学問・資格

2018年4月22日 (日)

私の研究歴

学園内広報誌に書いた原稿をこちらに再掲しておきます。
このブログにはしばしばこういう形で載せていますのでよろしくどうぞ。

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 私の元々の専門は法哲学ですが、大学院に入った当初はフランス社会学のデュルケームやモースの民族学・人類学的業績を、オーストリア出身の法哲学者、ケルゼンの根本規範の問題と重ね合わせて考えてみたいと思っていました。構造主義やその後のポストモダニズムの思想家たちが登場してきたところでしたので、当時流行の現代思想の影響も受けながら、研究テーマを設定しようとしていました。

 大学院入試の際の外国語科目を英語ではなくわざわざフランス語を選択して受けたのも、指導教授のN先生がフランス哲学畑だったことと、将来のフランス留学を視野に入れていたからです。学部のころにはフランス語会話と読解の授業でそれぞれいい先生に巡り合っていたこともあり、フランス哲学・思想・文学はよく読んでいました。

 というわけで、当時はフランスに留学する気満々だったのですが、それがどういうわけかハンガリー研究を専門とするようになってしまいました。なぜこういうことになったのかについてここで述べようと思うのですが、これにはいろいろな偶然と幸運が重なっています。

 当時の大学院修士課程の同級生が同じ法哲学専攻で私の他に三名いて、その三名は皆私の指導教授預かりで、実質は当時助教授の経済人類学者K先生の学生でした。それで、私も元々講義に出ていたK先生とは面識があったこともあり、ゼミや研究会に誘われて顔を出すようになったのですが、その中でハンガリーのとある法哲学者の研究を勧められ、その話に乗ったはいいものの、そのまま乗り続けて今日に至ているという次第です。あとでわかったのですが、K先生は指導下の学生にはほぼ全員といっていくらいにこのハンガリー研究を勧めていたそうです。ただし、この話に真面目に乗ってハンガリー語講座に通ったりしたのは私だけだったようです。

 ハンガリー語の文法の学習も一通り終え、博士課程に入った二年目の春に、育英会の奨学金がまとめてもらえる時期でもありましたので、大韓航空の格安航空券を調達し、三ヶ月ほどハンガリーに行ってきました。当時のハンガリーは社会主義体制で日本の一〇分の一ほどの生活費で暮らせたこともあって、旅行者にしては長く滞在できました。現地では研究者に会ったり、文献を集めたりして過ごしました。帰りの飛行機をパリ発にして、パリにも一週間ほど滞在してきました。

 翌年の同時期も同じような数ヶ月を過ごしていたのですが、その翌年の一九八七年から三年間は幸いハンガリー政府給費留学生として正式に留学することができました、留学期間中に博士論文も執筆・提出し、帰国前日に口頭試問というぎりぎりのスケジュールでしたが、いろいろな人のお陰で充実した留学生活を送ることができ、今でも感謝に堪えません。

 一九九〇年に帰国して大学院に戻りましたが、その後大学の非常勤講師や日本学術振興会特別研究員を経て、知人の紹介で当時の名古屋法経専門学校堀田校にお世話になり、二〇〇二年からは短大で教えるようになって今日に至ります。

 これまで論文や著書を通じて研究成果を発表してきましたが、最初に私が関心を持ったデュルケームやモースの社会学、人類学、ケルゼンの法哲学はハンガリーの法哲学思想史の中でも実際に重要な役割を果たしていたことがわかり、すべての研究が実はつながっていたことに今更ながら驚かされています。当時のK先生は「フランスなんか行ってもダメだ。ハンガリーに行くと国家が見えるんだ」とおっしゃっていましたが、直感の鋭い人ですので、根拠不明ながら、おそらく何か感じるところがおありだったのでしょう。結果としてフランス社会学にも広がりのあるハンガリー法思想史研究が可能となりました。そして、今現在はケルゼンとハンガリーの法哲学者ショムローとの関係についての考察に取り組んでいるところですから、当初研究してみたかったテーマに戻ってきたような感じです。

 法哲学の理論的研究としては、法的判断を下す前提となっている様々な価値基準の問題に取り組んでいます。これは簡単に言って、人間の文化的あるいは宗教的偏見や「間違い」についての研究です。社会心理学や行動経済学、意思決定理論や進化心理学の最新の研究成果も積極的に取り入れるようにしています。人間は間違う生き物だということを前提にした制度設計が広く行われるなら、間違いを将来に活かせるだけでなく、人びとが過度のプレッシャーから解放された、より生きやすい世の中になるのではないかという期待と希望を持って研究に取り組んでいます。

【主要著書】
『歴史の哲学、哲学の歴史―ことばの創造力』(中部日本教育文化会2017年)
『間違いの効用-創造的な社会へ向けて』(ふくろう出版2015年)
『価値と真実-ハンガリー法思想史1888-1979年』(信山社2013年)
『権力の社会学-力が生まれるとき』(ふくろう出版2012年)
『人びとのかたち-比較文化論十二講』(ふくろう出版2011年)
『法と道徳-正義のありか』(日本出版制作センター2009年)
『行政法 クロネコ起業物語』(コンポーザーズアーカイブ2005年)
『人と人びと-規範の社会学』(いしずえ2003年)

2017年3月 1日 (水)

「ゆるさ」の効用:ハンガリーから「天才」が生まれる理由

以前書いたまま迷子になっていた原稿が出てきたので、とりあえずここに再掲します。
 ハンガリー出身のノーベル賞受賞者は2006年現在で13名を数えます。これは人口比では世界一の数字です。さらには、ノーベル賞受賞者ではありませんが、数学者のJ・フォン・ノイマンやP・エルデシュのような正真正銘の天才を現代世界の様々な分野に送り出してきています。私たちの身の回りを見渡しても、ボールペンやルービックキューブ、ワープロソフトのWordなど、ハンガリー人による発明品がいくつも目にとまります。
 なぜこれほどまでにハンガリーという小国が才能を輩出するのかという、この現代史の謎とでもいうべき問題を取り扱った書物には、古くはL・フェルミの『亡命の現代史−二十世紀の民族大移動』(みすず書房)や、最近ではGy・マルクス『異星人伝説』(日本評論社)といった邦訳もあります。とりわけ後者は「ユダヤとの混交」という節でハンガリー文化とユダヤ人の関係に触れています。
 実際、こうしたハンガリー出身の世界的著名人たちの圧倒的多数が、ユダヤ系ハンガリー人であることも確かです。彼らは19世紀後半に中東欧近隣諸国やロシアから自由を求めてハンガリーに移住してきたユダヤ人たちの末裔です。そして彼らがハンガリー文化を積極的に受け入れた、いわゆる「同化ユダヤ人」であったことも特筆すべき事実です。もしもハンガリー出身のユダヤ人の業績がすべてそのユダヤ性に由来するとしたら、後でみるようにお隣のオーストリアの亡命ユダヤ人たちと同じような性格を持ったものとなったことでしょうが、両者には実際かなりの違いが見られ、それぞれにハンガリー的であり、オーストリア的あるいはブダペスト的、ウィーン的な性格を備えているように思われます。
 後に彼らの一部は、政治的環境の変化のために、より自由な活躍の場所を求めてハンガリーを後にすることになりますが、亡命先のアメリカの原子力開発委員会やハリウッドの映画村においても、周囲の人にしてみると「異星人の言葉」にしか聞こえないハンガリー語を喋り続けては顰蹙を買ったりしています。
 さて、ここで、ハンガリー文化が亡命ユダヤ系ハンガリー人の間でどのように生き続けていたかということについて、一つの逸話を紹介しておきましょう。
 かつて、ノーベル化学賞の候補に推薦されることを拒んで哲学へと転じたというユニークな経歴を持つハンガリー出身の科学哲学者マイケル・ポランニー(ポラーニ・ミハーイ1891−1974)は―拒まなければ受賞は確実だと言われていましたし、もしそうなっていれば、後に受賞した息子のJ・C・ポランニーと合わせて史上初の親子二代の受賞となるところでしたが―、その晩年の死の床にあって、見舞いに訪れたハンガリー人の友人が呼びかけたときには、もはやまともに応答できないほどにハンガリー語を忘れていましたが、そのときでも、若い頃影響を受けたハンガリーの詩人E・アディの詩だけはそらんじることができたそうです。
 ポラーニ家の家庭内での使用言語はまずはドイツ語、ロシア語、ハンガリー語に英語だったので、ドイツやイギリスでの生活が長かったマイケルがハンガリー語を忘れてしまうのも無理はありません。しかし、それだけにこの逸話は、ハンガリー文化が亡命ユダヤ人たちの心の奥底にしっかりと根付いていたことを物語っていると思われます。
 ちなみに、同時代のユダヤ人ということならば、お隣のオーストリアにも、いわゆるウィーン世紀末文化を彩った華々しい才能が集っていました。こちらの才能は明らかにオーストリア文化圏の中で培われたものでしょう。たとえば、トゥールミンとジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』(平凡社)や上山安敏『フロイトとユング』(岩波書店)といった名著がこの時代の芸術文化と歴史的背景を見事に伝えてくれています。
 このウィーンとブダペストは、同じハプスブルク帝国内の、それほど距離的に離れていない場所にありながら、そこから育っていった才能の一団はそれぞれが全体として極めて対照的な特徴を示しているように思われます。
 ウィーンのユダヤ文化は感覚的に洗練されていて、何者かに抑圧されるかのような重苦しい空気の中で、マニアックなまでに精密かつ繊細な美しさを追求し、重苦しい圧力から自己の内面の解放を企てる一方で、どこまでも律儀に合理的な説明を求めていくといった傾向があるように思われます。
 他方、ブダペストのユダヤ人たちは、ハンガリー人の影響を受けてか、おおざっぱでせっかちで現実的です。一見矛盾するいくつかの要素を意外な仕方でつなげて見せることに秀でていて、合理的説明にこだわるよりも先に、科学的発見・発明の成果を実際に示してしまいます。ウィーン学団の論理実証主義のようにひたすら論理にこだわるようなことは、得意でないというより、ほとんど体質的にうけつけないようにも見えます。
 たとえば、ウィーン出身の哲学者で論理実証主義にも多大な影響を与えたウィトゲンシュタインは著書『論理哲学論考』の最後の頁で「語り得ぬものに対しては沈黙せねばならない」という有名な台詞を残しています。これが、ブダペスト出身のM・ポランニーでは、ウィトゲンシュタインのセリフとは対照的に、人間には「語りうる以上のことを知る能力」がある(『知と存在』)ということになります。同じようなことを言っていても、ポランニーは沈黙せずに、いくつものノーベル賞級の科学的発見をなしとげた上に、これを「暗黙知」という概念で展開させては、哲学者としても積極的な発言をしています。
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 さて、ここで、ハンガリー流に話題を飛躍させて、私なりにひとまずの結論を述べておきましょう。というのも、こういう問題は論証できるものではありませんし、そうでなければ、仮説を提示するという形でしか答えようのない種類のものだからです。
 すなわち、ユダヤ系ハンガリー人たちには、ハンガリー文化の持っている一種の「ゆるさ」が決定的な影響を与えているということなのです。そして、そのことが、彼らの破天荒なまでに自由な発想の飛躍を可能にし、その才能を引き出すことに成功したと考えられるのです。
 ここでいう「ゆるさ」というのは、私たち日本人がハンガリーで生活を始めたときに必ずといっていいほど悩まされる、あの「いい加減さ」と同じものでもあります。ハンガリー人ときたら約束は守らないわ、時間には遅れるわ、とんでもない不注意なミスはするわで、律儀なことではひょっとしたら世界一かもしれない日本人は彼の地でしばしば悩まされるのです。
 私の留学中はまだ社会主義的経済体制だったので、これは社会体制に特有の問題かと思っていたのですが、長年ハンガリーで暮らしている日本人からの情報によれば、このいい加減さは市場経済移行後も健在のようです。近代ハンガリーの行政史といったやや専門的な歴史をさかのぼってみると、これは社会主義の負の遺産というよりは、それ以前からの伝統的なものではないかとさえ思われます。近代化の苦労はいずこも同じですが、このいい加減さは歴史的にも筋金入りといえるかもしれません。
 いずれにしても、これだけいい加減だと、むしろいいこともあるわけで、細かいことに気をつけないということによって、かえって少々のミスは気にしないというおおらかな気風が育ってきますし、こちらのミスも随分と大目に見てくれることがあって助けられたりもします。いい加減さは時には良い加減、つまり心地よさにも通じているのです。
 そして、この「ゆるさ」があるからこそ、身近な友人を大切にし、お互いに信頼しあうという独特の「仲間の集い」 társaság が形成されてきたのではないかと思います。ハンガリーの仲間の集いというのは、気の合う仲間たちがカフェやレストラン、あるいは誰かの自宅のサロンなどに定期的に集まっては世間話を交わすというだけの、本当にのんびりした和やかな会で、そののんびりした空気を味わうためだけに何十年も集まり続けているという習慣です。仲間同士では当然敬語を使わず、年齢が離れていても上下の人間関係ではなく、あくまで心理的に水平の友人関係で話をします。
 他の国のことは知りませんが、この仲間の集いに何度か入れてもらってみると、この習慣はひょっとして他のヨーロッパ諸国にもあまり見られない、ハンガリー独特の文化なのではないかという気がしてきます。ハンガリー人たちは実はひょっとしたらあのウラル山脈の麓で遊牧生活をしていた頃からこうして気のおけない仲間たちが定期的に集っていたのではないかと想像されます。
 それはともかく、この仲間の集いが自分たちの才能を確認し合う場になってきたことは事実です。いくら天才たちといえども、最初からまったく一人きりで活躍し始めるわけにはいきません。彼らが才能を発揮し始めるときには、それを認めて感嘆したり、わがことのように喜んでくれたりする良き観客としての、仲間の存在が必要だからです。
 この「仲間の集い」というハンガリーの美風は―少なくともハンガリー社会に寛容性のある間は―優れた才能を発掘し育てるという点で、世界に向けて偉大な貢献をしたと考えられるのです。
(「愛知県ハンガリー友好協会報」2007年1月号初出に加筆)

2015年5月31日 (日)

ハンガリー調査旅行2015

今年も幸運な科研費のおこぼれで9月にハンガリーに2週間ほど行けることになりました。

共同研究者たちが皆校務に振り回されている中で、私の方はたまたま9月に時間がとれましたので、昨年に引き続き1948年頃の大学法学部のカリキュラムなどを調べてくることにしました。

ありがたいことです。

昨年来法学部にも友人が出来ましたので、法学部図書館にも入りやすくなりました。

こういう機会をもらうと、自分が歴史家の端くれのもっと端くれでもあったことに改めて気付かされます。

大学の非常勤で歴史学概論を教えているのも無理筋ではないと思うことにしておきましょう。

そちらについては別のブログ「歴史学概論の実況中継」を御覧ください。

このところリアルの講義にようやく追いついてきました。

写真はブダペスト大学法学部の入り口です。昨年9月1日の入学式の日に撮影したものです。

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以下は法学部図書館です。ここにこもる予定。

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2015年1月 6日 (火)

イノベーションとジョーク

今書いている本から、ジョークとイノベーションの関係について論じているところをご紹介しておきます。

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ヨハンソンによると、創造のプロセスが笑いのプロセスと似ていることは、ハンガリー出身の作家、A.ケストラーが指摘していたことだそうですが 、確かに、異なる概念を組み合わせることによって新たな概念を生み出すところは、ジョークの仕組みと似ています。
 ケストラーは著書(『創造性』)の100頁以上を費やして笑いと創造の関係を分析していますが、あまりにも真面目に論じられている上に、そこでとりあげられているジョークもそれほど面白くないので、他(ジェレミー・タイラー)からとってきた短いジョーク をいくつか挙げてみましょう。

 犬が逃げちゃったんだ。
 新聞広告を出したらどう?
 何言ってんだ。犬は新聞読めないだろ!

「僕は今まで思い上がっていたけど、今はもう完璧だ!」

(父が息子に)
「お前、話を大げさにするなって、何百万回言わせるんだ!」

 すべてを手に入れた人に何を与えますか?
 同情心です。

(医者と患者)
 先生、私、ずっと自分が犬になったような気がしているんですが…
 いつからそう感じるようになったんですか?
 子犬のころからです。

(医者と患者)
 先生、私、ずっと自分が犬になったような気がしているんですが…
 では、診察台に横になってください。
 台には上がるなって言われているんです。

(2人の男が一緒に通りを歩いていて、一人が急に立ち止まります)
 なんてこった、妻と愛人が話をしている!
 ええっ! それは僕の台詞だ!

 このように論理をずらすことや、会話のやりとりから思いもよらなかった事情や滑稽なイメージを連想させるところがジョークの面白いところですが、その仕組は異なる概念を新たに結びつける行為と重なってくるところがあります。
 したがって、「交差点」となるべき場所が、たとえば産業界の未来がかかっているからといって、冗談の一つも言えないような、生真面目な真理追求の場とかいったものになってはいけないことがわかります。
 なお、このついでにサットン(「マル上司、バツ上司])による毒の効いた切り返しのジョークもご紹介しておきます。もっとも、使い方次第では友だちがいなくなるかもしれませんので、ご用心ください。

— ほかのみんなもそうしてます。これがこの業界の標準なんですよ。
— だったらクソを食えよ。ほかのハエもみんな食ってるぜ 。

2014年12月29日 (月)

愚かな人びと2(実例)

資料を集めていく中で印象に残ったケースを紹介しておきます。

【グルーエンフェルドの実験
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 3人の学生をひとつの部屋に入れ、世間で議論を呼んでいるさまざまな社会問題(中絶問題や環境汚染問題など)について語り合わせる。ただし、三人を部屋へ入れる前にそのうちの一人を無作為に選び、別の二人の意見のどちらが正しいかを判断する権限を与えておく。(その仕事で現金でボーナスが貰えるかもしれないと言い添えた。)
 そして30分後、部屋に5枚のクッキーが載った皿を差し入れる。すると、たいていの場合、”権限”を与えられた学生は当然のようにクッキーを2枚とる。しかも、クッキーを食べながらもしゃべり続け、食べかすが他の二人の顔やテーブルに飛んでも全く頓着しない。
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出典は、ロバート・I・サットン『あなたの職場のイヤな奴』(講談社2008年)ですが、元になっている実験は、
Dacher Keltner , Deborah H. Gruenfeld , Cameron Anderson, “POWER, APPROACH, AND INHIBITION,” Psychological Review, vol. 110. No. 2. 2003. Pp.265-84.
からのものです。

職場でも昇進した途端に態度が横柄になり、権限を振り回す輩は少なくないですが、この実験のように行儀が悪くなるというのは確かに指標の一つになります。

この他に、大学の教員などは特にドレスコードがおかしくなって、TPOが認識できなくなるのがいます。昔のようにネクタイを締めず、ジーンズでいることが反権力的で格好いいと勘違いしているような古典的な人は、さすがに今では少なくなりましたが、基本的にコードが壊れていると感じさせられる人がいます。

それから、自分のほうが地位が上だと思っている人は、周囲に挨拶をしなくなります。意図的に無視しますね。上長に対してはにこやかに擦り寄っていきますが。

こういう人たちは、群れの階層の中で生きている動物みたいな本能的な感覚に支配されているので、自らの行動を理性では制御できないようです。

危険ですのでこういう連中には自分からは近づかないに越したことはありません。

とはいうもののすれ違ったりするときには、にこやかに挨拶だけはしておくべきでしょう。先方が挨拶を返してこなくても気にしてはいけません。向こうは下々のものどもが目に入らないという精一杯の演技をしているだけで、実はハリネズミのようにこちらの出方を窺っていますので、用心が必要です。

くわばらくわばら。

2014年10月 6日 (月)

ハンガリー法学派の系譜(研究報告)

*以下は通信教育部広報誌「PAL」に寄せた原稿です。今までの内容と重なるところはありますが、ご容赦ください。

今年の
8月末から9月初めまで、学術調査で2週間ほどハンガリーに滞在してきました。ハンガリーは4年ぶりです。目的は「1948年前後のハンガリーの法学者をめぐる社会情勢の調査」でした。

私がハンガリー政府給費留学生として首都ブダペストに滞在したのは19872月から19903月まででしたが、実はその2年前の1985年から2年続けて春先の3ヶ月ほどをハンガリーで過ごしていました。

その時期を含めると、ほぼ30年前からハンガリーに関わってきたわけですが、さすがに30年という月日は長く、当時研究や論文作成の指導をしていただいた先生方4人のうち3人がすでに他界されてしまいました。

当時40代だったナジ・エンドレ先生だけは今もお元気で、今回は教え子で、エトヴェシュ・ロラーンド大学法学部の法哲学者、ジダイ・アーグネシュ女史ともお会いすることができました。

ナジ・エンドレ先生は私がずっと研究してきたハンガリー法学派の系譜に連なる思想家です。今回ご紹介いただいたジダイ・アーグネシュ先生もまたこの流れをくむ極めて優れた法哲学者だということが、今回いただいた著作からもわかりました。

ところで、ハンガリー法学派とは、存在の論理と当為(「べき」)の論理との間の矛盾を意識しながら、現実の政治力学や法解釈実務の中で可能な限りの利益衡量をはかろうとする法哲学者の系譜です。

彼らは目まぐるしく変転する近現代ハンガリーの政治状況に翻弄されながらも、粘り強く自身の思索を展開し、また、しばしば政治活動にも関わってきました。

しかし、1948年以降の社会主義ハンガリーにおいては、突然主流となったマルクス主義法学派から「ブルジョア的」とか「修正主義」という烙印を押され、排斥されます。一部の思想家の著作は発禁や閲覧禁止処分を受けてきました。

しかし、社会主義圏の中でも思想統制が1956年以降次第に有名無実化しつつあったハンガリーでは、1980年代に入ると、このハンガリー法学派の知的伝統に対する再評価が始まります。

当時のナジ先生もこの頃からハンガリー法学派についての学術論文と平行して、反体制亡命知識人グループによる国外地下出版物への寄稿も行なっていたそうです(この件については今回初めて話してくれました)。

このハンガリー法学派の知的伝統を発掘し、再評価することには思想史的な意義があるのはもちろんですが、それにもまして、彼らが抱えていた存在と当為の理論的問題を継承し新たに展開させることは、現代の法哲学にとっても一定の理論的寄与ができると考えます。

なお、ありがたいことに、昨年上梓した拙著『価値と真実 ハンガリー法思想史18881979年』(信山社)をハンガリー語に翻訳・出版する話が持ち上がっています。かつて留学中にハンガリー語の博士論文を提出しておいたことがようやく功を奏した形ですが、今回は現地で具体的に話を進めることができました。

ハンガリー語への翻訳は、私が留学中に日本語を教えたことのある(当時は小学生でした)日本文学翻訳家の女性が引き受けてくれました。

しかし、本当のところ、まだ話はしていませんが、この本は私の単著ではなく、ナジ先生とジダイ先生を加えた3人の共著とするつもりでいます。そして、ハンガリー法学派に関する最新の解釈と法理論的考察を含む刺激的な内容にした上で、さらにこれを諸外国に向けて英訳・出版したいと夢想しています。

2014年9月28日 (日)

翻訳出版

今回ハンガリーに調査に行った機会に、以前から話が上がっていた拙著『価値と真実 ー ハンガリー法思想史1888−1979年  』(2013年信山社)のハンガリー語翻訳出版の計画を多少詰めることができました。

先生方の話では、ハンガリーでは久しく法思想史・法哲学史の本が出されていないこともあり、25年前にハンガリー語で書いた学位論文をはじめ、その後少しずつ書きためてきた拙稿を出版する意味はあるとのことです。

当時の学位論文を是非とも出版すべきだと評価してくださった先生は3人いらっしゃいますが、当時は留学期間も終わり、日本での仕事に追われてそれどころではありませんでした。先生方のうち1人はすでに鬼籍に入り、あと2人も70代の名誉教授ですので、こういう話が出てくる最後の機会かもしれません。

私の方は当時の先生方からの高評価を励みに、帰国後ハンガリー研究を少しずつ進めてきましたが、ハンガリー法学派のプルスキ、ピクレル、ショムローまではそれなりに論じることができたものの、ホルヴァートとビボーについては部分的な紹介にとどまり、論じるところまで行っていません。その意味では拙著の副題に「ハンガリー法思想史」と銘打ってあっても、ビボーが亡くなる1979年までというのは本当のところ看板に偽りありです。

また、拙著をそのまま翻訳しても面白くないので、存在と当為についてこだわり続けたハンガリー法学派の意義についてはあらためて思想史的考察を書き足したいと思います。また、ホルヴァートとビボーについてはナジ・エンドレとジダイ・アーグネシュの力を借りて、3人の共著として出版するほうがいいのではないかと個人的には考えています。

その際、著者3名がハンガリー法学派の問題を継承した上で、それぞれの分野で法および社会理論のオリジナルな展開を示すことを目標にしたいと思っています。

さらにその本を英訳すれば、ハンガリー法学派の意義を世界に知らしめることができるなどと夢想したりしていますが、まずはハンガリー語への翻訳ですね。

幸い、翻訳者を見つけることができたので(なんと留学中に日本語を教えたことのあるハンガリー人の研究者・翻訳家です)、作業は10月頃から始められます。資金は科学研究費を申請したいと思っていますが、こういうことに関して審査官が理解があるかどうかは不明です。審査官に与太話と思われたらそれっきりですし。まあ、とりあえず応募してみます。

幸い翻訳の謝礼や短期の渡航費用なら短大の研究費でも申請の仕方次第でさしあたり間に合うので、手続き面などを確認しながら、このプロジェクトを進めていきたいと思います。

2014年9月27日 (土)

「ある」と「べき」の論理4

「ある」の論理は、そのもとをたどれば神様が存在するという信念に支えられた論理でした。その「ある」の論理は、デカルトが転機となって、神の代わりに理性を根拠として成り立つことになり、近代合理主義に基づく自然科学の自明の前提として今日に至ります。

この自明の前提は、量子力学が素粒子を波動なのか物質なのか決めかねたとしても、また、近代科学が人類の生存を脅かす核兵器のようなものまでをも開発するに至ってもなお、現代人の心の中では科学に対する信頼とともに根付いているようにも見えます。19世紀から20世紀にかけての科学万能主義ということになると、もはや神の代わりに科学を信仰しているかのようでした。

他方で、西洋世界におけるキリスト教信仰の衰退と、それに伴う倫理や道徳の退廃、近代市場経済の生存競争の結果拡大する貧富の差、人間を取り替え可能な部品からなる機械と見るような生命観に危機を覚える人びとは、この「ある」の論理によっては語ることのできないものの存在を何とかして回復できないものかと考えていました

この意味では「ある」の論理に対して「べき」の論理を立てるという時点ですでに論理をめぐる社会情勢の危機的状況は深刻化していたわけです。

「ある」の論理は形式論理にほかならないので、デカルトの章で述べたように、そこには感性や情念、信念といったものは含まれません。しかし、これはあくまで形式論理の話であって、言語ということになると事情は変わってきます。

言語はわれわれの生身の肉体から発せられる身体性を備えたもので、論理だけでなく、人間の感情、情念、信念その他、およそ不合理なものもすべて抱え持っています。ルソーが『言語起源論』において、言語の起源は情念から自然に発せられる音であるとしましたが、カントと同時代の18世紀にすでにこうした意識が見られることは、思想史的には興味深い事実です。

時代は整然とした(ように見える)科学的=論理的言語、つまり「ある」の論理に飽きたらず、言語それ自体に近代合理主義が排除してきた非合理的な感性や情念を、また、失われつつある道徳や倫理を盛り込んだ「べき」の論理によるテキストを求めるようになります。

こうして、「ある」と「べき」の問題すなわち「存在」と「当為」の問題は、カント以来の問題であると同時に、結局近代合理主義の矛盾が科学の発展とともにますます拡大していく20世紀においても一向に事情が変わらなかったということから、新カント派によって改めて問題にされたと見ることができます。

この問題は、カントはもとよりそれ以前の神学の論理までさかのぼるという点でも論じ甲斐のあるものですが、社会と法、言語と制度といったテーマを考える際にも多くの手がかりを与えてくれます。

ハンガリー法学派が100年以上にわたってこの問題を代々継承してきているのも、特殊ハンガリー的な事情だけでなく、何よりも社会科学が考え続けていくべき根本問題が含まれているからだと思われます。

このことについては私の今の研究の進捗状況とあわせて、またあらためてお知らせします。

2014年9月24日 (水)

「ある」と「べき」の論理2

人としてこの世に生まれた以上、自分はどう行動す「べき」か、とかこの世はどうある「べき」かという問題から離れるわけにはいきません。仮に1から10まで誰かに言われたとおりにふるまっているとしても、その誰かの指示に従う「べき」という問題がついて回りますし、そちらのほうが有利だとか楽だという価値判断がその「べき」に先立って行なわれています。

二元論的思考も本来はこの二つをいつまでも並べ立てておくのではなく、必ず一方が他方より優位にあることを強調しますが、どういうわけか劣位に置かれたものが自立して優位にあるものを取り込んでしまい、本来の価値体系が壊れてしまうということが起こります。

キリスト教思想家のフランシス・シェーファーは「恩寵と自然」(トマス)、「自由と自然」(ルソー)、「信仰と合理性」(キルケゴール)、といった二元論において、後者が前者を滅却してしまう様子を思想史的な流れの中であとづけています(シェーファー『そこに存在する神』)。

この図式が大枠で正しいとすれば、「ある」と「べき」の二元論においても、現状の失われた倫理や道徳を回復しようとして「べき」の優位を確立しようとすると、実はかえって「ある」の論理が科学万能主義や人間=機械論として確立されてしまうのではないかというおそれが出てきます。

これが弁証法論理なら一つの過程に対する対立項を恣意的に選択し、その中で論者の意図する方向に時間と行動をセットすることで、過去から将来にわたって整然とした理性と情熱的な人類愛の物語を紡ぎ出すことができます。

この論理は多くの人々を煽動する力を持っていましたし、今も変わらず持っていますが、それは新たな社会を創造するという宗教的情熱によって支えられているからだと見ることができます(ベルジャーエフ)。

しかし、ドイツの「30年戦争」(1618〜1648年)のように宗教による血で血を洗うような争いを無効化する仕組みとして、近代市民社会という脱宗教的な「法の支配」に基づく社会制度を築き上げてきた西洋社会において、歴史の流れに逆行するようなことだけは認められません。

この意味で、新カント派はヘーゲル以前のカントの二元論的思考に戻って近代科学を基礎づけようとするわけですから、かなり困難な戦いを強いられていたように見えます。その中でもとりわけハンス・ケルゼンが目指していたのは「ある」の論理に対して「べき」の論理体系を構築することでした。(この項続く)

「ある」と「べき」の論理1

ハンガリー法学派が取り組んできた「存在 Sein 」と「当為 Sollen 」の問題は、カント以来の合理主義哲学の問題であると同時に、法学にとっては「事実」と「規範」の二元論としてつねに意識せざるをえない問題です。

もともと何かが「ある」ということと、何かがある、または何かをする「べき」ということは一致しません。「べき」には目的と価値が含まれていて、「すべては神のご意志」と解釈するような立場を除けば、世の中の「ある」ことをすべて「べき」で説明するわけにはいかないからです。

他方で、すべてが人間の価値判断を排した中立的な客観的「ある」から成り立っているというのも、自然科学的な前提としてそうなってくれているとありがたいのですが、客観的な観察一つをとっても、人間の主観というフィルターを通ってなされるため、これもまたそう簡単に言うことはできません(20世紀の量子力学はそういう問題に実際に直面したわけです)。

そこにギャップがある以上、この「ある」と「べき」はさしあたり分けて考えられることにならざるをえないのですが、自然科学の場合には、科学者が客観的存在を仮定して「ある」の世界を探求したとしても、基本的に仮設と検証の手続きの中で、事実の世界から一種の妄想の世界へと大きく軌道が外れることはなさそうです。

ところが、すでにこの二元論的理解のはじめにおいて、哲学者のカントが述べていたように、人間の理性は存在の本質を見極める力を持っていない(いわゆる「物自体」を認識できない)のだとすれば、現実の世の中において、どのように生きていったらいいのでしょう。生きるべき指針は理性からは出てこないように見えます。

カントの場合は「べき」の世界が究極の価値である神から発していることを確信していたので、この「べき」が「ある」の世界でもごくまれに実現することがあるという一つの筋道をとらえて、「ある」の世界と「べき」の世界、そして、「べき」の世界を支える神とが「実践」においてつながりうることを証明します(『実践理性批判』)。

有名な「満天の星空と、わが心のうちの道徳律」という表現がこのカントの立場を象徴しています。人はしばしば人生において何事かを「こうあるべきだ」と信じ、公言したりもしますが、現実にはそれを実行する人は極めて少数だとカント自身も言っています。確かに、言っていることとやっていることがちぐはぐで、口では立派なことをいいながら、行動はさっぱりだという人をしばしば見かけるわけです。

しかしその一方で、同じこの世において、神様のはからいとしか思えないような、ふつうの人びとの善行を目にするだけでなく、そのお世話になることもあるわけです。理屈ではなく実践において、人はしばしば神とつながる通路をしっかり確保しているようにも思えます。

「ある」と「べき」との二元論が矛盾に終わらず、一人の人の中で実行されうるというカントの発見は、哲学に「実践」世界での可能性があることを示してくれたということができるでしょう。

「ある」の論理(形式論理)に時間や目的、そして人間の行動を組み入れた形でこの二元論を解消しようとするとき、ヘーゲルの弁証法が威力を発揮します。論理という意味ではヘーゲルと方向は正反対だとしても、マルクスもその枠組に入ります。

この間の事情は詳述しませんが、新カント派の哲学者たちは論理としては弁証法をとらず、つまり、ヘーゲルもマルクスも受け容れずに、この二元論を残したまま、「べき」の方から形式論理的に考えていこうとします(この項続く)。

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