ハンガリー法哲学派についてのノート
2015年9月16日にブダペストのエトヴェシュ・ロラーンド大学法学部でゲストスピーチをするにあたって、およそこんな話をしようと思って書き留めた原稿です。実際にはこれを忠実に翻訳するのではなく、あらためてハンガリー語で書いたものを元に話をしたので、いろいろと違っているところはありますが、大枠はこんな感じでした。ハンガリー語の原稿ではもっと日本のことも書いているので、あらためてそちらはそちらで日本語に直して載せることにします。
というわけで以下は準備原稿のそのまた準備という感じです。
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1.「われわれはどこから来たのか、われわれは何者なのか、われわれはどこへ行くのか」
ゴーギャンの最後の大作の題名である。哲学の問題の根本は普遍的で、プラトン以来の哲学もその根本にある問題はおそらく変わらない。今日でも、人間や社会についてモノを考える人たちは皆この問題を継承してきていると言える。
この学問的には解けない問題に取り組もうとする人びとはおそらくどの社会でも常に一定程度現れてくると思われる。
2.かくいう私もそうした若者の1人だった
さて、私も何時の時代にもいる哲学青年の一人で、西洋哲学の古典から当時日本でも次々に翻訳が出されてきていたポストモダンの哲学までを読みあさっていたこともあり、法哲学・法社会学・法思想史の分野を大学院での専攻に選んだ。
大学院入学当初はデュルケームやモースからレヴィ=ストロースへと連なる構造主義的な社会理論に興味を惹かれ、フランスへの留学も考えていたが、そのころ日本のポラニー派の草分けでもあった栗本先生が、カール・ポランニーの先生にピクレル・ジュラという学者がいて、面白そうなので調べてくれないかというお願いとも命令ともつかない助言をもらったのが、私のハンガリー研究のきっかけとなった。
当時、ポランニーにも興味を持って、その著作をひと通り読んでいたのと、学部の頃から栗本先生の授業にも出ていたこともあって、私の中ではそれほど違和感なくこの提案を受け入れることになったのだが、あとから聞いた話では、栗本先生はいろんな大学院生にピクレルをやらないかと声をかけていたそうで、その中で私だけがただ一人この話に乗ったということだったらしい。
しかし、当時栗本先生の紹介で、たまたま日本に国際会議で来ていたポランニーの娘のカリ=レヴィット・ポランニーや共同研究者のエイブラハム・ロートシュテインを紹介されて、秋葉原や新宿を案内したり、哲学者のベンツェ・ジェルジュと一緒に京都・奈良を案内して回ったりと、貴重な経験をさせてもらった。
ハンガリーを最初に訪れたのは1985年の3月で、この時、ベンツェからナジ・エンドレを紹介された。エンドレからは色々とアドヴァイスを受け、資料収集の便宜も図ってもらって、本当に助けられた。
3.ピクレル・ジュラからショムロー・ボードグあるいはハンガリー法学派
このとき集めた文献や資料を読んでいくうちにまずわかったことは、ピクレルの理論はかなり極端な心理主義で、自然科学的アプローチを徹底させたものだということと、肝心のポランニーには少なくとも理論的にはほとんど反面教師としての影響しか与えていないことだった。
もう一つのもっと重要なことは、ハンガリーにはそのピクレルとさらにその師匠のプルスキ・アーゴシュトに始まる法哲学の知的鉱脈があることで、特にショムロー・ボードグはコロジュヴァール大学でのポランニーの指導教官で、ポランニーにも影響を与えた可能性があることがわかった。
というわけで、このときから、ショムロー・ボードグを中心に論文をまとめることにして、1989年にELTEのBTKに博士論文を提出した。
私が特に集中して読んできたのはプルスキから、ピクレル、ショムローまでだが、その後のモール、ホルヴァート、ビボーも含めて、彼らが取り組んできた問題とそのアプローチは法および社会現象を考えていく上で重要な問題提起を含んでいる。
思うにおそらくはどこの国の研究者もこの点に関しては事情は同じで、先人の業績を読み込んで自分の考えを紡ぎだすことに取り組んできた。
プルスキとピクレルはイギリス経験論哲学、ショムロー以降はカントあるいは新カント派法学あるいは社会理論としては、H.S.メイン、ベンサム、ハンス・ケルゼンといった思想家の著作を読み込みながら、自身もまた新たに質の高いテクストを残している。
この点については特に今日のゲストのお二人にフォローをお願いしたい。
なお、このハンガリー法学派については、特にショムローやホルヴァートの業績は第二次世界大戦前の新カント派の流れを汲む我が国の学会でも紹介されていた。(なお、ヴァシュ・ティボルの小著『先験的法哲学』の翻訳もあるくらいである。)
4.私自身の研究
さて、本来なら私もホルヴァートやビボーの著作をじっくり読み込んで、この続きを考えていくとよかったのだろうが、留学から帰国してしばらくして定職についたところが法律の専門学校だったため、ハンガリーの法哲学ではなく、日本の民法や行政法を教えることになり、7〜8年ハンガリー研究からは遠ざかってしまった。
その後短大に職を得て、再び研究に時間を割くことができるようになったのは幸運だったが、実は専門学校で実定法の解釈学を教えた経験もまた、法哲学や社会理論を考える上で視野を広げることになり、よかったと思う。
研究時間が十分に取れない中で、少しずつ自分自身の考えをまとめた本を出すようになり、法と社会理論に関する著書は行政法の教科書を含めると今年で7冊目を数えるようになった。
実はこの一連の本を書くときの問題意識が、ショムローのJuristische Grundlehre(1917)とGüterverkehr in der Urgesellschaft(1909) に共通するもので、法や社会現象の背後にあって、これを成り立たせているメカニズムの解明ということである。
これは法学と言うよりは社会学的な構造理論で、1909年当時はモースくらいしか理解せず、1917年には本の出版の手引きをしたはずのケルゼン自身が、純粋法学の立場から批判している概念であった。これを戦後、構造主義が引き継ぎ、共鳴する形で発展させたということができる。また、これは同時に、ポランニー経済人類学の「統合の三形態」とも親和性の高い理論でもある。
この考えは、ショムローに先立つピクレルの『客観的信念の心理学』(1890)においてもすでに見られる視点である。そこでは人びとの信念が形成されるということへの心理学的アプローチが試みられているが、これは経験論的哲学の流れの延長上にあるユニークな心理学であると同時に、欲望の社会学へと展開する可能性を秘めた議論でもあった。
こうして若い時に読んだピクレルの心理学とショムローの構造主義的社会理論から無意識の影響を受けているため、ハンガリー研究をまとめた本以外の研究は人間社会をその根底で拘束し、動かしている文化や規範の無意識のシステムが対象となって現在に至っている。
私が今年出した本は社会心理学的アプローチをとって、人間の間違いを積極的に受け入れて、イノヴェーションにつながる可能性を探ることと、そうした発明・発見が可能な自由な社会、多くの文化を異にする人々が行き交う交差点のような社会へ向けた制度設計を提起するものとなっている。
私が影響を受けた知的リソースはおそらくハンガリー法学派の半分に過ぎない。ショムロー以降のモール、ホルヴァート、ビボーといった貴重な知的資源については十分消化しきれていない。
しかし、これは今ここにいらっしゃる仲間や若い皆さんこそ取り組んでいただきたい。
伝統的な法解釈学や政治学との関わりが一層強まる印象のあるショムロー以降のハンガリー法学派の系譜については、今後再び個別専門的に法哲学の理論研究を進めることがあれば、また改めて取り組みたい。
5.西洋哲学の異質性
この話の最初に、哲学の根本問題は普遍的だと述べたが、それは西洋哲学、特に伝統的形而上学のアプローチが普遍的だということを意味してはいない。
とりわけデカルト以降の近代哲学はキリスト教的背景のもとに発展していったため、日本の文化的伝統からすると、極めて異質なものとなる。
日本の場合は基本的に宗教的慣習や儀礼的空間の中にいるため、自らは「特別な宗教を持たない」と言いながら、無神論者ではなく、文化的・宗教的に均質な空間の中で、おそらく古代からの宗教意識を「無意識的に」保持した生活を送っている(他方でキリスト教徒は総人口の1%未満)。
この独特の宗教的空間は、結果的には日本人のいわゆる集団的行動パターンを規制している。かく言う私も栗本先生のお願いとも命令ともつかない指導に従ってきたのだから、その例外ではない(そういえばロートステインは「封建的だよね」と感想を漏らしていた)。
こういう閉じられた宗教空間では、絶対価値あるいは唯一絶対神の存在を前提とした西洋形而上学の「存在論」は基本的に異質なもので、ついでに言えば、近代市民社会の「法の支配」も形は整えられてあっても、その適用は全く別のものになる。
こういう知的・社会的風土では、実は近代の理性中心主義的哲学よりも、それをときには(ハイデッガーのように)ギリシアの伝統にまでさかのぼって批判するようなポストモダン哲学が結果的に理解されやすいことになる。
今日の価値観の崩壊しつつある社会を、あえて難解な概念で飾るポストモダン哲学も日本ではほとんど翻訳されており、そのペシミスティクな結論もそのまま受け入れられやすいという奇妙な共鳴関係が成立する。
例えば「存在」の哲学ではなくて、「生成」の哲学が必要だといわれると、実は日本の社会は、誰が決めたわけでもなく命じられたわけでもないのにあるきっかけ(明治維新)で何かに突然「変化してしまう」というようなことが歴史の中に何度も繰り返して生じてくる傾向がみてとれる。
しかし、ここで置き去りにされた価値や道徳の問題は今後どうやって回復できるのかとなると、また、別に問題を立てなければならない。
私自身の研究の出発点に帰ってみると、そこであらためてホルヴァートやビボーの考えていた問題につながってくるのかもしれないが、このことに関しては他の論者にも意見を伺ってみたい。
以上
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