ、天狗になっているのでしょうね。
 翻訳で気になったことを最後に述べておくと、ブラジルの著名なサッカー選手リバウドとロナウドがリバルドとロナルドという具合に表記されていますが、やはり前者の方が日本の読者には通りがいいのではないかと思います。

(泉典子訳紀伊國屋書店2008年1600円+税)

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2008年5月27日 (火)

本山博『スピリチュアリティの真実』

 へー、そうなんだ、という驚きの連続です。ヨガをもとにした瞑想や体操の具体的な方法まで書かれていて、至れり尽くせりです。あちらの世界には行けなくても健康には良さそうです。
 超能力や念力はともかく、著者は「神様のまねをして人を愛し、人のために働き、物のために働き、自然と共存できるようになり、魂の存在に気づいてくださったら、とてもありがたく思います」(227頁)と言いますが、そうですよね。この気持ちを忘れなければ、レベルの低い霊能者によってカルトに引き込まれることもなくなるでしょう。
 それはそうと、この本の体操をちょっとやってみたら、先週来の腰の痛みがすーっとひきました。痛みの90%があっいう間にどこかに行ってしまいました。確かに不思議ですね。しばらく続けてみましょう。

(PHP研究所2008年1,500円+税)

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2008年5月25日 (日)

若林亜紀『公務員の異常な世界』

 公務員の生態がきっちりと細部に至るまで取材され、調べられています。で、想像以上に驚かされました。著者自身昔公務員だったことがあるので、体験にも裏打ちされていて、説得力があります。
 それにしても練馬区の「みどりのおばさん」が年収800万円とはねー。田舎の短大の50才の教員より上ですね。名古屋市交通局の掃除のおばちゃんが、退職金を5000万円もらうという話を聞いたのはかなり昔のことですが、あれは本当だったんですね。
 かつて養老孟司氏が東大教授の給料の安さを嘆いていましたが、確かに、国家公務員の給料は規模の大きい自治体の公務員のそれよりは安いようです。大阪市の清掃のおじさんが1000万円だと聞いたらやはり心穏やかではなかったでしょう。神戸市のバスの運転手なんか1300万円です。実際、これだけもらっていれば、平均寿命も民間会社の勤め人より公務員のほうが長いそうです。
 ま、人の給料はどうでもいいのですが、国庫や自治体のお金も無尽蔵にあるわけではないので、このまんまだと日本がどんどん傾くのではないかと心配になります。それから、文科省からの天下り職員が私立大学の財政のことを考えようともしないのは、実は、長年の習性だということがわかりました。こんな生活しとっちゃ無理だわなー。そんなとこに目が行くわけがないですもんね。

(幻冬舎新書2008年740円+税)

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