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2015年8月

2015年8月12日 (水)

学会発表予稿:社会科学の対象について



共観的コミュニケーション -社会科学の対象について-


三苫 民雄(愛知産業大学短期大学)


Synoptical Communications
- On Object of Social Science -


Tamio MITOMA (Aichi Sangyo University College)


キーワード: 社会科学の対象、 社会構造、 コミュニケーショナルな事実、 共観
Key words ;  Object of Social Science,  Social Structure,  Communicational Facts,  Synoptic


問題


 われわれは日々の生活の中で常に「事実」をもとに意思の疎通を図っている。自身の解釈を通して見たある出来事を瞬時に他人との共有し、これを話題に乗せ、議論したりしている。この事情は学問の世界でも同様で、まずは対象としての「事実」が共有され、確定されていなければ、研究というものは成立しない。
 しかし、物質や自然現象を扱う自然科学と違い、社会科学や人文科学は「社会」や人の心の中を対象とするため、これを物質のように別個に対象として取り出して観察することができないという困難がつきまとう。
 19世紀から20世紀にかけて発展してきた社会学や心理学は、この学問的方法論との付き合いも長きにわたり、その方法も洗練されてきているが、同時にこの分野に固有の問題をも見出してきた。フランス構造主義以来の現代思想の流れの中でも、潜在的な社会構造や無意識、あるいは集団的主体性という形でこの問題は受け継がれてきた。
 本報告ではこの一連の方法論と思想的な流れを概観するとともに、この問題提起を踏まえながら、社会科学の対象である「事実」を特定するための共観的視点をあらためて確認したい。


考察


1. 近代科学の方法
 近代科学の核心となってきたのは、次のような数学的思考法である。


「基本的な自然現象の知識を、数学に翻訳すると、あとは数学という人類の頭脳を使って、この知識を整理したり、発展させたりすることができる。したがって、個人の頭脳ではとうてい到達し得られないところまで、人間の思考を導いていってくれる。そこにほんとうの意味での数学の大切さがある」(中谷1958)


 近代科学の発展は、神ではなく人間が作り出した、思いのままに動かすことのできる自動機械のようなイメージに支えられている。実際に便利な機械や有用な技術が開発されることで、近代科学の発展は加速し、今日の近代科学文明へとつながってくる。


2. 「もの」のように
 社会学の開祖、フランスのオーギュスト・コント(1798−1857年)は、自然科学の持つ仮説と実験・検証の往復運動に含まれる「予見」の力を活かそうとして、いわゆる実証主義的方法を提唱した。これは歴史の発展段階の中で来るべき人類社会のあり方を予見しようとするもので、そこでは社会は類型化され、発展段階という時間枠の中でとらえるという動態的な形(三段階または三状態の法則)で対象化されていた。
 この理論は「社会とは何か」という社会認識論の議論としては不十分なところがあるため、フランスで社会学を大学の正規の講座に昇格させようと努力していたデュルケーム(1858−1917年)は、その方法論については19世紀の自然科学に範を求め、社会を自然科学における「もの」すなわち社会的事実として取り扱うことを提唱する。
 コントにもデュルケームにも共有されているのは、社会というものが個人の単なる算術的総和ではなく、ひとつのまとまりと力をもつ何らかの存在であるということである。


3. 構造主義
 これも20世紀のレヴィ=ストロースあたりになると、議論が洗練され、自然科学的方法との間の距離もとられるようになってくる。


社会科学に特殊の状況は、これ[物理学]とは別の性質のものであって、それは、対象が同時に客体でもあり主体でもあるという、もしくはデュルケムとモースの語法でいえば、対象が同時に「もの」であり「表象」であるという、社会科学の対象に内在的な性格から由来するものである。・・・[中略]・・・しかしながら、歴史の証するところによれば、科学が満足すべき科学であるためには、かくも徹底する必要はないし、また、対象に固有の諸特質—人が説明に務めるのはこれのみだ―と、主体の機能であるような別の性質―その考察は放置することができる―との区別がとりわけ固定的ではないのをよいことに、この区別を回避したまま、科学は数世紀の間、(それがいつ目標に達するのかは、われわれにはわからないのであるから)場合によったら数千年もの間、対象の認識で進歩をなしうるのである。


乗りこえがたき二律背反を宣告されているかにみえる社会学的観察は、主体の、自己を限りなく客体化(対象化)しうる能力ゆえに、この二律背反から脱出するのだ。この自己客体化とは、(けっして主体としての自己を放棄するにいたることなく)自己の常に減少する諸部分を、外部へと投げ出すことである。[自己客体化という]分割には、それが可能である条件として常に[主体、客体の]二項の存在を意味しているということを除いては、限界はない(レヴィ=ストロース1974)。


 物理学での観察者は次々と観察対象に含まれるため客観性が担保されないという自然科学的方法の矛盾が、社会科学ではむしろ利点になるという議論になる。観察主体についての考察を放置することによって、その対象認識だけがいつまでも進歩しうるという理由は示されていないが、社会科学には独自の方法があるのだという気持ちだけは伝わってくる。
 社会科学が独自の方法を要請する背景にはそれなりの根拠があり、それがコント以来意識されてきた社会というものの実在性である。そして、構造主義はほかでもないこの点に注目している。
 構造主義的アプローチでは、それまでの平面的で直線的な社会現象の理解が、重層的で複眼的なものとなる。構造主義では以前と同様に科学的方法を用いても、現象として目に見えているものの背後あるいは根底において、その法則=構造全体を支配する何ものかがあるという見方をするようになる。


4. 無意識
 こうした構造主義的アプローチは現代思想の一つの潮流を作ったが、その先駆的な業績に位置づけられるものとしては、たとえばマルクスの上部構造・下部構造の議論、フロイトの無意識の発見、さらには言語学のソシュールの構造主義的アプローチなどがあげられる。中でもとりわけフロイトの理論は、人間の心理というとらえにくいものを解析するための大きな手がかりを与えてくれた。
 フロイトは無意識(あるいは下意識)から人の心を読み解く方法を見出したからである。
 人間の「錯誤行為」についてフロイトはこう述べている。


われわれは現象をただ記述したり分類したりしようとしているのではありません。現象を心の中のいろいろな勢力の角逐のしるしとしてとらえること、すなわちときには協力し、ときには対抗しながら、ある目的を目指して動いているもろもろの意向の現われとみたいのです(フロイト1971)。


 この「心の中のいろいろな勢力」をとらえる理論が「人びとの気がつかない構造と力がある」ということだけなら、科学的な仮説の一種にすぎないが、構造主義はその「力」の部分に神話や物語のもつ説得力を加えている。つまり、 いまここにある出来事のあり方にかつて影響を与え、いまもそれを支配し続けている闇の力あるいは陰の力という語り口は、かつての原始共同体において物語や神話の果たしてきた役割を担っているように見える。


 構造主義は遠近法的に現実を浮かび上がらせるだけでなく、物語=歴史的時間により、人類の来し方行く末を象徴的に語ってもくれる。語る内容が単なる現状分析にとどまらず旧約聖書の預言者的な語りになるところに、抗いがたい魅力と怪しさが同居している。


5. 予言から呪術へ
 構造主義の後に脚光を浴びたフランスのポストモダンの思想家たちは預言者的口ぶりに呪術的な文言の難解さを加えた感がある。実際このころから、思想家であることは「時代の英雄」とまではいかないにしても、マスメディアの発達とあいまって著名芸能人のような注目を集めるようになってくる。
  この手のスターたちには、わざと難解で思わせぶりな書き方をする著者が多いのが特徴で、とりわけフランスでは、自分でも何を言っているかわからないくらいの文章を綴ることで、深い思想を有する英雄として評価されることになる。
 哲学者ジョン・サールの「なぜそんなに曖昧に書くのか」という問いかけに対して、ミシェル・フーコーは「フランスでは少なくとも10%は意味不明に書かなければ、単純で幼稚だとみなされてしまう。人びとはまじめに受け取ってくれないし、深さがないと思われる」と答えている。さらに後にこの話を聞いた社会学者のピエール・ブルデューは「その話は絶対的に正しいけれど、10%どころかもっとだ。理解不能でなければ、フランスの人びとはまじめに取り合おうとしない」(Faigenbaum 2003)と応じている。
 愚かな振る舞いには違いないが、これが流行として世界中に広がり、後に「ソーカル事件」を生み出す土壌となる。


6. 集団的主体性
 こうした愚かな傾向にもかかわらず、人間の「社会」のもつ独特のまとまりと力の実在は社会学者や心理学者の関心を引き続けてきたし、今日でも心理学や精神分析学が社会理論に大きな示唆を与えてくれることは少なくない。
 このことを示す例として、以下に、ワイツゼッカーの「根拠関係」という概念についての木村敏による記述をとりあげてみたい。


物理学の前提は認識する自我がひとつの自然に対置されているということである。その場合自然は認識の対象となる。物理学に向かって回答可能な質問を提出することはできるが、自然の全体を作ったのは誰かという質問だけはできない。これに反して生物の場合には個々の個体すべてについて、それがどのように生成し、存続し、消滅するかが理解できないということになる。その理由はわれわれ自身が一個の生物だからであり、またわれわれが一切の生物ともどもに、その根拠自体は認識対象となりえないような依存関係の中にあるからである。生物が認識できないというのではない。われわれ自身と他のあらゆる生物の根拠が認識できないというだけである。それは、われわれと他のあらゆる生物がこの根拠への依存関係の中にあるからである。(木村2005)


 われわれが純粋な観察主体になりえないのは、生物としての人間が身を置いているからであって、その生物としての自らが入り込んでしまっているところが、この「根拠への依存関係」すなわち「根拠関係」である。


 ヴァイツゼッカーのいう「根拠関係」のうちに身を置くならば、個々の個体のみが生きているものだなどとは到底言えないことになる。根拠関係によって連帯している集団にとっては、各個体の主体性よりも高次の主体性をおびてまとまった行動を示す集団全体こそまず第一に「生きている」ものなのである。言語機能と自己意識を身につけてしまった人間にとっては、このような集団的主体性は多くの場合、個人的主体性との間に矛盾や衝突を引き起こすことになるだろう。個人主義の立場から全体主義が批判されるのもそのためである。しかし、好き嫌いは別として、人間においてもそのような集団的主体性が ― たとえ個人意識によって隠蔽されても決して消滅することなく ― 働いているという事実だけは認めなくてはならない(木村2005)。
 ここで木村敏が「集団的主体性」という概念を通じて言おうとしていることは、個人の真理に還元できない意識の働きであり、ここで問題にしてきたところの、社会における曰く言いがたい集団的な力のことにほかならない。


9. 共観的主体のあいだ
 社会科学の対象がそうした固有の実在性を持つ社会的事実であることは確かであるにしても、今日もなお、観察主体の無限背進という矛盾が理論的に解決されたわけではない。ただ、社会科学の方法論的な独自性については、この主体・客体関係を踏まえつつも、幾分異なる角度から論じることができる。
 もとより古典的な自然科学においては、実験観察者と実験対象との間に主体と客体という関係が成り立って初めて実験が成立する。反証が行われる場合も新たに観察対象と観察者とのあいだに主客の関係が生れ、そこがまずは客観性の成立する場所だということができる。
 他方、社会の観察者が純粋に客観的な立場を確保できないとしても、そのこと自体、社会科学においては、それほど悩ましいことではない。というのも、社会科学では客観的な社会という対象が、観察者自身を含んでいるだけでなく、その対象の存在を同一のものとして観察し、確認する第三者、あるいはその存在を知らしめる説得相手としての第三者の存在も含んでいるからである。
 つまり、対象を特定する前に、第三者との間で〈共観〉という行為ないしは意識がなければ、そもそも「社会」というものは存在できない。社会という形のないものは、人びとの間での共観と意思疎通の中で初めて成立する性質のものだからである。
 このとき、観察対象としての社会を自然科学的な「物」のように扱おうとするデュルケームの方法を継承すると、観察主体と観察対象との1対1の対応関係で考えざるをえなくなってくる。
 そうすると、レヴィ=ストロースのように、客観性を担保するために無限に対象化するなどという自然科学でも実際にはできないようなことをいわざるをえなくなる。
 しかし、対象を認識する際にいわゆる第三者の視点を導き入れると、少なくとも社会というものの認識については、人びとの間で納得の行く地点にとどめることができるようになる。
 例えば、ニューヨークという街を私は訪れたことはないが、ニューヨークがあることを当然のように受け入れています。「ある闇の組織が私を(含め全世界を)騙そうとして世界中の報道機関や教育機関に働きかけ、本当は存在しないニューヨークという街を、あたかも実在するかのように見せかけている」などといった陰謀論を信じたりはしない。新聞やテレビの報道、小説や映画の舞台設定、現地に足を運んだ友人との会話などから、私はニューヨークの実在を信じ、疑っていない。
 また、自分の経験の範囲外にある歴史的事実についても、教科書に採用されているような史実は基本的に受け入れている。もちろん、新たな事実が発見されて、歴史が書き換えられるようなことがあれば、またそれはそれで受け入れる準備はある。
 歴史学の分野では小田中直樹がこのあたりの事情を適切に表現している。


「今朝のニュース、すごかったねぇ」「うん、すごかったよねぇ」なんてかたちで二人に意見が一致するというのは、ぼくらの身の回りではよくあることです。それもまったくのすれちがいになることなく。
 ここからわかるのは、ぼくらは認識の正しさをめぐる判断を(ある程度)共有する力をもっている、ということです。ちゃんと意見を交わし、必要なら議論をしてゆけば、うまくすると、「この認識は、絶対的な根拠はないかもしれないけれど、わりと正しいんじゃないか」という意見を他者と共有できるかもしれません。コミュニケーションのなかで決まる「コミュニケーショナルに正しい認識」は存在しているのです(小田中2004)。


 小田中のいう「コミュニケーショナルに正しい認識」は歴史認識だけでなく、社会科学の対象についての議論にも当てはまる。「社会」は構造主義が仇敵とみなしてきた「超越的な主体」(=神)によって認識されるのでないとするのはいいとしても、主体と客体の構造を残したままの無限ループの中で神秘的・呪術的に特定されるものでもない。
 ここではさしあたり「社会」とは、共観的主体の間、すなわち、〈共に観察し、語り合う人びとの間に存在するもの〉であり、日々のコミュニケーションの中で確認されていくものということにしておきたい。
 なお、ここでいう「共観」 Synopsisという概念は法社会学者のB・ホルヴァート『法社会学』(Horváth, Barna, Rechtssoziologie, 1934, Berlin-Grunewald. )が用いたものであることを付け加えておく。ホルヴァートはたとえば、村人が日々の生活の中で教会の時計を見るともなしに見ているような状態を「共観」と呼び、この共観概念を手がかりに共同体の規範意識を分析している。人びとが共に見るという行為それ自体にすでに、存在と当為の両方の性格をあわせもつ社会的事実というものが含まれているのである。


引用文献


中谷宇吉郎(1958). 科学の方法、岩波新書、121.
レヴィ=ストロース(1974)、「マルセル・モースの業績解題」(『社会学と人類学』への序文)
 清水昭俊・菅野盾樹訳『アルク誌 マルセル・モースの世界』足立和浩他訳、みすず書房. 224-226.
フロイト(1971)、フロイト著作集第1巻、人文書院. 53.
Faigenbaum, Gustavo. (2003). Conversations with John Searle, LibrosEnRed, 162.
木村敏(2005)、生命のかたち/かたちの生命、岩波書店、15., 48.
小田中直樹(2004)、歴史学ってなんだ?、PHP研究所、79.

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