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2014年9月

2014年9月28日 (日)

翻訳出版

今回ハンガリーに調査に行った機会に、以前から話が上がっていた拙著『価値と真実 ー ハンガリー法思想史1888−1979年  』(2013年信山社)のハンガリー語翻訳出版の計画を多少詰めることができました。

先生方の話では、ハンガリーでは久しく法思想史・法哲学史の本が出されていないこともあり、25年前にハンガリー語で書いた学位論文をはじめ、その後少しずつ書きためてきた拙稿を出版する意味はあるとのことです。

当時の学位論文を是非とも出版すべきだと評価してくださった先生は3人いらっしゃいますが、当時は留学期間も終わり、日本での仕事に追われてそれどころではありませんでした。先生方のうち1人はすでに鬼籍に入り、あと2人も70代の名誉教授ですので、こういう話が出てくる最後の機会かもしれません。

私の方は当時の先生方からの高評価を励みに、帰国後ハンガリー研究を少しずつ進めてきましたが、ハンガリー法学派のプルスキ、ピクレル、ショムローまではそれなりに論じることができたものの、ホルヴァートとビボーについては部分的な紹介にとどまり、論じるところまで行っていません。その意味では拙著の副題に「ハンガリー法思想史」と銘打ってあっても、ビボーが亡くなる1979年までというのは本当のところ看板に偽りありです。

また、拙著をそのまま翻訳しても面白くないので、存在と当為についてこだわり続けたハンガリー法学派の意義についてはあらためて思想史的考察を書き足したいと思います。また、ホルヴァートとビボーについてはナジ・エンドレとジダイ・アーグネシュの力を借りて、3人の共著として出版するほうがいいのではないかと個人的には考えています。

その際、著者3名がハンガリー法学派の問題を継承した上で、それぞれの分野で法および社会理論のオリジナルな展開を示すことを目標にしたいと思っています。

さらにその本を英訳すれば、ハンガリー法学派の意義を世界に知らしめることができるなどと夢想したりしていますが、まずはハンガリー語への翻訳ですね。

幸い、翻訳者を見つけることができたので(なんと留学中に日本語を教えたことのあるハンガリー人の研究者・翻訳家です)、作業は10月頃から始められます。資金は科学研究費を申請したいと思っていますが、こういうことに関して審査官が理解があるかどうかは不明です。審査官に与太話と思われたらそれっきりですし。まあ、とりあえず応募してみます。

幸い翻訳の謝礼や短期の渡航費用なら短大の研究費でも申請の仕方次第でさしあたり間に合うので、手続き面などを確認しながら、このプロジェクトを進めていきたいと思います。

2014年9月27日 (土)

「ある」と「べき」の論理4

「ある」の論理は、そのもとをたどれば神様が存在するという信念に支えられた論理でした。その「ある」の論理は、デカルトが転機となって、神の代わりに理性を根拠として成り立つことになり、近代合理主義に基づく自然科学の自明の前提として今日に至ります。

この自明の前提は、量子力学が素粒子を波動なのか物質なのか決めかねたとしても、また、近代科学が人類の生存を脅かす核兵器のようなものまでをも開発するに至ってもなお、現代人の心の中では科学に対する信頼とともに根付いているようにも見えます。19世紀から20世紀にかけての科学万能主義ということになると、もはや神の代わりに科学を信仰しているかのようでした。

他方で、西洋世界におけるキリスト教信仰の衰退と、それに伴う倫理や道徳の退廃、近代市場経済の生存競争の結果拡大する貧富の差、人間を取り替え可能な部品からなる機械と見るような生命観に危機を覚える人びとは、この「ある」の論理によっては語ることのできないものの存在を何とかして回復できないものかと考えていました

この意味では「ある」の論理に対して「べき」の論理を立てるという時点ですでに論理をめぐる社会情勢の危機的状況は深刻化していたわけです。

「ある」の論理は形式論理にほかならないので、デカルトの章で述べたように、そこには感性や情念、信念といったものは含まれません。しかし、これはあくまで形式論理の話であって、言語ということになると事情は変わってきます。

言語はわれわれの生身の肉体から発せられる身体性を備えたもので、論理だけでなく、人間の感情、情念、信念その他、およそ不合理なものもすべて抱え持っています。ルソーが『言語起源論』において、言語の起源は情念から自然に発せられる音であるとしましたが、カントと同時代の18世紀にすでにこうした意識が見られることは、思想史的には興味深い事実です。

時代は整然とした(ように見える)科学的=論理的言語、つまり「ある」の論理に飽きたらず、言語それ自体に近代合理主義が排除してきた非合理的な感性や情念を、また、失われつつある道徳や倫理を盛り込んだ「べき」の論理によるテキストを求めるようになります。

こうして、「ある」と「べき」の問題すなわち「存在」と「当為」の問題は、カント以来の問題であると同時に、結局近代合理主義の矛盾が科学の発展とともにますます拡大していく20世紀においても一向に事情が変わらなかったということから、新カント派によって改めて問題にされたと見ることができます。

この問題は、カントはもとよりそれ以前の神学の論理までさかのぼるという点でも論じ甲斐のあるものですが、社会と法、言語と制度といったテーマを考える際にも多くの手がかりを与えてくれます。

ハンガリー法学派が100年以上にわたってこの問題を代々継承してきているのも、特殊ハンガリー的な事情だけでなく、何よりも社会科学が考え続けていくべき根本問題が含まれているからだと思われます。

このことについては私の今の研究の進捗状況とあわせて、またあらためてお知らせします。

2014年9月25日 (木)

「ある」と「べき」の論理3

ケルゼンが意図していたのは「ある」の論理に対して「べき」の法学的論理体系を構築することでした。ただ、論理自体は「ある」の論理を鑑として、整然とした科学的論理を志したので、科学的因果関係に代えて、法律的な帰属や帰責関係を置く形式論理的な構築物を構想することになります。いわゆる「純粋法学」です。

純粋法学は法律的価値判断の根拠を「根本規範」に求め、それ自体としては「べき」の論理=規範体系を暗示したものとなりますが、ではその根本規範とは何かというと、今ひとつはっきりせず、体系を照らしだすための一種の虚焦点のような感じもしてきます。

これだけではいかにも頼りなく見えるかもしれませんが、この体系は、法は神や王の命令などではなく、それ自身を根拠として「正しい」ものでなければならず、その正しさを担保するための手続きと併せて「法的正義」を形成している、という近代法治国家の根本思想の論理を示していると解することができます。

ただし、このケルゼンの方法よりももっとはっきりと「べき」の論理を前面に打ち出してきていたのは先にも見た通り、ヘーゲルおよびマルクスの弁証法論理です。ケルゼンもこのことは十分意識した上で、自身の方法を確立したでしょうけれど、弁証法論理は最初から論理に目的が織り込まれているので、対立項を取り込みつつ、最終的にはすべてその目的へと収斂するということになります。

この目的論的論理体系は、一見わかりやすいのですが、様々な価値判断が相克する近代社会の法的紛争を信仰やイデオロギーを目的とする論理で処理できるのかという問題は最後までつきまといます。

ケルゼンの問題提起を受けた法学者の中でもハンガリーのショムロー・ボードグは、『法律学的基礎原理』(1917年)の中で、法的価値判断に先立って存在している(ア・プリオリな)基礎原理の存在を強調します。「ある」と「べき」の二元論だけでなく、人間が生まれた時からその中にあるような「べき」の存在です。自分では気がつかないまま、それに即して行動しているような「べき」のことです。

ショムローはモースやマリノフスキーに先立つ1909年に『原始社会の財貨取引』で、人類社会における取引の原初形態を、経済的=法的関係としてとりあげていますので、こういう社会の根底にある規範関係については常に意識していたのだと思われます。

ケルゼンはこうしたショムローの問題提起は社会に「ある」事実から出発する論理であり、「べき」の論理に含ませるべきではないという立場からショムローの立場を批判していますが、『法律学的基礎原理』のドイツ語での出版を後押ししたのはほかならぬケルゼン自身で、この点では懐の深いところを見せています。

「ある」と「べき」の二元論は、形式論理的に考える限りは相互に矛盾をきたします。ルカーチは『歴史と階級意識』において、ショムローの『法律学的基礎原理』をも参照しつつ、この存在と当為の二元論が二律背反にあることを指摘するとともに、その克服に「革命」を位置づけていて印象的です。ちなみにショムローはコロジュヴァール大学でルカーチの法学博士論文の指導教授でした(以前述べたように、K・ポランニーの指導教授でもありました)。

ただし、弁証法的にすべてを捉え直すとしても、そこに人間の社会性や行動(実践)という要素が入ってくると、具体的な法律論としては何も語れない場合が出てきます。個別具体的に考える場合には、議論を設定しなおさなければならないようです。(この項あと一回続きます)

2014年9月24日 (水)

「ある」と「べき」の論理2

人としてこの世に生まれた以上、自分はどう行動す「べき」か、とかこの世はどうある「べき」かという問題から離れるわけにはいきません。仮に1から10まで誰かに言われたとおりにふるまっているとしても、その誰かの指示に従う「べき」という問題がついて回りますし、そちらのほうが有利だとか楽だという価値判断がその「べき」に先立って行なわれています。

二元論的思考も本来はこの二つをいつまでも並べ立てておくのではなく、必ず一方が他方より優位にあることを強調しますが、どういうわけか劣位に置かれたものが自立して優位にあるものを取り込んでしまい、本来の価値体系が壊れてしまうということが起こります。

キリスト教思想家のフランシス・シェーファーは「恩寵と自然」(トマス)、「自由と自然」(ルソー)、「信仰と合理性」(キルケゴール)、といった二元論において、後者が前者を滅却してしまう様子を思想史的な流れの中であとづけています(シェーファー『そこに存在する神』)。

この図式が大枠で正しいとすれば、「ある」と「べき」の二元論においても、現状の失われた倫理や道徳を回復しようとして「べき」の優位を確立しようとすると、実はかえって「ある」の論理が科学万能主義や人間=機械論として確立されてしまうのではないかというおそれが出てきます。

これが弁証法論理なら一つの過程に対する対立項を恣意的に選択し、その中で論者の意図する方向に時間と行動をセットすることで、過去から将来にわたって整然とした理性と情熱的な人類愛の物語を紡ぎ出すことができます。

この論理は多くの人々を煽動する力を持っていましたし、今も変わらず持っていますが、それは新たな社会を創造するという宗教的情熱によって支えられているからだと見ることができます(ベルジャーエフ)。

しかし、ドイツの「30年戦争」(1618〜1648年)のように宗教による血で血を洗うような争いを無効化する仕組みとして、近代市民社会という脱宗教的な「法の支配」に基づく社会制度を築き上げてきた西洋社会において、歴史の流れに逆行するようなことだけは認められません。

この意味で、新カント派はヘーゲル以前のカントの二元論的思考に戻って近代科学を基礎づけようとするわけですから、かなり困難な戦いを強いられていたように見えます。その中でもとりわけハンス・ケルゼンが目指していたのは「ある」の論理に対して「べき」の論理体系を構築することでした。(この項続く)

「ある」と「べき」の論理1

ハンガリー法学派が取り組んできた「存在 Sein 」と「当為 Sollen 」の問題は、カント以来の合理主義哲学の問題であると同時に、法学にとっては「事実」と「規範」の二元論としてつねに意識せざるをえない問題です。

もともと何かが「ある」ということと、何かがある、または何かをする「べき」ということは一致しません。「べき」には目的と価値が含まれていて、「すべては神のご意志」と解釈するような立場を除けば、世の中の「ある」ことをすべて「べき」で説明するわけにはいかないからです。

他方で、すべてが人間の価値判断を排した中立的な客観的「ある」から成り立っているというのも、自然科学的な前提としてそうなってくれているとありがたいのですが、客観的な観察一つをとっても、人間の主観というフィルターを通ってなされるため、これもまたそう簡単に言うことはできません(20世紀の量子力学はそういう問題に実際に直面したわけです)。

そこにギャップがある以上、この「ある」と「べき」はさしあたり分けて考えられることにならざるをえないのですが、自然科学の場合には、科学者が客観的存在を仮定して「ある」の世界を探求したとしても、基本的に仮設と検証の手続きの中で、事実の世界から一種の妄想の世界へと大きく軌道が外れることはなさそうです。

ところが、すでにこの二元論的理解のはじめにおいて、哲学者のカントが述べていたように、人間の理性は存在の本質を見極める力を持っていない(いわゆる「物自体」を認識できない)のだとすれば、現実の世の中において、どのように生きていったらいいのでしょう。生きるべき指針は理性からは出てこないように見えます。

カントの場合は「べき」の世界が究極の価値である神から発していることを確信していたので、この「べき」が「ある」の世界でもごくまれに実現することがあるという一つの筋道をとらえて、「ある」の世界と「べき」の世界、そして、「べき」の世界を支える神とが「実践」においてつながりうることを証明します(『実践理性批判』)。

有名な「満天の星空と、わが心のうちの道徳律」という表現がこのカントの立場を象徴しています。人はしばしば人生において何事かを「こうあるべきだ」と信じ、公言したりもしますが、現実にはそれを実行する人は極めて少数だとカント自身も言っています。確かに、言っていることとやっていることがちぐはぐで、口では立派なことをいいながら、行動はさっぱりだという人をしばしば見かけるわけです。

しかしその一方で、同じこの世において、神様のはからいとしか思えないような、ふつうの人びとの善行を目にするだけでなく、そのお世話になることもあるわけです。理屈ではなく実践において、人はしばしば神とつながる通路をしっかり確保しているようにも思えます。

「ある」と「べき」との二元論が矛盾に終わらず、一人の人の中で実行されうるというカントの発見は、哲学に「実践」世界での可能性があることを示してくれたということができるでしょう。

「ある」の論理(形式論理)に時間や目的、そして人間の行動を組み入れた形でこの二元論を解消しようとするとき、ヘーゲルの弁証法が威力を発揮します。論理という意味ではヘーゲルと方向は正反対だとしても、マルクスもその枠組に入ります。

この間の事情は詳述しませんが、新カント派の哲学者たちは論理としては弁証法をとらず、つまり、ヘーゲルもマルクスも受け容れずに、この二元論を残したまま、「べき」の方から形式論理的に考えていこうとします(この項続く)。

2014年9月23日 (火)

ハンガリー法学派の系譜2

 ジダイ・アーグネシュの『未完の法哲学』(2008年)の序章ではモール、ホルヴァート、ビボーの理論がまとめられています。彼女の話を再現しつつここでその概要を述べてみましょう。
 モール・ジュラはハルトマンやリッケルトの影響を受けつつ、信仰と絶対価値の存在を疑い得ない前提として、当為と存在、あるいは価値と事実の二元論を倫理的正当性によって克服しようとしました。実際、新カント派の法哲学者の多くは正しい法や倫理の問題を立てることでこの二元論が二律背反に陥ることを避けようとします。
 ホルヴァート・バルナはこの二元論的枠組みを「われわれは事実と価値を、存在と当為を同時に見ている」という「共観理論」を提唱し、事実が価値に吸収されてしまうような(あるいは価値が事実に吸収されてしまうような)二元論的方法の陥りがちな過ちを回避しようとします。
 村人が教会の時計の針の進み具合を気にしながら農作業に勤しむという場合、村人は時計も自分の作業も同時に注意を払っているのであって、一方が他方を排除するような関係にはないわけです。事実も価値基準もそのどちらにも人は注意を向けていて、それは相互依存的ではあっても決して互いを排斥するような関係にはないというわけです。
 このユニークな発想の根底には、ホルヴァートがイギリス法とりわけコモン・ローの伝統とその実践的な運用方法にヒントを得たことがあるのではないかと思われます。ちなみに、ホルヴァート自身、戦前にイギリス法についての大部の研究書を出版しています。
 さて、戦後のハンガリーで最高の政治哲学者と言われるビボー・イシュトヴァーンは、このホルヴァートの直接の教え子であると同時に、ハンス・ケルゼンの『純粋法学』をハンガリーに初めて翻訳・紹介した人でもあり、一連の存在と当為の二元論的問題についても十分に意識的でした。

 ビボーは法哲学者としてスタートしましたが、後年歴史学や政治心理学的な内容の論考を発表していて、表面上は法哲学を離れていったかのように見えますが、社会とそれを構成する人々の価値観や心理の問題を様々な角度から考えていたことは事実で、その点では後の研究も広い意味での法哲学ということができます。
 このあたりを細かな専門用語や字句の違いにもかかわらず、総合的に読み解いていくのがジダイ・アーグネシュによる『未完の法哲学』ということになると思われますが、これは今少しずつ読んでいるところです。
 ジダイ・アーグネシュの理論的分析能力の高さは昔から知っていましたが、弁護士資格も有していて、実務にも携わっているという実践面での優秀さも兼ね備えた研究者ですので、この分野の研究に様々な角度から光を当ててくれるだろうと思います。
 そして、彼女自身ハンガリー法学派の紛れもない継承者であることを、今回の会見と、現在読み進めている彼女の著作を通じて私自身確信を深めているところです。

2014年9月21日 (日)

ハンガリー法学派の系譜

戦前にわが国でも注目を集めていた「ハンガリー法学派」については、この欄でも折に触れて紹介してきたプルスキ、ピクレル、ショムローに続いて、大戦間期のモール、ホルヴァート、そして、戦後のビボーが代表格です。

社会主義政権下では、モールは病没とホルヴァートは亡命、そしてビボーは投獄とその後閑職に追いやられ、言論を禁じられていたこともあり、ハンガリー法学派はその後継承者もなく、過去のものとなってしまったかに見えました。

この夏、ハンガリー史学史研究の一環として、研究仲間から研究費を回してもらい2週間「1948年前後のハンガリーの法学者をめぐる社会情勢の調査」という目的で4年ぶりにハンガリーに滞在してきました。

幸いにも現地で昔の指導教授Nagy. J. Endre先生をはじめ何人かの知識人や当時の体制転換の体験者に話を聴くことができ、ハンガリー法学派の当時の状況の概要を把握することができました。

1948年というのは言うまでもなく、ハンガリーが社会主義体制に移行し始める年で、1949年にモール・ジュラが大腸癌で病没したあとのブダペスト大学の学部長は就任が当然視されていた国際的にも著名だったホルヴァート・バルナではなく、それまで学問的業績がほとんどなく、ただマルクス主義法学を標榜していた判事で党員のサボー・イムレに決まってしまいました。

ホルヴァートはこの決定に落胆し、まもなくアメリカに亡命することになります。ホルヴァートの教え子で最も優秀な教え子の1人ビボー・イシュトヴァーンはホルヴァートの去ったあとの講義を非常勤として引き継ぐことになりますが、週に18科目も担当させられていたことを知り、驚いたことを後年のインタビューで述べています。

社会主義時代の法理論はマルクス主義のサボー・イシュトヴァーンの一種の支配下にあり、そこで反対制知識人として密かに国外でも言論活動をしていたのが私の元指導教授のナジ・エンドレでした。国外の反対制活動家人脈にまで関わっていたというのは今回はじめて知りましたが、今にして見ると思い当たるフシがありますが、これはまた別に場所をあらためて述べたいと思います。

ナジ・エンドレは社会主義体制下で封印されていたハンガリー法学派の知的鉱脈の発掘に力を注いだ一人でもあり、ポラーニ・カーロイやポラーニ・ミハーイについても書簡などの第一次資料の発掘と紹介をしてきた実績があります。最近はシモーヌ・ヴェイユ論など哲学についても優れた論考を発表し、研究領域が法哲学から哲学へと移りつつありますが、研究に対する情熱は初めてお会いした時から全く変わっていません。

ナジ・エンドレはハンガリー法学派ではビボーの著作集も編集していて、ハンガリー法学派のことを鳥瞰できるだけでなく、本人もユニークでアイデア溢れる社会理論とエッセーをたくさん残していますので、実はハンガリー法学派の後継者に名を連ねるべき思想家なのでした。

このことについては以前から感じていたことではありますが、今回、そのナジ・エンドレの教え子で、大学法学部の「法と社会理論研究科」の元学科長ジダイ・アーグネシュにもお会いすることができました。

彼女は若い時からホルヴァートとモールの論争について優れた分析をして注目されていましたが、その後もSeinとSollenつまり存在と当為の二元論的伝統がハンガリー法学派の中でどのように展開されてきたかという問題を考え続けています。

彼女の業績としては、ホルヴァートの『法社会学』(1934年)のハンガリー語訳のほか、著作として『純粋法社会学』(2008年)、『未完の法哲学―ビボー・イシュトヴァーンの法理論の再構築』(2008年)などがあります。

『純粋法社会学』は以前ネットで入手していたのですが、今回出発前に虫の知らせがして、荷物に放り込んでいきました。ご本人にお会いするとき持って行ったら喜ばれて、サインを貰いました。

ジダイ・アーグネシュの解説によって、ハンガリー法学派の理論的な流れがいっそう良くわかるようになりましたが、それについてはまた後程述べます。ここで色々と話をして、彼女もまたハンガリー法学派の系譜に連なる優秀な人材だということがわかりました。

というわけで、ハンガリー法学派の系譜は今日もなお脈々と続いていたということが確認できた今回の研究旅行でした。



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