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2017年3月

2017年3月 1日 (水)

「ゆるさ」の効用:ハンガリーから「天才」が生まれる理由

以前書いたまま迷子になっていた原稿が出てきたので、とりあえずここに再掲します。
 ハンガリー出身のノーベル賞受賞者は2006年現在で13名を数えます。これは人口比では世界一の数字です。さらには、ノーベル賞受賞者ではありませんが、数学者のJ・フォン・ノイマンやP・エルデシュのような正真正銘の天才を現代世界の様々な分野に送り出してきています。私たちの身の回りを見渡しても、ボールペンやルービックキューブ、ワープロソフトのWordなど、ハンガリー人による発明品がいくつも目にとまります。
 なぜこれほどまでにハンガリーという小国が才能を輩出するのかという、この現代史の謎とでもいうべき問題を取り扱った書物には、古くはL・フェルミの『亡命の現代史−二十世紀の民族大移動』(みすず書房)や、最近ではGy・マルクス『異星人伝説』(日本評論社)といった邦訳もあります。とりわけ後者は「ユダヤとの混交」という節でハンガリー文化とユダヤ人の関係に触れています。
 実際、こうしたハンガリー出身の世界的著名人たちの圧倒的多数が、ユダヤ系ハンガリー人であることも確かです。彼らは19世紀後半に中東欧近隣諸国やロシアから自由を求めてハンガリーに移住してきたユダヤ人たちの末裔です。そして彼らがハンガリー文化を積極的に受け入れた、いわゆる「同化ユダヤ人」であったことも特筆すべき事実です。もしもハンガリー出身のユダヤ人の業績がすべてそのユダヤ性に由来するとしたら、後でみるようにお隣のオーストリアの亡命ユダヤ人たちと同じような性格を持ったものとなったことでしょうが、両者には実際かなりの違いが見られ、それぞれにハンガリー的であり、オーストリア的あるいはブダペスト的、ウィーン的な性格を備えているように思われます。
 後に彼らの一部は、政治的環境の変化のために、より自由な活躍の場所を求めてハンガリーを後にすることになりますが、亡命先のアメリカの原子力開発委員会やハリウッドの映画村においても、周囲の人にしてみると「異星人の言葉」にしか聞こえないハンガリー語を喋り続けては顰蹙を買ったりしています。
 さて、ここで、ハンガリー文化が亡命ユダヤ系ハンガリー人の間でどのように生き続けていたかということについて、一つの逸話を紹介しておきましょう。
 かつて、ノーベル化学賞の候補に推薦されることを拒んで哲学へと転じたというユニークな経歴を持つハンガリー出身の科学哲学者マイケル・ポランニー(ポラーニ・ミハーイ1891−1974)は―拒まなければ受賞は確実だと言われていましたし、もしそうなっていれば、後に受賞した息子のJ・C・ポランニーと合わせて史上初の親子二代の受賞となるところでしたが―、その晩年の死の床にあって、見舞いに訪れたハンガリー人の友人が呼びかけたときには、もはやまともに応答できないほどにハンガリー語を忘れていましたが、そのときでも、若い頃影響を受けたハンガリーの詩人E・アディの詩だけはそらんじることができたそうです。
 ポラーニ家の家庭内での使用言語はまずはドイツ語、ロシア語、ハンガリー語に英語だったので、ドイツやイギリスでの生活が長かったマイケルがハンガリー語を忘れてしまうのも無理はありません。しかし、それだけにこの逸話は、ハンガリー文化が亡命ユダヤ人たちの心の奥底にしっかりと根付いていたことを物語っていると思われます。
 ちなみに、同時代のユダヤ人ということならば、お隣のオーストリアにも、いわゆるウィーン世紀末文化を彩った華々しい才能が集っていました。こちらの才能は明らかにオーストリア文化圏の中で培われたものでしょう。たとえば、トゥールミンとジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』(平凡社)や上山安敏『フロイトとユング』(岩波書店)といった名著がこの時代の芸術文化と歴史的背景を見事に伝えてくれています。
 このウィーンとブダペストは、同じハプスブルク帝国内の、それほど距離的に離れていない場所にありながら、そこから育っていった才能の一団はそれぞれが全体として極めて対照的な特徴を示しているように思われます。
 ウィーンのユダヤ文化は感覚的に洗練されていて、何者かに抑圧されるかのような重苦しい空気の中で、マニアックなまでに精密かつ繊細な美しさを追求し、重苦しい圧力から自己の内面の解放を企てる一方で、どこまでも律儀に合理的な説明を求めていくといった傾向があるように思われます。
 他方、ブダペストのユダヤ人たちは、ハンガリー人の影響を受けてか、おおざっぱでせっかちで現実的です。一見矛盾するいくつかの要素を意外な仕方でつなげて見せることに秀でていて、合理的説明にこだわるよりも先に、科学的発見・発明の成果を実際に示してしまいます。ウィーン学団の論理実証主義のようにひたすら論理にこだわるようなことは、得意でないというより、ほとんど体質的にうけつけないようにも見えます。
 たとえば、ウィーン出身の哲学者で論理実証主義にも多大な影響を与えたウィトゲンシュタインは著書『論理哲学論考』の最後の頁で「語り得ぬものに対しては沈黙せねばならない」という有名な台詞を残しています。これが、ブダペスト出身のM・ポランニーでは、ウィトゲンシュタインのセリフとは対照的に、人間には「語りうる以上のことを知る能力」がある(『知と存在』)ということになります。同じようなことを言っていても、ポランニーは沈黙せずに、いくつものノーベル賞級の科学的発見をなしとげた上に、これを「暗黙知」という概念で展開させては、哲学者としても積極的な発言をしています。
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 さて、ここで、ハンガリー流に話題を飛躍させて、私なりにひとまずの結論を述べておきましょう。というのも、こういう問題は論証できるものではありませんし、そうでなければ、仮説を提示するという形でしか答えようのない種類のものだからです。
 すなわち、ユダヤ系ハンガリー人たちには、ハンガリー文化の持っている一種の「ゆるさ」が決定的な影響を与えているということなのです。そして、そのことが、彼らの破天荒なまでに自由な発想の飛躍を可能にし、その才能を引き出すことに成功したと考えられるのです。
 ここでいう「ゆるさ」というのは、私たち日本人がハンガリーで生活を始めたときに必ずといっていいほど悩まされる、あの「いい加減さ」と同じものでもあります。ハンガリー人ときたら約束は守らないわ、時間には遅れるわ、とんでもない不注意なミスはするわで、律儀なことではひょっとしたら世界一かもしれない日本人は彼の地でしばしば悩まされるのです。
 私の留学中はまだ社会主義的経済体制だったので、これは社会体制に特有の問題かと思っていたのですが、長年ハンガリーで暮らしている日本人からの情報によれば、このいい加減さは市場経済移行後も健在のようです。近代ハンガリーの行政史といったやや専門的な歴史をさかのぼってみると、これは社会主義の負の遺産というよりは、それ以前からの伝統的なものではないかとさえ思われます。近代化の苦労はいずこも同じですが、このいい加減さは歴史的にも筋金入りといえるかもしれません。
 いずれにしても、これだけいい加減だと、むしろいいこともあるわけで、細かいことに気をつけないということによって、かえって少々のミスは気にしないというおおらかな気風が育ってきますし、こちらのミスも随分と大目に見てくれることがあって助けられたりもします。いい加減さは時には良い加減、つまり心地よさにも通じているのです。
 そして、この「ゆるさ」があるからこそ、身近な友人を大切にし、お互いに信頼しあうという独特の「仲間の集い」 társaság が形成されてきたのではないかと思います。ハンガリーの仲間の集いというのは、気の合う仲間たちがカフェやレストラン、あるいは誰かの自宅のサロンなどに定期的に集まっては世間話を交わすというだけの、本当にのんびりした和やかな会で、そののんびりした空気を味わうためだけに何十年も集まり続けているという習慣です。仲間同士では当然敬語を使わず、年齢が離れていても上下の人間関係ではなく、あくまで心理的に水平の友人関係で話をします。
 他の国のことは知りませんが、この仲間の集いに何度か入れてもらってみると、この習慣はひょっとして他のヨーロッパ諸国にもあまり見られない、ハンガリー独特の文化なのではないかという気がしてきます。ハンガリー人たちは実はひょっとしたらあのウラル山脈の麓で遊牧生活をしていた頃からこうして気のおけない仲間たちが定期的に集っていたのではないかと想像されます。
 それはともかく、この仲間の集いが自分たちの才能を確認し合う場になってきたことは事実です。いくら天才たちといえども、最初からまったく一人きりで活躍し始めるわけにはいきません。彼らが才能を発揮し始めるときには、それを認めて感嘆したり、わがことのように喜んでくれたりする良き観客としての、仲間の存在が必要だからです。
 この「仲間の集い」というハンガリーの美風は―少なくともハンガリー社会に寛容性のある間は―優れた才能を発掘し育てるという点で、世界に向けて偉大な貢献をしたと考えられるのです。
(「愛知県ハンガリー友好協会報」2007年1月号初出に加筆)

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