私の研究歴
学園内広報誌に書いた原稿をこちらに再掲しておきます。
このブログにはしばしばこういう形で載せていますのでよろしくどうぞ。
学園内広報誌に書いた原稿をこちらに再掲しておきます。
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今年も幸運な科研費のおこぼれで9月にハンガリーに2週間ほど行けることになりました。
共同研究者たちが皆校務に振り回されている中で、私の方はたまたま9月に時間がとれましたので、昨年に引き続き1948年頃の大学法学部のカリキュラムなどを調べてくることにしました。
ありがたいことです。
昨年来法学部にも友人が出来ましたので、法学部図書館にも入りやすくなりました。
こういう機会をもらうと、自分が歴史家の端くれのもっと端くれでもあったことに改めて気付かされます。
大学の非常勤で歴史学概論を教えているのも無理筋ではないと思うことにしておきましょう。
そちらについては別のブログ「歴史学概論の実況中継」を御覧ください。
このところリアルの講義にようやく追いついてきました。
写真はブダペスト大学法学部の入り口です。昨年9月1日の入学式の日に撮影したものです。
今書いている本から、ジョークとイノベーションの関係について論じているところをご紹介しておきます。
資料を集めていく中で印象に残ったケースを紹介しておきます。
【グルーエンフェルドの実験】
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*以下は通信教育部広報誌「PAL」に寄せた原稿です。今までの内容と重なるところはありますが、ご容赦ください。
今年の8月末から9月初めまで、学術調査で2週間ほどハンガリーに滞在してきました。ハンガリーは4年ぶりです。目的は「1948年前後のハンガリーの法学者をめぐる社会情勢の調査」でした。
私がハンガリー政府給費留学生として首都ブダペストに滞在したのは1987年2月から1990年3月まででしたが、実はその2年前の1985年から2年続けて春先の3ヶ月ほどをハンガリーで過ごしていました。
その時期を含めると、ほぼ30年前からハンガリーに関わってきたわけですが、さすがに30年という月日は長く、当時研究や論文作成の指導をしていただいた先生方4人のうち3人がすでに他界されてしまいました。
当時40代だったナジ・エンドレ先生だけは今もお元気で、今回は教え子で、エトヴェシュ・ロラーンド大学法学部の法哲学者、ジダイ・アーグネシュ女史ともお会いすることができました。
ナジ・エンドレ先生は私がずっと研究してきたハンガリー法学派の系譜に連なる思想家です。今回ご紹介いただいたジダイ・アーグネシュ先生もまたこの流れをくむ極めて優れた法哲学者だということが、今回いただいた著作からもわかりました。
ところで、ハンガリー法学派とは、存在の論理と当為(「べき」)の論理との間の矛盾を意識しながら、現実の政治力学や法解釈実務の中で可能な限りの利益衡量をはかろうとする法哲学者の系譜です。
彼らは目まぐるしく変転する近現代ハンガリーの政治状況に翻弄されながらも、粘り強く自身の思索を展開し、また、しばしば政治活動にも関わってきました。
しかし、1948年以降の社会主義ハンガリーにおいては、突然主流となったマルクス主義法学派から「ブルジョア的」とか「修正主義」という烙印を押され、排斥されます。一部の思想家の著作は発禁や閲覧禁止処分を受けてきました。
しかし、社会主義圏の中でも思想統制が1956年以降次第に有名無実化しつつあったハンガリーでは、1980年代に入ると、このハンガリー法学派の知的伝統に対する再評価が始まります。
当時のナジ先生もこの頃からハンガリー法学派についての学術論文と平行して、反体制亡命知識人グループによる国外地下出版物への寄稿も行なっていたそうです(この件については今回初めて話してくれました)。
このハンガリー法学派の知的伝統を発掘し、再評価することには思想史的な意義があるのはもちろんですが、それにもまして、彼らが抱えていた存在と当為の理論的問題を継承し新たに展開させることは、現代の法哲学にとっても一定の理論的寄与ができると考えます。
なお、ありがたいことに、昨年上梓した拙著『価値と真実
— ハンガリー法思想史1888−1979年』(信山社)をハンガリー語に翻訳・出版する話が持ち上がっています。かつて留学中にハンガリー語の博士論文を提出しておいたことがようやく功を奏した形ですが、今回は現地で具体的に話を進めることができました。
ハンガリー語への翻訳は、私が留学中に日本語を教えたことのある(当時は小学生でした)日本文学翻訳家の女性が引き受けてくれました。
しかし、本当のところ、まだ話はしていませんが、この本は私の単著ではなく、ナジ先生とジダイ先生を加えた3人の共著とするつもりでいます。そして、ハンガリー法学派に関する最新の解釈と法理論的考察を含む刺激的な内容にした上で、さらにこれを諸外国に向けて英訳・出版したいと夢想しています。
今回ハンガリーに調査に行った機会に、以前から話が上がっていた拙著『価値と真実 ー ハンガリー法思想史1888−1979年 』(2013年信山社)のハンガリー語翻訳出版の計画を多少詰めることができました。
先生方の話では、ハンガリーでは久しく法思想史・法哲学史の本が出されていないこともあり、25年前にハンガリー語で書いた学位論文をはじめ、その後少しずつ書きためてきた拙稿を出版する意味はあるとのことです。
当時の学位論文を是非とも出版すべきだと評価してくださった先生は3人いらっしゃいますが、当時は留学期間も終わり、日本での仕事に追われてそれどころではありませんでした。先生方のうち1人はすでに鬼籍に入り、あと2人も70代の名誉教授ですので、こういう話が出てくる最後の機会かもしれません。
私の方は当時の先生方からの高評価を励みに、帰国後ハンガリー研究を少しずつ進めてきましたが、ハンガリー法学派のプルスキ、ピクレル、ショムローまではそれなりに論じることができたものの、ホルヴァートとビボーについては部分的な紹介にとどまり、論じるところまで行っていません。その意味では拙著の副題に「ハンガリー法思想史」と銘打ってあっても、ビボーが亡くなる1979年までというのは本当のところ看板に偽りありです。
また、拙著をそのまま翻訳しても面白くないので、存在と当為についてこだわり続けたハンガリー法学派の意義についてはあらためて思想史的考察を書き足したいと思います。また、ホルヴァートとビボーについてはナジ・エンドレとジダイ・アーグネシュの力を借りて、3人の共著として出版するほうがいいのではないかと個人的には考えています。
その際、著者3名がハンガリー法学派の問題を継承した上で、それぞれの分野で法および社会理論のオリジナルな展開を示すことを目標にしたいと思っています。
さらにその本を英訳すれば、ハンガリー法学派の意義を世界に知らしめることができるなどと夢想したりしていますが、まずはハンガリー語への翻訳ですね。
幸い、翻訳者を見つけることができたので(なんと留学中に日本語を教えたことのあるハンガリー人の研究者・翻訳家です)、作業は10月頃から始められます。資金は科学研究費を申請したいと思っていますが、こういうことに関して審査官が理解があるかどうかは不明です。審査官に与太話と思われたらそれっきりですし。まあ、とりあえず応募してみます。
幸い翻訳の謝礼や短期の渡航費用なら短大の研究費でも申請の仕方次第でさしあたり間に合うので、手続き面などを確認しながら、このプロジェクトを進めていきたいと思います。
人としてこの世に生まれた以上、自分はどう行動す「べき」か、とかこの世はどうある「べき」かという問題から離れるわけにはいきません。仮に1から10まで誰かに言われたとおりにふるまっているとしても、その誰かの指示に従う「べき」という問題がついて回りますし、そちらのほうが有利だとか楽だという価値判断がその「べき」に先立って行なわれています。
二元論的思考も本来はこの二つをいつまでも並べ立てておくのではなく、必ず一方が他方より優位にあることを強調しますが、どういうわけか劣位に置かれたものが自立して優位にあるものを取り込んでしまい、本来の価値体系が壊れてしまうということが起こります。
キリスト教思想家のフランシス・シェーファーは「恩寵と自然」(トマス)、「自由と自然」(ルソー)、「信仰と合理性」(キルケゴール)、といった二元論において、後者が前者を滅却してしまう様子を思想史的な流れの中であとづけています(シェーファー『そこに存在する神』)。
この図式が大枠で正しいとすれば、「ある」と「べき」の二元論においても、現状の失われた倫理や道徳を回復しようとして「べき」の優位を確立しようとすると、実はかえって「ある」の論理が科学万能主義や人間=機械論として確立されてしまうのではないかというおそれが出てきます。
これが弁証法論理なら一つの過程に対する対立項を恣意的に選択し、その中で論者の意図する方向に時間と行動をセットすることで、過去から将来にわたって整然とした理性と情熱的な人類愛の物語を紡ぎ出すことができます。
この論理は多くの人々を煽動する力を持っていましたし、今も変わらず持っていますが、それは新たな社会を創造するという宗教的情熱によって支えられているからだと見ることができます(ベルジャーエフ)。
しかし、ドイツの「30年戦争」(1618〜1648年)のように宗教による血で血を洗うような争いを無効化する仕組みとして、近代市民社会という脱宗教的な「法の支配」に基づく社会制度を築き上げてきた西洋社会において、歴史の流れに逆行するようなことだけは認められません。
この意味で、新カント派はヘーゲル以前のカントの二元論的思考に戻って近代科学を基礎づけようとするわけですから、かなり困難な戦いを強いられていたように見えます。その中でもとりわけハンス・ケルゼンが目指していたのは「ある」の論理に対して「べき」の論理体系を構築することでした。(この項続く)
ハンガリー法学派が取り組んできた「存在 Sein 」と「当為 Sollen 」の問題は、カント以来の合理主義哲学の問題であると同時に、法学にとっては「事実」と「規範」の二元論としてつねに意識せざるをえない問題です。
もともと何かが「ある」ということと、何かがある、または何かをする「べき」ということは一致しません。「べき」には目的と価値が含まれていて、「すべては神のご意志」と解釈するような立場を除けば、世の中の「ある」ことをすべて「べき」で説明するわけにはいかないからです。
他方で、すべてが人間の価値判断を排した中立的な客観的「ある」から成り立っているというのも、自然科学的な前提としてそうなってくれているとありがたいのですが、客観的な観察一つをとっても、人間の主観というフィルターを通ってなされるため、これもまたそう簡単に言うことはできません(20世紀の量子力学はそういう問題に実際に直面したわけです)。
そこにギャップがある以上、この「ある」と「べき」はさしあたり分けて考えられることにならざるをえないのですが、自然科学の場合には、科学者が客観的存在を仮定して「ある」の世界を探求したとしても、基本的に仮設と検証の手続きの中で、事実の世界から一種の妄想の世界へと大きく軌道が外れることはなさそうです。
ところが、すでにこの二元論的理解のはじめにおいて、哲学者のカントが述べていたように、人間の理性は存在の本質を見極める力を持っていない(いわゆる「物自体」を認識できない)のだとすれば、現実の世の中において、どのように生きていったらいいのでしょう。生きるべき指針は理性からは出てこないように見えます。
カントの場合は「べき」の世界が究極の価値である神から発していることを確信していたので、この「べき」が「ある」の世界でもごくまれに実現することがあるという一つの筋道をとらえて、「ある」の世界と「べき」の世界、そして、「べき」の世界を支える神とが「実践」においてつながりうることを証明します(『実践理性批判』)。
有名な「満天の星空と、わが心のうちの道徳律」という表現がこのカントの立場を象徴しています。人はしばしば人生において何事かを「こうあるべきだ」と信じ、公言したりもしますが、現実にはそれを実行する人は極めて少数だとカント自身も言っています。確かに、言っていることとやっていることがちぐはぐで、口では立派なことをいいながら、行動はさっぱりだという人をしばしば見かけるわけです。
しかしその一方で、同じこの世において、神様のはからいとしか思えないような、ふつうの人びとの善行を目にするだけでなく、そのお世話になることもあるわけです。理屈ではなく実践において、人はしばしば神とつながる通路をしっかり確保しているようにも思えます。
「ある」と「べき」との二元論が矛盾に終わらず、一人の人の中で実行されうるというカントの発見は、哲学に「実践」世界での可能性があることを示してくれたということができるでしょう。
「ある」の論理(形式論理)に時間や目的、そして人間の行動を組み入れた形でこの二元論を解消しようとするとき、ヘーゲルの弁証法が威力を発揮します。論理という意味ではヘーゲルと方向は正反対だとしても、マルクスもその枠組に入ります。
この間の事情は詳述しませんが、新カント派の哲学者たちは論理としては弁証法をとらず、つまり、ヘーゲルもマルクスも受け容れずに、この二元論を残したまま、「べき」の方から形式論理的に考えていこうとします(この項続く)。
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