2022年6月30日 (木)

即興演奏覚書

ジャズアドリブ入門その2 ペンタトニックよりヘキサトニック

*勤務先のブログに載せる原稿です。こちらにも同時に掲載しておきます(転載じゃないからね)。

 以前ジャズの即興演奏の入門として、ブルースの中で6つの音2種類を使って細かいコード進行を期にせずにメロディーを奏でる方法をご紹介しました。その2種類というのは、ハ長調(C)のブルースの場合は、

1 メジャー・ブルース・ヘキサトニック:ド・レ・ミ・ミ♭・ソ・ラ

2 マイナー・ブルース・ヘキサトニック:ド・ミ♭・ファ・ファ♯・ソ・シ♭

この2種類を長調のブルース12小節の中で交互に組み合わせて用いると、かなりのバリエーションを付けることができます。ブルース音階というのはアフリカの民族音階の一種でもあるので、その物悲しい旋律は西洋音楽の調性を超えて曲を支配するパワーがあります。特に2のマイナー・ブルース・ヘキサトニックは強烈な個性を持っていて、長調の和音の上でも調性を損なわずにメロディーをブルース的な色合いに染めてしまいます。

なお、この2種類を12キー全部覚えるのは大変だと思われるかもしれませんが、1Cメジャー・ブルース・ヘキサトニックをラから始めると、実は2のAマイナー・ブルース・ヘキサトニックと同じ音の並びになりますので、実際には音階練習として考えると半分の12種類で事足ります。

また、ブルース以外の曲でも1曲の中で大きな転調がなければ、この1と2の二種類を使い分けるだけで間に合ってしまう場合が少なくありません。ジャズのスタンダード曲の中でも”Take the A Train””There Will Never Be Another You”などはこれで十分おしゃれでブルージーな演奏になります。今はYou Tubeの伴奏動画やカラオケ演奏のアプリなどもありますので、ブルースである程度アドリブができるようになったら、これらの曲も試してみてください。

しかし、この6つの音では多すぎると感じる人は、1のミ♭とラだけを使ってみてください。これだけでもカウント・ベイシー・オーケストラの雰囲気を醸し出すことができます。ペンタトニック(5音)ではなくて6度(ラ)を加えたヘキサトニックによる奏法を提唱したジャズピアニストの西直樹はさすがだなと思わされます。

このラの音(6度)の粋な雰囲気をうまく組み合わせたアドリブについては、また別の機会にご案内いたします。

2022年6月14日 (火)

思想史執筆再開

自分の覚書として再開します。

哲学の教科書として、以前出版した『歴史の哲学、哲学の歴史』(2018年、中部日本教育文化会)の後半の思想史部分を軸に増補して新たにまとめるつもりです。今年度中に今までお世話になってきた岡山のふくろう出版さまから刊行する予定です

これから出来上がったところから徐々にアップしていこうと思っています。

 

2018年9月25日 (火)

ブルースからジャズのアドリブ演奏へ(番外編2)

以下は短大のブログのために書いた記事ですが、スペースの関係で全部載らないこともありますので、こちらに全文公開しておきます。これをことわっておかないと、私が以前どこかに書いたものをブログに転載したと勘違いする人があるので念のため(って毎回書いているんですけどね)。

先回私が担当したブログ記事では、誰でもできるブルース即興(アドリブ)演奏について書きました。ブルース音階の5音(ペンタトニック)の音だけを使って、リズムに合わせて思い浮かんだ節回しに乗せて音を出してみると、誰でも驚くほどブルースらしい感じの即興のメロディーが作れます。

インターネットのYouTubeにはアドリブ練習用のいわゆるカラオケ演奏がいろいろ収録されていますが、たとえばハ長調の音階のC-Jam Blues のBacking Track などで検索をかけてみると、ジャズの伴奏の音源と和音進行の画面が何種類も出てきます。そこで、ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭を使って伴奏に合わせてまずは順番に音を出してみてください(リコーダーだとミ♭がちょっと押さえにくいのですが)。それだけで、それぞれの音がブルースらしい雰囲気を醸し出していることに気づかれると思います。その後、思いつきでいろんな節回しを試してみると、もうそれだけで即興演奏になります。
ハ長調のブルースは最も単純な和音では、ドミソ(C)、ドファラ(F)、シレソ(G)の3和音で成り立っていて(おそらくは教会の賛美歌に由来するものだと思われますが)、このブルース音階でアドリブ演奏できます。ブルース音階はどこをとってもそれなりにしっくり来るようになっていますので、試してみてください。

もともとは、アフリカから連れてこられた人びとがドレミファソラシドの歌を歌おうとしても、自分の出身地域の民族音階になってしまうというのが、西洋音楽とアフリカの民族音楽の異文化衝突だったのですが、これが新しい音楽ジャンルの誕生のきっかけになりました。ブルース音階では、ハ長調のミとシの音が半音下がったり、ファが半音上がったりしてしまうわけです。この音の並びによって、明るい和音の上に短調の物悲しい響きが乗ると、悲喜こもごもの人生を象徴するような独特の雰囲気が生まれ、いわゆるブルースらしくなってきます。

もっとも、実際のブルース演奏では、いかにもブルースらしい音を5音取り出したブルース・ペンタトニックがしばしば用いられます。先の5音階ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭もその一つですが、ジャズの教則本ではド・ミ♭・ファ・ファ♯・ソという5音階が載っています。シ♭の代わりにファ♯が5音におさまっていて、この音の並びもまた魅力的なブルースのメロディーを作ってくれます。私の場合はシ♭の不安定な音も捨てがたいので、ペンタトニックにこのシ♭1音を加えて演奏してきました。5音から6音で即興演奏をしたほうが、ヘンに間の抜けた音を出すリスクがなくなりますので、実演にも向いています。

実はこのブルース音階がなぜ絶妙にブルースの3コードに合ってしまうのかということについては、音楽理論的には説明が難しく、一冊の理論書ができてしまうほどです。しかし、理論はさておき、結果としてブルースらしいメロディーが即興的に演奏できることを体感していただけると、譜面どおりに演奏することに汲々とせずに、自分の中から出てくる歌心を表現するという音楽の基本に戻ることができます。

私は学生時代にテナーサックスを演奏して、キャバレーのバンドでアルバイトをしたりしていたことがあります。その頃の音楽仲間には一流の演奏家や作曲家になった人も少なくないのですが、その仲間が集って行ったジャムセッションで一度だけ共演したことのあるピアニストにその道では有名な西直樹がいます。彼は今もCDを出し、コンサートやライブ演奏に忙しく、日本のジャズシーンの第一線で活躍していますが、その彼がネットで音楽講座を開いていて、YouTubeでも見ることができます。

http://www.ne.jp/asahi/jazzpiano/naoq/

これは実に楽しく学ぶことができるおすすめの音楽講座なのですが、そこで、彼が提唱するアドリブ演奏法が、このブルース・ペンタトニックに一音加えたブルース・ヘキサトニック(6音階)です。ブルース音階がブルースだけではなく、いろいろな和音進行の音楽にも実は絶妙にハマることを応用した実践的な音楽理論・演奏法です。詳しくはURLからたどっていただきたいのですが、プルースの6音を以下のように、長調と短調の2種類選び出して、音楽理論的説明も加えられています。

   メジャー・ブルース・ヘキサトニック:ド・レ・ミ・ミ♭・ソ・ラ
   マイナー・ブルース・ヘキサトニック:ド・ミ♭・ファ・ファ♯・ソ・シ♭

 このマイナー・ブルース・ヘキサトニックは上に述べたように私も使っていたものですが、メジャー・ブルース・ヘキサトニックは新鮮です。特に6度のラの音がいい味を出してくれます。

これをブルースで演奏する場合は二つとも使えますし、たとえば、ジャズのスタンダードナンバーでも使うことができます。たとえば、デューク・エリントン作曲『A列車で行こう』はこの二つのヘキサトニックの音をそのまま使えますので、ブルースでアドリブが取れるようになった方は、是非もう一歩進んで、この即興演奏を楽しんでみてください。

以上の内容は今年11月23日の短大地域公開講座でも実演を交えてお話する予定です。お近くの方は是非足をお運びください。

2018年4月22日 (日)

私の研究歴

学園内広報誌に書いた原稿をこちらに再掲しておきます。
このブログにはしばしばこういう形で載せていますのでよろしくどうぞ。

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 私の元々の専門は法哲学ですが、大学院に入った当初はフランス社会学のデュルケームやモースの民族学・人類学的業績を、オーストリア出身の法哲学者、ケルゼンの根本規範の問題と重ね合わせて考えてみたいと思っていました。構造主義やその後のポストモダニズムの思想家たちが登場してきたところでしたので、当時流行の現代思想の影響も受けながら、研究テーマを設定しようとしていました。

 大学院入試の際の外国語科目を英語ではなくわざわざフランス語を選択して受けたのも、指導教授のN先生がフランス哲学畑だったことと、将来のフランス留学を視野に入れていたからです。学部のころにはフランス語会話と読解の授業でそれぞれいい先生に巡り合っていたこともあり、フランス哲学・思想・文学はよく読んでいました。

 というわけで、当時はフランスに留学する気満々だったのですが、それがどういうわけかハンガリー研究を専門とするようになってしまいました。なぜこういうことになったのかについてここで述べようと思うのですが、これにはいろいろな偶然と幸運が重なっています。

 当時の大学院修士課程の同級生が同じ法哲学専攻で私の他に三名いて、その三名は皆私の指導教授預かりで、実質は当時助教授の経済人類学者K先生の学生でした。それで、私も元々講義に出ていたK先生とは面識があったこともあり、ゼミや研究会に誘われて顔を出すようになったのですが、その中でハンガリーのとある法哲学者の研究を勧められ、その話に乗ったはいいものの、そのまま乗り続けて今日に至ているという次第です。あとでわかったのですが、K先生は指導下の学生にはほぼ全員といっていくらいにこのハンガリー研究を勧めていたそうです。ただし、この話に真面目に乗ってハンガリー語講座に通ったりしたのは私だけだったようです。

 ハンガリー語の文法の学習も一通り終え、博士課程に入った二年目の春に、育英会の奨学金がまとめてもらえる時期でもありましたので、大韓航空の格安航空券を調達し、三ヶ月ほどハンガリーに行ってきました。当時のハンガリーは社会主義体制で日本の一〇分の一ほどの生活費で暮らせたこともあって、旅行者にしては長く滞在できました。現地では研究者に会ったり、文献を集めたりして過ごしました。帰りの飛行機をパリ発にして、パリにも一週間ほど滞在してきました。

 翌年の同時期も同じような数ヶ月を過ごしていたのですが、その翌年の一九八七年から三年間は幸いハンガリー政府給費留学生として正式に留学することができました、留学期間中に博士論文も執筆・提出し、帰国前日に口頭試問というぎりぎりのスケジュールでしたが、いろいろな人のお陰で充実した留学生活を送ることができ、今でも感謝に堪えません。

 一九九〇年に帰国して大学院に戻りましたが、その後大学の非常勤講師や日本学術振興会特別研究員を経て、知人の紹介で当時の名古屋法経専門学校堀田校にお世話になり、二〇〇二年からは短大で教えるようになって今日に至ります。

 これまで論文や著書を通じて研究成果を発表してきましたが、最初に私が関心を持ったデュルケームやモースの社会学、人類学、ケルゼンの法哲学はハンガリーの法哲学思想史の中でも実際に重要な役割を果たしていたことがわかり、すべての研究が実はつながっていたことに今更ながら驚かされています。当時のK先生は「フランスなんか行ってもダメだ。ハンガリーに行くと国家が見えるんだ」とおっしゃっていましたが、直感の鋭い人ですので、根拠不明ながら、おそらく何か感じるところがおありだったのでしょう。結果としてフランス社会学にも広がりのあるハンガリー法思想史研究が可能となりました。そして、今現在はケルゼンとハンガリーの法哲学者ショムローとの関係についての考察に取り組んでいるところですから、当初研究してみたかったテーマに戻ってきたような感じです。

 法哲学の理論的研究としては、法的判断を下す前提となっている様々な価値基準の問題に取り組んでいます。これは簡単に言って、人間の文化的あるいは宗教的偏見や「間違い」についての研究です。社会心理学や行動経済学、意思決定理論や進化心理学の最新の研究成果も積極的に取り入れるようにしています。人間は間違う生き物だということを前提にした制度設計が広く行われるなら、間違いを将来に活かせるだけでなく、人びとが過度のプレッシャーから解放された、より生きやすい世の中になるのではないかという期待と希望を持って研究に取り組んでいます。

【主要著書】
『歴史の哲学、哲学の歴史―ことばの創造力』(中部日本教育文化会2017年)
『間違いの効用-創造的な社会へ向けて』(ふくろう出版2015年)
『価値と真実-ハンガリー法思想史1888-1979年』(信山社2013年)
『権力の社会学-力が生まれるとき』(ふくろう出版2012年)
『人びとのかたち-比較文化論十二講』(ふくろう出版2011年)
『法と道徳-正義のありか』(日本出版制作センター2009年)
『行政法 クロネコ起業物語』(コンポーザーズアーカイブ2005年)
『人と人びと-規範の社会学』(いしずえ2003年)

2018年1月18日 (木)

番外編 誰でもできるブルース演奏

以下は勤め先のサイトに載せた文章です。こちらにも転載しておきます。
 皆さんは小学生の頃から、音楽の授業で楽譜の基本的な読み方を教わり、歌を歌ったり、リコーダーやピアニカなどの楽器を演奏したりした経験はあることでしょう。そこで教わるものは基本的に近代西洋社会で整備された、いわゆるクラシック音楽の技法です。そこでは楽譜に記されている音とリズムの記号を正確に解釈し、演奏することが求められます。
 この延長線上にあるのは西洋古典音楽の大家が作曲した作品を忠実に再現する芸術で、そこでは譜面とは違う音を出したり、拍子がずれたりすると、「間違った」演奏ということになります。そして、一流の演奏家は、古典的な名曲を、その複雑な旋律とリズムを正確にとらえるだけでなく、作曲家の思想までをも解釈して演奏します。
 西洋古典音楽はその演奏規則が確立し、一流の演奏家になるための練習法も段階ごとに体系化されています。実際、物心ついた頃からピアノやバイオリンのレッスンに通った、あるいは通わされた経験のある人も少なくないでしょう。その幼少期の天才少年少女たちの中からさらに選ばれたごく一部の人は職業音楽家または芸術家になっていくわけですが、もちろんそれはごく一握りの人に限られています。
 しかし、こうした一流演奏家を養成するような解釈学的プログラムだけが音楽だと思うと、音楽は演奏する者にとっては大変窮屈な修練の場となり、聴衆にとっては、一流演奏家の奏でる天才音楽家の作品をその思想とともに鑑賞する衒学的娯楽の場となってしまい、どうかすると、そこは何とも窮屈な空気が支配するところとなってしまいます。
 このように専門的に発展し洗練されていく中で、西洋音楽が一部の優れた演奏家が提供するアカデミックな芸術となってきたのは、歴史的に発展してきた文化の一つのあり方ではあります。今私の机の上にシェイクスピアの『マクベス』をヴェルディがオペラにしたシノーポリ指揮、ベルリンオペラ劇場オーケストラという名演奏のCDがあります。こんな豪華極まりない演奏はまずないといっていいくらいのものですが、それでもあくまで一つの音楽のジャンルにすぎません。
 この録音をプレゼントしてくれたオペラファンの友人は、オペラが演劇の『マクベス』を超えた感動を与えてくれると主張してやまないのですが、シェイクスピアをイタリア語で歌って英語の演劇の世界を超えるというのは私には今ひとつピンとこないところがあります。
 それはそうと、世界には様々な音楽がある中で、西洋古典音楽だけが真正の音楽芸術で、ポピュラー音楽や歌謡曲のような音楽ジャンルはこれより何段階か芸術性が劣る大衆芸能にすぎないと考える人がいるとしたら、それは当人の芸術に対する無理解を示すものでしかないでしょう。
 人びとの心を動かすという点では、西洋古典音楽も大衆音楽も違いはありません。ただ、大衆音楽は西洋古典音楽よりも敷居が低く、世界中で多くの聴衆を獲得しています。ロックやポピュラー音楽や歌謡曲などは、しばしばその歌詞とともに多くの人びとが口ずさみ、カラオケで歌うなどして親しまれています。
 こうした大衆音楽は、西洋古典音楽のように3歳から音楽教育を受けていなくても、極端に言えば誰でも多少楽器の奏法を覚えるだけでいきなり演奏家あるいは作曲家の側に立つことができます。若者が仲間とバンドを組んで自ら作詞作曲した音楽を演奏することは珍しくありませんし、オペラでフルオーケストラをバックに名曲を歌うような手間ひまをかけなくても、極端な場合はギターやピアノを用いて一人で弾き語ることができます。これにドラムとベースあたりを加えれば、もう立派なロックバンドになります。
 たとえば、ボブ・ディランの歌はオーケストラの伴奏がなくても、本人がギターを抱えて一人で歌うことができるわけですが、聴衆に伝わる音楽性あるいは文学性はそれだけでも十分です。そのディランのノーベル文学賞をめぐる様々な評論の中で、西洋中世の吟遊詩人の系譜に連なるものだという指摘がありましたが、確かに世界の諸民族の歴史をさかのぼると、一種の宗教的儀式にともなう神事芸能が起源となっていると言われています。そこでは詩と音楽、さらに踊りが一体となった劇的な表現形式が存在していた形跡がうかがわれます。
 この点では今日のロックやポピュラー音楽は伝統的芸術表現の系譜につながる側面を持っていますが、同時にその楽曲の形式という点では、和音の流れの中で曲を作るという西洋音楽の基本的枠組みの中に収まってもいます。そして、その原型は賛美歌のシンプルな和声の上にアフリカの民族音階が乗った12小節のブルースにあります。西洋音楽とアフリカの民族音楽の要素が溶け合ったこの新たな形式は、その後の音楽の発展の基礎となります。
 ブルースはたいへん入りやすい音楽形式です。楽譜が読めない人でもギターのコード、EとAとBという3種類の指の位置を覚えることで、とりあえず音楽にすることができます。EとAとBというのはギターの開放弦を利用するため、あまり多くの指で抑えなくていいということで、I度(ドミソ)、Ⅳ度(ドファラ)、Ⅴ度(シレソ)と覚えてもらうと、わかりやすいという人もあることでしょう。
 インターネットのYouTubeで、Robert JohnsonのSweet Home Chicagoという曲を検索してみてください。大変素朴な形のブルースが聴けます。この曲をブルース・ブラザーズやエリック・クラプトンもそれぞれ演奏している動画もありますので、聴き較べてもらうといいと思います。
 さらに同じくYouTubeでBluesとBacking Trackという単語を入力して検索をかけると、練習用カラオケの動画が沢山発見できます。コード進行が音に合わせて表示される動画もあります。この伴奏に合わせてド、ミ♭、ファ、ファ♯、ソという5音を入れてみてください。不思議なことに誰がどうやっても、それらしいブルースのメロディーを即興で奏でることができます。
 この5音はブルース・ペンタトニックと言われる音階で、先述のように、このアフリカ起源の民族音階がアメリカで西洋音楽の和声の上に乗ってブルースという音楽形式が生まれました。音楽理論的にはなぜこれが合うのか十分説明できないところがあるそうですが、印象としては、このペンタトニックは西洋音楽的に言うと短調のメロディーですので、I、Ⅳ、Ⅴの長調の和音に乗ることで、明るい伴奏の上に悲しいメロディーが奏でられるという複雑な味わいが生まれます。この音が悲喜こもごも、幸せも不幸せも次々と押し寄せてくる人の一生を象徴したような雰囲気が醸し出されます。
 少しでも楽器に心得のある人でしたら、このブルース・ペンタトニックを試してみてください。Eのブルースでしたら、小学生の頃買ったリコーダーでミ、ソ、ラ、シ♭、シ♮が指使い的には楽かもしれません。
 これに慣れてくると5音以外でもシ♭(リコーダーならレ)のようにしっくり来る音があることがわかってきますし、それで一層ブルースらしい気分を味わうことができるでしょう。できればⅤの和音は属7度を加えてみてください。そして言うまでもないことですが、楽器演奏だけでなく、思いついたメロディーに自由に詞をつけて歌うこともできます。
 毎日の仕事がつらい上に薄給で、家ではカミさんもうるさい、でも、子どもたちだけはかわいくてたまらない、みたいな内容を12小節を何度も繰り返しながら語っていくと、もう立派なブルース歌手、ジャズ歌手の誕生です。
 こうした創造的アプローチができるのが、ジャズに始まり、ロックやポピュラー音楽として発展してきた音楽ジャンルの特徴です。西洋古典音楽では姿を消してしまった即興演奏もここでは健在です。ジャズは即興演奏の技法をどんどん発展させて、これはこれで難解になりすぎた側面がありますが、やはり元はと言えば、この素朴な3コードのブルースが基本です。
 自由に音と歌を楽しむというのが音楽の本来のあり方です。ぜひ3コードのブルース演奏に一度挑戦してみてください。この創造的な遊びを実践してみることで、音楽以外の他の分野にも応用ができるような様々な気づきが得られることでしょう。

2017年4月 2日 (日)

師匠の背中を追って

以下は通信教育部のウェブサイトに載せる予定の原稿です。長くなったので、字数制限がかかるかもしれません。とりあえず、こちらに完全バージョンを置いておきます。

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師匠の背中―あるいはフランス思想の特徴について

  

 私の大学院での指導教授は中村雄二郎という哲学者でした。中村先生は西洋哲学における sense の問題を「共通感覚」としてとらえ直し、展開させて来られました。90歳を越えた今も、執筆こそされてはいないものの、変わらずお元気でいらっしゃるそうです。

 中村先生は書斎の中だけで思索するタイプではなく、一時はデザイン事務所を開こうかと思われていたほど絵心があり、実際、ご自身の著作の多くの装丁を手がけられています。また先生は、東京は下町生まれの生粋の江戸っ子で、子どもの頃から東京中の能や歌舞伎、古典から現代演劇まであらゆるお芝居を観て歩いてこられた見巧者でもあります。

 さて、当時の大学院のゼミは毎週土曜日の午後に隔週で英語とドイツ語の文献を読み解いていくもので、私が博士課程に入ってからは午前中のフランス語の文献購読が加わり、一日78時間くらいは顔を突き合わせているような状態でした。もっとも、先生に観劇のご予定があるときだけは幾分早めに終了しましたが。

 ゼミではドイツ語はケルゼン、フランス語はコジェーヴ、英語ではマッキンタイアなどの文献を読んでいましたが、こうした思想書の原典講読を通じて、入念なテクスト読解と議論の仕方を体得していくのは、わが国の人文系・社会科学系大学院の伝統的な方法でした。

 このオーソドックスな授業方式は、授業の前に丁寧に下読みしていくことで、文献読解力が向上することはもちろんですが、原典の理路を丹念に追うことを通じて、著者の緻密な論理展開の方法を体感することができます。そして、その読解作業での先生のコメントを通して、ソクラテス、プラトン以来の西洋哲学の問題を今日の中村雄二郎という思想家がどう受け継いできているのかということについても間接的に教えられることになるわけです。

 中村先生の「共通感覚」という問題もまた、アリストテレス以来のそれを受け継いできたものですが、理性中心に展開されてきたデカルト以降の近代哲学の流れの中ではこのsensus communis の問題は傍らに追いやられてきました。ところが、近代理性中心主義の歪みが意識されてくるにつれて、このsense の問題は現代哲学の重要なトピックとして再び浮かび上がってくるようになりました。

 中村先生のこの問題へのアプローチはパスカル、ベルクソン、アランといったフランス哲学の系譜に連なるもので、実際に先生はベルクソンやアランの本を翻訳されていることもあり、そうした先達の直感的方法については彼らのフランス語と格闘しながら体得されていたように思われます。

 もとよりフランスの哲学者・思想家には、詩人のことばのような印象的な表現を紡ぎ出してくるところがあります。有名なところでは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」やパスカルの「人間は考える葦である」といった表現がありますが、哲学の文体もこういう気の利いた直感的表現が連想でつながっているようなものとなります。

 フランス哲学ではときにテクストの思わぬところに重要なことが書かれていることがあり、著者の論理の飛躍にも付き合わなければならないところがあります。同じ西洋哲学でも、論理を丹念に組み立てていくドイツ的な思考法とはしばしば好対照をなしています。

 そうしたフランスの先哲の言葉は読み手の側に強い印象とともに記憶され、脳裏で反復されては、現実の社会の中でことあるごとにその有効性を検証されていくことになります。そして、こうして問題を考え続けていくと、まれに哲学的問題の一見かけ離れた点と点、概念と概念とが結びつくようなひらめきが得られ、それまで予想もしなかった視界が開けることがあります。もっとも、そんな僥倖は年に何度もあるものではありませんが。

 私の場合、ここ何年かは、ベルクソンの「宗教は自然の防御的反作用である」というテーゼと、アランの「社会は強制された友情のようなものである」という表現にほとんど取り憑かれたような状態でいます。最近ようやくささやかな閃きらしきものが得られましたので、その一部は今年の秋に『言葉の創造力―歴史・思想・宗教』という題名の著書を出す予定です。

 ところで、中村先生がよくおっしゃっていたのは、17世紀、18世紀、19世紀からそれぞれ一人の思想家を選び、その著作を生涯何度も繰り返して読むように、ということでした。時代の流行に惑わされそうになったら、そこに立ち戻るといい、とも。そういえば、1980年代にわが国でも流行ったあのポストモダンというかなり浮ついた潮流からも先生は適度で絶妙な距離を取りつつ、ご自身の仕事に集中されていたことが今にして思い出されます。

 さて、不肖の弟子たる私も、この点については師匠の教えを素直に守って、それぞれデカルト、カントおよびヘーゲルを選び出し、今でも折にふれて読み返すようにしていますが、それに加えて当時の中村先生の言葉は、還暦も近づいてきた今になっても何度も脳裏に甦ってきます。ほとんど習慣のようにいつも先生の言葉を思い浮かべては、その言葉と心の中で対話をしながら問題を考えてきたためか、いつのまにか喋り方まで似てきてしまったようです。

 以前、ある研究会で私が発表したとき、研究会の世話人で、同じ中村雄二郎門下の後輩であるI君から、私の口調が先生そっくりだったので、笑いをこらえるのに苦労したと言われたことがあります。師匠の影響は、もはや思想だけでなく、身体にも及ぶようになってきたようですから、まったくもって師弟関係おそるべしです。

 実際のところ、現在の私の研究も、人びとが当たり前と思っている文化や規範のあり方について、哲学的、社会学的、あるいは社会心理学的分析を行うものですので、言うまでもありませんが、これは中村先生の提起された「共通感覚」の問題圏を一歩も出ていません。

 おそらく今後も師匠の背中を追いながらも、ついに追いつききれない自分を思い知らされるのは間違いないでしょう。せめて置いてきぼりにだけはされないように精進していきたいと思っています。


2017年3月 1日 (水)

「ゆるさ」の効用:ハンガリーから「天才」が生まれる理由

以前書いたまま迷子になっていた原稿が出てきたので、とりあえずここに再掲します。
 ハンガリー出身のノーベル賞受賞者は2006年現在で13名を数えます。これは人口比では世界一の数字です。さらには、ノーベル賞受賞者ではありませんが、数学者のJ・フォン・ノイマンやP・エルデシュのような正真正銘の天才を現代世界の様々な分野に送り出してきています。私たちの身の回りを見渡しても、ボールペンやルービックキューブ、ワープロソフトのWordなど、ハンガリー人による発明品がいくつも目にとまります。
 なぜこれほどまでにハンガリーという小国が才能を輩出するのかという、この現代史の謎とでもいうべき問題を取り扱った書物には、古くはL・フェルミの『亡命の現代史−二十世紀の民族大移動』(みすず書房)や、最近ではGy・マルクス『異星人伝説』(日本評論社)といった邦訳もあります。とりわけ後者は「ユダヤとの混交」という節でハンガリー文化とユダヤ人の関係に触れています。
 実際、こうしたハンガリー出身の世界的著名人たちの圧倒的多数が、ユダヤ系ハンガリー人であることも確かです。彼らは19世紀後半に中東欧近隣諸国やロシアから自由を求めてハンガリーに移住してきたユダヤ人たちの末裔です。そして彼らがハンガリー文化を積極的に受け入れた、いわゆる「同化ユダヤ人」であったことも特筆すべき事実です。もしもハンガリー出身のユダヤ人の業績がすべてそのユダヤ性に由来するとしたら、後でみるようにお隣のオーストリアの亡命ユダヤ人たちと同じような性格を持ったものとなったことでしょうが、両者には実際かなりの違いが見られ、それぞれにハンガリー的であり、オーストリア的あるいはブダペスト的、ウィーン的な性格を備えているように思われます。
 後に彼らの一部は、政治的環境の変化のために、より自由な活躍の場所を求めてハンガリーを後にすることになりますが、亡命先のアメリカの原子力開発委員会やハリウッドの映画村においても、周囲の人にしてみると「異星人の言葉」にしか聞こえないハンガリー語を喋り続けては顰蹙を買ったりしています。
 さて、ここで、ハンガリー文化が亡命ユダヤ系ハンガリー人の間でどのように生き続けていたかということについて、一つの逸話を紹介しておきましょう。
 かつて、ノーベル化学賞の候補に推薦されることを拒んで哲学へと転じたというユニークな経歴を持つハンガリー出身の科学哲学者マイケル・ポランニー(ポラーニ・ミハーイ1891−1974)は―拒まなければ受賞は確実だと言われていましたし、もしそうなっていれば、後に受賞した息子のJ・C・ポランニーと合わせて史上初の親子二代の受賞となるところでしたが―、その晩年の死の床にあって、見舞いに訪れたハンガリー人の友人が呼びかけたときには、もはやまともに応答できないほどにハンガリー語を忘れていましたが、そのときでも、若い頃影響を受けたハンガリーの詩人E・アディの詩だけはそらんじることができたそうです。
 ポラーニ家の家庭内での使用言語はまずはドイツ語、ロシア語、ハンガリー語に英語だったので、ドイツやイギリスでの生活が長かったマイケルがハンガリー語を忘れてしまうのも無理はありません。しかし、それだけにこの逸話は、ハンガリー文化が亡命ユダヤ人たちの心の奥底にしっかりと根付いていたことを物語っていると思われます。
 ちなみに、同時代のユダヤ人ということならば、お隣のオーストリアにも、いわゆるウィーン世紀末文化を彩った華々しい才能が集っていました。こちらの才能は明らかにオーストリア文化圏の中で培われたものでしょう。たとえば、トゥールミンとジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』(平凡社)や上山安敏『フロイトとユング』(岩波書店)といった名著がこの時代の芸術文化と歴史的背景を見事に伝えてくれています。
 このウィーンとブダペストは、同じハプスブルク帝国内の、それほど距離的に離れていない場所にありながら、そこから育っていった才能の一団はそれぞれが全体として極めて対照的な特徴を示しているように思われます。
 ウィーンのユダヤ文化は感覚的に洗練されていて、何者かに抑圧されるかのような重苦しい空気の中で、マニアックなまでに精密かつ繊細な美しさを追求し、重苦しい圧力から自己の内面の解放を企てる一方で、どこまでも律儀に合理的な説明を求めていくといった傾向があるように思われます。
 他方、ブダペストのユダヤ人たちは、ハンガリー人の影響を受けてか、おおざっぱでせっかちで現実的です。一見矛盾するいくつかの要素を意外な仕方でつなげて見せることに秀でていて、合理的説明にこだわるよりも先に、科学的発見・発明の成果を実際に示してしまいます。ウィーン学団の論理実証主義のようにひたすら論理にこだわるようなことは、得意でないというより、ほとんど体質的にうけつけないようにも見えます。
 たとえば、ウィーン出身の哲学者で論理実証主義にも多大な影響を与えたウィトゲンシュタインは著書『論理哲学論考』の最後の頁で「語り得ぬものに対しては沈黙せねばならない」という有名な台詞を残しています。これが、ブダペスト出身のM・ポランニーでは、ウィトゲンシュタインのセリフとは対照的に、人間には「語りうる以上のことを知る能力」がある(『知と存在』)ということになります。同じようなことを言っていても、ポランニーは沈黙せずに、いくつものノーベル賞級の科学的発見をなしとげた上に、これを「暗黙知」という概念で展開させては、哲学者としても積極的な発言をしています。
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 さて、ここで、ハンガリー流に話題を飛躍させて、私なりにひとまずの結論を述べておきましょう。というのも、こういう問題は論証できるものではありませんし、そうでなければ、仮説を提示するという形でしか答えようのない種類のものだからです。
 すなわち、ユダヤ系ハンガリー人たちには、ハンガリー文化の持っている一種の「ゆるさ」が決定的な影響を与えているということなのです。そして、そのことが、彼らの破天荒なまでに自由な発想の飛躍を可能にし、その才能を引き出すことに成功したと考えられるのです。
 ここでいう「ゆるさ」というのは、私たち日本人がハンガリーで生活を始めたときに必ずといっていいほど悩まされる、あの「いい加減さ」と同じものでもあります。ハンガリー人ときたら約束は守らないわ、時間には遅れるわ、とんでもない不注意なミスはするわで、律儀なことではひょっとしたら世界一かもしれない日本人は彼の地でしばしば悩まされるのです。
 私の留学中はまだ社会主義的経済体制だったので、これは社会体制に特有の問題かと思っていたのですが、長年ハンガリーで暮らしている日本人からの情報によれば、このいい加減さは市場経済移行後も健在のようです。近代ハンガリーの行政史といったやや専門的な歴史をさかのぼってみると、これは社会主義の負の遺産というよりは、それ以前からの伝統的なものではないかとさえ思われます。近代化の苦労はいずこも同じですが、このいい加減さは歴史的にも筋金入りといえるかもしれません。
 いずれにしても、これだけいい加減だと、むしろいいこともあるわけで、細かいことに気をつけないということによって、かえって少々のミスは気にしないというおおらかな気風が育ってきますし、こちらのミスも随分と大目に見てくれることがあって助けられたりもします。いい加減さは時には良い加減、つまり心地よさにも通じているのです。
 そして、この「ゆるさ」があるからこそ、身近な友人を大切にし、お互いに信頼しあうという独特の「仲間の集い」 társaság が形成されてきたのではないかと思います。ハンガリーの仲間の集いというのは、気の合う仲間たちがカフェやレストラン、あるいは誰かの自宅のサロンなどに定期的に集まっては世間話を交わすというだけの、本当にのんびりした和やかな会で、そののんびりした空気を味わうためだけに何十年も集まり続けているという習慣です。仲間同士では当然敬語を使わず、年齢が離れていても上下の人間関係ではなく、あくまで心理的に水平の友人関係で話をします。
 他の国のことは知りませんが、この仲間の集いに何度か入れてもらってみると、この習慣はひょっとして他のヨーロッパ諸国にもあまり見られない、ハンガリー独特の文化なのではないかという気がしてきます。ハンガリー人たちは実はひょっとしたらあのウラル山脈の麓で遊牧生活をしていた頃からこうして気のおけない仲間たちが定期的に集っていたのではないかと想像されます。
 それはともかく、この仲間の集いが自分たちの才能を確認し合う場になってきたことは事実です。いくら天才たちといえども、最初からまったく一人きりで活躍し始めるわけにはいきません。彼らが才能を発揮し始めるときには、それを認めて感嘆したり、わがことのように喜んでくれたりする良き観客としての、仲間の存在が必要だからです。
 この「仲間の集い」というハンガリーの美風は―少なくともハンガリー社会に寛容性のある間は―優れた才能を発掘し育てるという点で、世界に向けて偉大な貢献をしたと考えられるのです。
(「愛知県ハンガリー友好協会報」2007年1月号初出に加筆)

2015年9月26日 (土)

シンポジウムの写真

2015年9月16日のシンポジウムの写真です。


三苫民雄「東洋的視点から見たハンガリー法哲学の伝統」

会場:エトヴェシュ・ロラーンド大学法学部

A magyar jogbölcseleti hagyomány keleti nézőpontból - Mitoma Tamio

Posted by Jog- és állambölcselet TDK on 2015年9月25日

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2015年9月21日 (月)

ハンガリー法哲学派についてのノート

 2015年9月16日にブダペストのエトヴェシュ・ロラーンド大学法学部でゲストスピーチをするにあたって、およそこんな話をしようと思って書き留めた原稿です。実際にはこれを忠実に翻訳するのではなく、あらためてハンガリー語で書いたものを元に話をしたので、いろいろと違っているところはありますが、大枠はこんな感じでした。ハンガリー語の原稿ではもっと日本のことも書いているので、あらためてそちらはそちらで日本語に直して載せることにします。

 というわけで以下は準備原稿のそのまた準備という感じです。
************************

1.「われわれはどこから来たのか、われわれは何者なのか、われわれはどこへ行くのか」
 ゴーギャンの最後の大作の題名である。哲学の問題の根本は普遍的で、プラトン以来の哲学もその根本にある問題はおそらく変わらない。今日でも、人間や社会についてモノを考える人たちは皆この問題を継承してきていると言える。
 この学問的には解けない問題に取り組もうとする人びとはおそらくどの社会でも常に一定程度現れてくると思われる。

2.かくいう私もそうした若者の1人だった
 さて、私も何時の時代にもいる哲学青年の一人で、西洋哲学の古典から当時日本でも次々に翻訳が出されてきていたポストモダンの哲学までを読みあさっていたこともあり、法哲学・法社会学・法思想史の分野を大学院での専攻に選んだ。
 大学院入学当初はデュルケームやモースからレヴィ=ストロースへと連なる構造主義的な社会理論に興味を惹かれ、フランスへの留学も考えていたが、そのころ日本のポラニー派の草分けでもあった栗本先生が、カール・ポランニーの先生にピクレル・ジュラという学者がいて、面白そうなので調べてくれないかというお願いとも命令ともつかない助言をもらったのが、私のハンガリー研究のきっかけとなった。
 当時、ポランニーにも興味を持って、その著作をひと通り読んでいたのと、学部の頃から栗本先生の授業にも出ていたこともあって、私の中ではそれほど違和感なくこの提案を受け入れることになったのだが、あとから聞いた話では、栗本先生はいろんな大学院生にピクレルをやらないかと声をかけていたそうで、その中で私だけがただ一人この話に乗ったということだったらしい。
 しかし、当時栗本先生の紹介で、たまたま日本に国際会議で来ていたポランニーの娘のカリ=レヴィット・ポランニーや共同研究者のエイブラハム・ロートシュテインを紹介されて、秋葉原や新宿を案内したり、哲学者のベンツェ・ジェルジュと一緒に京都・奈良を案内して回ったりと、貴重な経験をさせてもらった。
 ハンガリーを最初に訪れたのは1985年の3月で、この時、ベンツェからナジ・エンドレを紹介された。エンドレからは色々とアドヴァイスを受け、資料収集の便宜も図ってもらって、本当に助けられた。

3.ピクレル・ジュラからショムロー・ボードグあるいはハンガリー法学派
 このとき集めた文献や資料を読んでいくうちにまずわかったことは、ピクレルの理論はかなり極端な心理主義で、自然科学的アプローチを徹底させたものだということと、肝心のポランニーには少なくとも理論的にはほとんど反面教師としての影響しか与えていないことだった。
 もう一つのもっと重要なことは、ハンガリーにはそのピクレルとさらにその師匠のプルスキ・アーゴシュトに始まる法哲学の知的鉱脈があることで、特にショムロー・ボードグはコロジュヴァール大学でのポランニーの指導教官で、ポランニーにも影響を与えた可能性があることがわかった。
 というわけで、このときから、ショムロー・ボードグを中心に論文をまとめることにして、1989年にELTEのBTKに博士論文を提出した。
 私が特に集中して読んできたのはプルスキから、ピクレル、ショムローまでだが、その後のモール、ホルヴァート、ビボーも含めて、彼らが取り組んできた問題とそのアプローチは法および社会現象を考えていく上で重要な問題提起を含んでいる。
 思うにおそらくはどこの国の研究者もこの点に関しては事情は同じで、先人の業績を読み込んで自分の考えを紡ぎだすことに取り組んできた。
 プルスキとピクレルはイギリス経験論哲学、ショムロー以降はカントあるいは新カント派法学あるいは社会理論としては、H.S.メイン、ベンサム、ハンス・ケルゼンといった思想家の著作を読み込みながら、自身もまた新たに質の高いテクストを残している。
 この点については特に今日のゲストのお二人にフォローをお願いしたい。
 なお、このハンガリー法学派については、特にショムローやホルヴァートの業績は第二次世界大戦前の新カント派の流れを汲む我が国の学会でも紹介されていた。(なお、ヴァシュ・ティボルの小著『先験的法哲学』の翻訳もあるくらいである。)

4.私自身の研究
 さて、本来なら私もホルヴァートやビボーの著作をじっくり読み込んで、この続きを考えていくとよかったのだろうが、留学から帰国してしばらくして定職についたところが法律の専門学校だったため、ハンガリーの法哲学ではなく、日本の民法や行政法を教えることになり、7〜8年ハンガリー研究からは遠ざかってしまった。
 その後短大に職を得て、再び研究に時間を割くことができるようになったのは幸運だったが、実は専門学校で実定法の解釈学を教えた経験もまた、法哲学や社会理論を考える上で視野を広げることになり、よかったと思う。
 研究時間が十分に取れない中で、少しずつ自分自身の考えをまとめた本を出すようになり、法と社会理論に関する著書は行政法の教科書を含めると今年で7冊目を数えるようになった。
 実はこの一連の本を書くときの問題意識が、ショムローのJuristische Grundlehre(1917)とGüterverkehr in der Urgesellschaft(1909) に共通するもので、法や社会現象の背後にあって、これを成り立たせているメカニズムの解明ということである。
 これは法学と言うよりは社会学的な構造理論で、1909年当時はモースくらいしか理解せず、1917年には本の出版の手引きをしたはずのケルゼン自身が、純粋法学の立場から批判している概念であった。これを戦後、構造主義が引き継ぎ、共鳴する形で発展させたということができる。また、これは同時に、ポランニー経済人類学の「統合の三形態」とも親和性の高い理論でもある。
 この考えは、ショムローに先立つピクレルの『客観的信念の心理学』(1890)においてもすでに見られる視点である。そこでは人びとの信念が形成されるということへの心理学的アプローチが試みられているが、これは経験論的哲学の流れの延長上にあるユニークな心理学であると同時に、欲望の社会学へと展開する可能性を秘めた議論でもあった。
 こうして若い時に読んだピクレルの心理学とショムローの構造主義的社会理論から無意識の影響を受けているため、ハンガリー研究をまとめた本以外の研究は人間社会をその根底で拘束し、動かしている文化や規範の無意識のシステムが対象となって現在に至っている。
 私が今年出した本は社会心理学的アプローチをとって、人間の間違いを積極的に受け入れて、イノヴェーションにつながる可能性を探ることと、そうした発明・発見が可能な自由な社会、多くの文化を異にする人々が行き交う交差点のような社会へ向けた制度設計を提起するものとなっている。
 私が影響を受けた知的リソースはおそらくハンガリー法学派の半分に過ぎない。ショムロー以降のモール、ホルヴァート、ビボーといった貴重な知的資源については十分消化しきれていない。
 しかし、これは今ここにいらっしゃる仲間や若い皆さんこそ取り組んでいただきたい。
 伝統的な法解釈学や政治学との関わりが一層強まる印象のあるショムロー以降のハンガリー法学派の系譜については、今後再び個別専門的に法哲学の理論研究を進めることがあれば、また改めて取り組みたい。

5.西洋哲学の異質性
 この話の最初に、哲学の根本問題は普遍的だと述べたが、それは西洋哲学、特に伝統的形而上学のアプローチが普遍的だということを意味してはいない。
とりわけデカルト以降の近代哲学はキリスト教的背景のもとに発展していったため、日本の文化的伝統からすると、極めて異質なものとなる。
 日本の場合は基本的に宗教的慣習や儀礼的空間の中にいるため、自らは「特別な宗教を持たない」と言いながら、無神論者ではなく、文化的・宗教的に均質な空間の中で、おそらく古代からの宗教意識を「無意識的に」保持した生活を送っている(他方でキリスト教徒は総人口の1%未満)。
 この独特の宗教的空間は、結果的には日本人のいわゆる集団的行動パターンを規制している。かく言う私も栗本先生のお願いとも命令ともつかない指導に従ってきたのだから、その例外ではない(そういえばロートステインは「封建的だよね」と感想を漏らしていた)。
 こういう閉じられた宗教空間では、絶対価値あるいは唯一絶対神の存在を前提とした西洋形而上学の「存在論」は基本的に異質なもので、ついでに言えば、近代市民社会の「法の支配」も形は整えられてあっても、その適用は全く別のものになる。
 こういう知的・社会的風土では、実は近代の理性中心主義的哲学よりも、それをときには(ハイデッガーのように)ギリシアの伝統にまでさかのぼって批判するようなポストモダン哲学が結果的に理解されやすいことになる。
 今日の価値観の崩壊しつつある社会を、あえて難解な概念で飾るポストモダン哲学も日本ではほとんど翻訳されており、そのペシミスティクな結論もそのまま受け入れられやすいという奇妙な共鳴関係が成立する。
 例えば「存在」の哲学ではなくて、「生成」の哲学が必要だといわれると、実は日本の社会は、誰が決めたわけでもなく命じられたわけでもないのにあるきっかけ(明治維新)で何かに突然「変化してしまう」というようなことが歴史の中に何度も繰り返して生じてくる傾向がみてとれる。
 しかし、ここで置き去りにされた価値や道徳の問題は今後どうやって回復できるのかとなると、また、別に問題を立てなければならない。
 私自身の研究の出発点に帰ってみると、そこであらためてホルヴァートやビボーの考えていた問題につながってくるのかもしれないが、このことに関しては他の論者にも意見を伺ってみたい。
                       以上

2015年9月 2日 (水)

西洋近代哲学の説得力とそのキリスト教的背景

最近まで書いていた論文の冒頭ページです。無事掲載されれば日の目を見ます。

英文はネイティブチェック済みです。

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近代西洋哲学の説得力とそのキリスト教的背景

三苫 民雄(愛知産業大学短期大学)

The persuasiveness of modern Western philosophy
and its Christian background

Tamio MITOMA(Aichi Sangyo University College)

 Modern rationalist philosophy was established by Descartes (1596–1650) and completed by Hegel (1770–1831). Although the rationalist philosophy eliminates God from itself and makes it possible to do without God in principle, modern philosophers including Kant (1724–1804) were devout Christians in their daily lives. They all had acquired their philosophical ideas and theoretical basis from their belief in God. However, this is ironic: the more systematically completed rationalistic philosophy, the less persuasive its Christian features become. Instead of Christian belief, the philosophy of Kant was supported by the physics of Newton, and Hegel’s philosophy was supported by the French Revolution. While modern rationalist philosophy made human reason transcendent, the human being as subject encountered the problem of modern anxiety described by Kierkegaard (1813–1855) and Nietzsche (1844–1900).

 梗概−訳

  [近代理性主義哲学はデカルトが打ちたて、ヘーゲルが完成させた。合理主義哲学は原理的に神を排除し、神なしでやっていけるものでありながら、実際にはデカルトもヘーゲルも(それからカントも)みな敬虔なキリスト教徒であり、その哲学理論の着想と理論的基礎は神への信仰から得られていた。しかし皮肉なことに、理性主義哲学が体系的に完成されていくにつれて、キリスト教のもつ説得力は薄れていく。カント哲学ではニュートン物理学、ヘーゲル哲学ではフランス革命が、それぞれの理論に説得力を与えている。近代理性主義哲学派人間の理性を超越的なものとした一方で、主体としての人間はニーチェやキルケゴールのいう近代の不安という問題を抱えることになる。]

キーワード: 近代理性主義哲学、説得力、キリスト教、デカルト、カント、ヘーゲル 

Key words :  modern rationalist philosophy,  persuasiveness,  the Christianity,  Descartes,  Kant,  Hegel  

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